第三話【雨空と君③】
MISAWA文具カンパニー。
それが俺の務めている会社の名前だ。
会社に着くと俺にはいつも楽しみにしていることがある。
それは会社に備え付けられたバリスタで珈琲を飲むこと。
そして事務員である
「おはようございます。黒崎さん。今日は早いんですね」
「おう、おはよう。南」
パソコンのキーボードを弾いていた手を止め、俺の元に振り返る南。
肩まである茶色のショートカットを揺らし、微笑ましくはにかむその姿を見ていると、「さぁ、今日も仕事を頑張るぞ」という気持ちになるのはきっと俺だけではないはずだろう。
その証拠に南はこの会社一のアイドルというポジションを得ている。
会社の上司や後輩も南の美貌には一目置いており、皆彼女のことを慕っている。
だが、彼女がアイドルという異名を得ているのは、何も可愛いからだけじゃない。
仕事も優秀。性格も完璧。しかもスタイルも抜群ときている 。
長年この会社に腰を下ろしているお局でさえ、彼女の秀逸さには嫉妬すら覚えないくらいだ。
しかし、不思議なことに彼氏はいない。
俺達に伝えていないだけかもしれないが、裏表のない彼女の性格だ。
おそらく本当に居ないのだろう。
まぁ、その方が俺にとっても、好都合なんだろうけど。
「今日はまだ井上さん、来てないんだな」
井上とは俺の直属の上司であり、会社で最も親しい先輩である。
「はい。今日はいつも通り私が一番乗り。そして珍しいことに黒崎さんが二番乗りでした」
「珍しいことには余計だ。・・・と言いたいところだけど、実際その通りだもんな」
俺はいつも出社時刻十分前には到着しているが、この会社の従業員は皆二十分前には到着していることが多く、俺はいつも肩身の狭い思いをしていた。
「家が遠いから仕方ないだろ。それに遅刻しているわけじゃないから、ルールを破っているわけでもない」
「まぁ、確かにそうですね。それにこうしてたまに朝早く来てくれた方が、朝の楽しみも増えますから」
立ち上がりバリスタに向かいコーヒーを入れながら、こちらに背を向けて南がポツリと呟く。
俺はその言葉を聞き逃さなかった。
「・・・喜びが増すってのはどういう意味だ?」
「そこはご想像にお任せします」
・・・全く。こういうところが、この子の気を持たせるポイントなんだろう。
正直なところを言うと、俺は南のことが好きだ。
どこが好きなのかと言われれば全てとしか答えようがない。
少しキザかもしれないが、そう考えてしまう程に俺は南のことが好きだからだ。
初めて南を好きと認識したのは彼女がこの会社に就職してきて三ヶ月が経った頃。
忘年会が終わった後に帰り道が一緒だった南と帰宅していると、彼女がある質問を俺に尋ねてきた。
『ーー先輩って、チョコ好きですか?』
別に甘いものが嫌いではなかったので俺は黙って頷いた。
すると南は「なら、良かった」と鞄から
包み紙も剥かず、豪快にチョコを半分に割ると南は「おっきい方食べていいですか?」と一言。
これに対し俺は黙って頷く。
『じゃぁ、はい。どうぞ』
差し出された半分に割れたチョコを眺めながら、俺はひとりでに笑ってしまった。
飲んだ後にラーメンやうどんを締めに食べるのなら分かるけど、チョコって。
そんな俺の思惑など知るよしもない南は自分の分の板チョコを口にする。
それも上品に食べるのではなく、大口で頬張るように音を立てながらだ。
俺も彼女に続けて小さく一口。
正直大人になってからは板チョコなんてあまり食べたいと思わなかったが、こうして久しぶりに食べてみると意外と美味いもんだ。
隣を見ると南は嬉しそうに板チョコを食べ進めている様子だった。
すると、俺の視線に気づいた南は頬を赤らめると、食べかけの口元を左手で抑える。
『好きなんですよ。お酒飲んだ後に、こうやってチョコ食べるの・・・ちょっとはしたないですかね?』
口元にチョコをつけ上目遣いで見上げられたその時、俺は不覚にも可愛いと思ってしまった。
その日から俺は南のことを意識するようになった。
そして月日を重ねるほどに、俺の南に対する恋心は増していった。
もしかしたら南も俺の気持ちに気づいているかもしれない。
だが、お互いにそんな色恋沙汰の話題になることはない。
直接相手に聞いて勘違いだった場合に関係性が気まずくなるし、そもそもそんな勇気を俺は持ち合わせてはいない。
その時、プルル。と南の机に置いてある子機が鳴った。
彼女は慣れた手つきで受話器を取ると、少し高めの声で電話の対応に応ずる。
タイミングの悪い電話だ。
一体、相手は誰だ?
「黒崎さん、係長から至急
あぁ、全くタイミングが悪いのは電話だけにしてくれ。
俺は片脇に鞄を抱え、「全く、もう少しゆっくりさせてくれよ」と愚痴混じりに言い残し、冷めた珈琲を一気に喉元に流し込む。
朝一から石用製品の爺さん達の顔なんぞ見たくはないが、ここで行かなければうちと他社との大切なパイプが途切れちまう。
「頑張ってくださいね。黒崎さん」
後ろから聞こえてくる南の声に対し俺は後ろ手を振るい返事を返す。
まぁ、朝から南と会話出来たのだ。
これくらいのハプニングは、多めにみてやろう。
気だるい気分で押したエレベーターのボタンは、ただカチカチと点滅するようにいつまでも動いていた。
たとえ、聲が枯れても @masiro0202
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。たとえ、聲が枯れてもの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます