第3話 「見る」ということ

 何が違うというのか。

 休み時間が始まると、僕はパイプ椅子に腰掛け、教室の子どもたちを眺めていた。いつもと何も変わらない風景が広がっていた。友だち同士で談笑する姿。数人は、教科書やら参考書やらを開いて勉強をしている。その後ろで騒がしくしている男子たち数人が突っつきあっていた。

 ふと、幸子のことが気になった。彼女は今、どうしているだろうか。教室にはいなかった。

 果たして、彼女は廊下の掲示物を眺めていた。なんてことはない廊下掲示である。国語の時間に書いた詩が掲示されていた。

 廊下に出た僕と一瞬だけ目が合ったのだけれど、すぐに彼女は目を掲示物に戻した。ただ、なんとなく声をかけなければという気がした。何と声をかけていいのかわからぬまま、僕は一歩だけ彼女の方に足を向けた。

 その瞬間だった。彼女は私に背を向けると、後ろの扉から教室の中へと消えた。


 (避けられている)



 直感でそう感じた。声をかけるタイミングを失った僕は、それとなく彼女が眺めていた掲示物に目を移した。そこには、とりたてて上手いわけでもないクラスメイトの詩が掲示してあるだけだった。



「田坂先生!」



僕を呼ぶ声がして振り返った。声の主はハテンコー先生だった。



「どう思う?」


「どう…って、何がですか?」



ハテンコー先生が、幸子のことを話題にしているのは明らかだった。けれど、僕はその話題を避けたくて、わざと気づかぬふりをしたのだった。

 けれど、彼は構わず話し続けた。



「鈴木さん、最近一人でいることが増えたよね」


「そうですか?今の時間はたしかに一人でしたけど、普段はみんなといますよ」



 そう、今日はたまたま一人だっただけだ。だれだって一人で過ごしたいときもあるだろう。それをいちいち孤立と思っていたら、みんな孤立していることになってしまうじゃないか。



「鈴木さんね、いつも自分からみんなの方に声かけに行くじゃない?前まではさ、みんなの方から寄っていっていたよね」


「…そうですか?」


「廊下で見てて思うんだよね。理科室とか音楽室とか他の教室に行くのも、一人のことが増えたなぁって」



僕は、何も言葉を返せなかった。そうだともそうでないとも言えなかった。なぜなら、見ていないから。



「教室の姿ってさ、先生の目があるから、子どもたちもそれなりに気を使うんだよね。そうじゃないときをよ~く見てごらんよ。たとえば、今の休み時間の姿とかね」



そういうと、ハテンコー先生は優しく微笑んで、僕の教室へと入っていった。次の時間は国語。ハテンコー先生の授業だった。




 ハテンコー先生は「よ~く見てごらん」と言った。僕は、だんだん「見る」ということがわからなくなっていた。僕の「見る」とハテンコー先生の「見る」は何が違うのだろうか。

 教室で見ている彼女をだれかがいじめているなんてことはなかった。孤立しているような様子もない。休み時間になると、同じクラスの田中さんのところに駆け寄っていって、おしゃべりをしている。どちらかといえば、田中さんの方がこれまで孤立していることが多かったぐらいだ。



「何か見えたかい?」



ハっとして振り返るとハテンコー先生がいた。



「いや…、見てください。今だって、楽しそうにおしゃべりしていますよ」



そうは言ったものの、僕はすっかり自信がなくなっていた。



「田中さんと仲よかったんだっけ?どんな会話をしてるんだろうねぇ。田中さんにそれとなく聞いてみるといいよ」



そう言うと、ハテンコー先生は足早に職員室へ続く廊下を歩いていったのだった。

 その日の放課後、下校する田中さんを捕まえて声をかけた。



「あっ!田中さん、ちょっといい?」



田中さんは一瞬怪訝そうに眉をひそめ、面倒くさそうに応えた。



「なんですか?急いでいるんですけど…」



なかなか突起にくい性格で、これまでもよく孤立してきた子だった。鈴木は、この子とどんな話をするのだろう。



「いや、最近、幸子と仲良くしてるな~と思ってさ」

すると、彼女はきっぱりと言った。


「仲良くなんかないですよ」



僕は、思わず背筋を伸ばした。


「どうして?今日だって一緒にお話してたじゃない?」


「あの子が一方的に話をしてきただけです。私は本を読みたかったのに。何読んでるの?とかしつこく聞いてくるんです」



僕はますます混乱して、どう言葉をかけていいのかわからなかった。



「先生、もういいですか?見たいアニメがあるんです」


「あぁ…、うん。さようなら…」



 彼女は僕を押しのけるようにして通り過ぎた。僕は彼女を目で追うことすらできなかった。ふと、校舎の窓ガラスに映る自分の顔に目をやった。

 なんとも間抜けな顔をした男がそこには映っていた。





 「見るってのは難しいよ。僕らは自分の見たいように見てしまうんだ。いじめはない、そう思うと、そういうフィルターで見てしまう。人間ってのはさ、自分に都合よく見てしまうんだよ」



ハテンコー先生は、浅く椅子に腰掛けていた。マグカップを両手で包み込みながら、優しく微笑んだ。



「僕はどうしたらいいんでしょうか?」



僕はか細い声で尋ねた。もう後戻りができないような気がしていた。



「明日もう一度、フラットな気持ちで見てごらん。いじめがある、孤立している、そんなフィルターも要らない。鈴木さんはだれといる?どんな表情してる?よ~く見てごらん」


「よく見るってメモとか取った方がいいですか?」



僕は藁にもすがる想いだった。



「メモなんか要らないよ。ただ見る。そして感じる、気づく。これが大事ね」


「感じる、気づく、ですか…」


「そうだよ。フラットな気持ちで子どもをよく見る。その行動や表情から、感じるのね。気づくのね。



 頭で考えるじゃなくて、見て、感じて、気づく。これは基本の基だね」

 僕は、何も感じていなかった。だから、なにも気づけなかったのだ。恥ずかしくて仕方がなかった。



「いいかい?そして、自分に問いかけるといい。彼女が抱えている痛みは何だろう。そう問いかけるの」


「彼女ではなく、僕自身に問いかけるのですか?」


「そうだよ、自分自身に問いかけるの?問いが生まれれば、答えが生まれる。いいかい?いつだって変えられるのは自分だけさ」



 僕は今日までそんなことを言われたことはなかった。いつも、子どもを変えようとしていた。それが先生の仕事だと信じていた。



「変えられるのは、自分だけ…」



そう独り言のようにつぶやいた。僕はまだやり直せるのだろうか。



「最初からうまくいくヤツなんていないさ。悩んで学んで一人前になるんだ。悩まないヤツに未来はないよ」



 僕は何を言っていいのかわからなかった。返す言葉すら見つからず、ただ、膝の前で組んで手の平を見つめていた。ハテンコー先生が後を引き取った。



「楽しいよなぁ、学校って。いろんなことがあってさ」



 そういうと、ハテンコー先生をカバンをもって職員室を足早に出ていった。いつもはだれよりも早く帰るのに、今日は珍しく遅い時間までいたことになる。

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