第36話 知らぬが仏
「む……予約の手配をしていたはずだが、それはどういうことか?」
午前中に昨日とは別な美術館を見学した後、アーファ一向はウェフォール一座の舞台を見るべく、劇場へとやってきた。が、劇場の受付で何やらアーデンが係の者と揉め始める。
「申し訳ございません。招待席をご予約いただいておりましたが、予約の上書きがありまして……」
受付の女性は歯切れの悪い声で謝罪する。
「予約の上書きだと?」
車いすに座ったアーファは心配そうな眼差しでそのやり取りを見つめていた。彼女があんなにも楽しみにしていた舞台だというのに、彼女が落胆するかもしれないことを考えて、ゼロとルーの表情も険しくなる。
「はい、水の都のフィーラウネ公爵様より予約が入りまして……公爵は当一座の最大のスポンサーですので、無碍にはできず……」
「フィーラウネ公爵……ふむ……。では通常の席でも構わん」
予想以上の大物の名前が出てきたことで、アーデンが怯む。
彼の出自たるクラックス家は侯爵位を賜る貴族だが、アーデンに与えられているのは子爵の称号のみ。中央貴族ではないといえ、公爵位を賜る貴族と比べればその序列は明らかに上の存在だ。
「一般販売は既に完売となっております……」
「予約を無断で取り消した上に、代替の席も用意してないというのか?」
普段穏やかなアーデンの口調が厳しくなる。彼が元皇国軍の騎士だったのは伊達ではないのだろう、それほどの圧が感じられた。
「も、申し訳ありません……! 次回公演を最優先でご招待させていただきますので――」
「――次回公演は3日後だろう。それでは間に合わんのだ!」
大スポンサーたる公爵からの急な予約を受け、ウェフォール一座の担当もかなり慌てたのだろう。だがそうだとしても明らかな相手方の不手際に、思わずアーデンは声を荒げる。何事かと周囲の者たちも驚き、老紳士へと視線を集めていた。
アーデンの威圧を受け、既に受付の女性は涙目だ。
「……失礼。非礼を詫びよう。だが娘は明後日には中央に戻らねばならぬ身。ウェフォール男爵と話がしたい。呼んでくれ」
「ざ、座長は公演前ですので、現在リハーサルを行っておりますので――」
ギロっとアーデンの睨みを受け、受付の女性は肩をすくませる。普段温厚な人物ほど怒らせると怖いな、とゼロはぼんやりとアーデンの動きを眺めていたが、昨夜は桃色の髪の少女のことをずっと考えていたせいで、時折強烈な眠気に襲われているようだった。
「何かお困りですか?」
そこに、見知らぬ声が割って入る。
赤い髪を後ろで束ねた黒い法衣を着た、少々愛想に欠けるが整った顔立ちの真面目そうな少女がアーデンと受付の女性との間に入るように立っていた。
「いえ、なに。娘が楽しみにしていた舞台が見れなくなりそうで、少々熱くなってしまいました。御嬢さんにはお見苦しいところを見せてしまいましたかな」
アーデンやアーファと同じく、黒の法衣を纏っているということは、彼女も子爵家の貴族の娘なのだろう。
“娘”という単語に反応した赤い髪の少女が周囲を伺うと、上目使いで見上げてくる車いすの少女と目が合った。
「明日にはこの街を立たねばならぬので、どうにか見せてやりたかったのですが……」
アーデンの言葉には、演技を越えた感情がこもっているように感じられた。
自分より先に子を亡くし、もし息子が生きていればアーファより少し下くらいの年齢の孫がいてもおかしくなかったのだ。
今は都合上娘という設定で接しているが、本当に娘や孫がいたならば、という願望にも似た感情を抱いているのかもしれなかった。
「もしや、招待席を予約されていたのですか?」
予想していなかった赤い髪の少女の言葉にアーデンの表情に驚きが浮かぶ。
「ええ、我が兄がウェフォール男爵の知人でしてね、招待席を予約していたのですが……」
もしや、という想像をしたアーデンの語尾が濁る。
「ああ、やはり……この件の一端は我が主にもあるかもしれません。よろしければ、3枚しかないのですがこちらのチケットをお譲りしますが、受け取っていただけませんか?」
赤い髪が“我が主”と呼んだ時、ちらっと後方に視線を配ったのが、その方向へ視線を送ると桃色の髪の紫の法衣の少女と、黒髪の薄緑の法衣の少女の後ろ姿が見えた。
――昨日の……!!
見間違うはずもない、昨日心奪われた少女の後ろ姿を目にしたその瞬間、ゼロの眠気が全て吹き飛び、折角落ち着かせたはずの昨日の感覚が戻ってくる。
「おお……これはありがたい! ぜひ貴方の主殿にお礼申し上げたいのですが」
ゼロがそんな風になっているとは露知らず、赤い髪の少女はアーデンの言葉を聞くと、微笑みを浮かべて車いすから上目使いに見上げて来ていたアーファへ3枚のチケットを手渡した。
具体的な名は出さないが、紫色の法衣の少女の姿を確認したアーデンは、間違いなく彼女の主がナターシャ家の令嬢だろうということを確信する。
「我が主はとてもシャイな方なので、そのお気持ちだけお伝えしておきます」
「ありがとうございますっ。私はファラ・クラックスと申します。お優しいお方、どうかお名前だけでもお伺いしてもよろしいですか?」
完全に猫を被ってるな、とゼロとルーに思わせるアーファの笑顔は純粋な美少女を見事に演じ切っていた。
「どういたしまして。この街ではね、お互いの素性は詮索しないのがルールなんですよ。でも私たちも今日中に中央に向かうので、もしそちらでまたお会いできたら、その時は中央の礼に則りこちらも名乗らせてもらいますね」
赤い髪の少女はかがんでアーファと視線を合わせ、優しげな笑みを浮かべながらそう答えた。
「わかりましたっ。ぜひお会いできることを願っております」
嬉しそうなアーファの表情が、演技なのか、チケットが手に入った本当の喜びなのか、密かに平常心を失っているゼロはもとより、ルーにも判断はつかなかった。
「それでは失礼致しますね」
この街のルールに従い、名乗りもせず赤い髪の少女は高貴な法衣に身を包む二人の方へ戻っていく。
そして彼女たちはそのまま振り向くこともなく劇場の中へと入って行った。
アーデンたちは視線で彼女たちを追いながら、その姿が見えなくなるとアーファの持つチケットに視線を戻す。
「今譲り受けたこのチケットがあれば、観劇は可能かな?」
念のためにアーデンが確認すると、一連の会話を黙って聞いていた受付は安堵したように大きく頷いていた。
「はいっ! 3名様までとはなりますが、お使いいただけます!」
平民の彼女からすれば、貴族の機嫌を損ねるなどあってはならない事態だったのだ。アーデンの表情が穏やかに戻っていることに、彼女は心から安堵していた。
「では、お前たち、一緒に見てくるといい」
「よろしいのですか?」
アーデンの提案に戸惑いを見せるルー。王国と皇国の違いはあるが、爵位だけを比べれば侯爵家のルーと伯爵家のゼロ、二人の方が身分は高い。3人しか入れないのならば、リトゥルム王国の3人というのが妥当だ。
だが今ゼロとルーは従者としてアーデンとアーファ親子に従っている設定を守るべきではないかと、ルーは思ったのだ。
「私は一度来たことがあるからね。見られないのは残念だが、ファラの従者として教養を高めてきなさい」
「心得ました!」
「お父様、ありがとうございます」
ルーが敬礼し、アーファが微笑んで礼をする中、未だにゼロは3人の高貴な少女たちが消えていった方向を見つめていた。
「……おいっ」
そのゼロの様子に気づいたルーがゼロの腕を引っ張り小声で話しかける。
「朝から変だぞお前?」
ルーに呼びかけられたことで意識を取り戻したゼロがはっとした表情を見せ、小さく謝った。
「いや、なんでもない、大丈夫だよ」
「ほんとか? まぁ、いいや、ほら行こうぜ。まもなく開演だ」
「ん、わかった」
チケットを嬉しそうに眺めるアーファはゼロの様子に気づいていなかったようだ。
「では、行ってまいります」
アーデンに一礼し、3人は受付横の扉から劇場内に進んでいく。
3人を見送ったアーデンはほっと胸を撫で下ろした。
父親役ということもあり怯めなかったが、フィーラウネ公爵が予約を上書きしたとあれば、それに歯向かうことなど出来るわけがない。
だが、折角出会えた仕えるべきリトゥルム王国の女王の機嫌を損ねるかもしれなかった事実も、非常に恐ろしい思いをもたらした。
全ては一座側の不手際でもあるのだが、フィーラウネ公爵が予約を取ったのは、ナターシャ公爵家の令嬢たちの座席なのだろう。
そんな大物の来場が急遽決まったのならば、一座側も平常心ではいられなかっただろう。
「迷惑をかけた」
アーデンは受付の女性にこそっと銀貨一枚を渡し、従者たちを伴って劇場近くのカフェで終幕を待つため、劇場を後にするのだった。
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