第17話 あの丘の先

 ルーの予想通り、次第にテントに当たる雨音は小さくなっていった。


「ぼちぼちいきますか」


 ゼロが立ち上がり、アーファを促す。ルーはテント内に出した荷物をリュックに詰め込み、温風をテント内に行き渡らせる魔法で乾かしてから外に出た。

 まだ小雨はぱらついていたが、このくらいであれば撥水の法衣で十分だろう。地面はぬかるみが強く、やはり車いすでの移動は困難そうだ。


「よっと」


 テントの外側にも温風を送り、大きな水滴や落ち葉を吹き飛ばしたルーがゼロとともに手早くテントを片づける。戦場を何度か経験しているゼロとルーの手慣れた動きを、アーファはまじまじと眺めていた。


「さすがグリューンリッター副団長だな」


 素直に賞賛の言葉を贈るアーファ。

 いともたやすく風を起こす魔法と熱を生み出す魔法を組み合わせた魔法を行使したルーだったが、魔法を組み合わせるのは簡単な技術ではない。

 風を起こす魔法や熱を生み出す魔法自体は基礎的な魔法で、平民でも魔導式を学べばすぐに使える基礎的なものである。

 だが先ほどのような複合魔法は魔導式について深く理解していなければならない。

 その上ルーの魔法は、テントを吹き飛ばしたり燃やしたりしない程度に威力を弱める調整もされていた。生活用レベルに魔法の威力を調整するのにも、かなりの技術が必要となる。

 アーファの賞賛はこの事実を理解した上での賞賛だった。簡単な身体強化魔法や防御魔法はアーファも習得しており、魔法についての理解もしているつもりだ。

 一国の王とはいえ覇権を争う世界で生き残る術を持たないのは愚かであるという亡き父の教えにより、彼女も幼い頃からある程度の訓練は受けてきたのだ。

 だが、残念ながら彼女はルーほどの技量は備えていない。それ以前の問題として、彼女には戦闘の才能がなかった。

 14歳で一国を治める少女は博学で気品を備え、未来を見据える理想を持ってはいるが、戦場に出ればただの少女に過ぎない。


「お褒めに預かり、光栄であります」


 満足気な表情を浮かべるルー、ではなくなぜかしたり顔でゼロがアーファの賞賛に一礼する。


「団長の血筋とか、皇国のナターシャ家には及ばないですけど、うちもそれなりの家なんで。これくらいは役に立ちますよ」


 ゼロに苦笑いを浮かべつつ、今度こそルーが答える。

 団長の血筋、とは病気療養中のグリューンリッター団長クウェイラート・ウェブモートのウェブモート家のことだろう。

 ウェブモート家は騎士団長たちの中で唯一中央貴族の出自ではない東部出身だ。ウェブモート家は魔法使いの一族とも言われる家柄であり、先々代国王イシュラハブが合併した王国の一つを治めていた名家である。

 現在は公爵位を与えられ、彼の父親は東部の都を治める立場となっている。

 リトゥルム王国の東部のさらに東側には未だに王国に服属しない小国家が点在しており、いかに彼らを組み込むかが東部の課題である、とアーファは記憶していた。


 そしてナターシャ家は大陸全土にその名を知られるセルナス皇国の武を支える最強の魔法使いの一族であり、王国にとっては大陸東部統一の最大障壁と捉えられている一族だ。


「じゃあ、行きますか」

「う、うむ……」


 ルーがリュックにテントを収納し、車いすに手をかけ、ゼロはアーファに背を向けたままかがむ。小雨もぱらつき、余計な時間を取られたからこそ、躊躇っている場合ではないのだ。恥じらいを持ちながらも、アーファがゼロの背に寄りかかる。

 3つ年上ではあるものの、華奢な体格に見えていたゼロだったが、アーファが思った以上に頼もしい背中だった。


 見た目から忘れがちだが、ゼロとてブラウリッターの団長であり、普段から訓練は怠らない。この旅の途中も毎晩の訓練は欠かしていないのだ。 


――おちつくな……。


 小雨がぱらつき、撥水する法衣はさほど温もりを与えてはくれないが、2年前に父親を亡くした彼女にとって、誰かにおんぶされるのは久しぶりだった。

 この旅の中でゼロはかなりフランクにアーファに接している。日常にはないその感覚は、彼女にとって心地よさを与えてくれる。


 歩き出して十数分ほど経過する頃には、空からは光が差し始めていた。



「まもなく皇国領っすね」


 朝から口ぐちに国境を越えると口にしていた彼らだが、王国と皇国の国境を分ける関門などはなく、広大なバハナ平原に明確な国境線があるわけでもない。

 バハナ平原の中央地帯に緩やかな丘陵地帯があり、その南北で王国領と皇国領と区別されている程度だ。

 バハナ平原の南側にリトゥルム王国は砦と防衛壁を建て、北側のセルナス皇国では防衛都市が建設されている。

 砦と防衛都市の距離はおおよそ80キロほど。街道を外れた辺りにはいくつかの集落も存在しており、彼らはどちらの国家にも与せず、金次第で両軍へ食料や水を補給することで生計を立てているという。

 緩やかな登り道の遠く先にはうっすらと皇国の防衛都市の巨大な外壁が見えてくる。だが、防衛都市に至る街道はまだ見えない。その道が見えてきた時こそ、ついに皇国領だ。

 先ほどから警戒はしているが、皇国兵の気配は感じられないのは幸いだった。


「お嬢、どのへんでクラックス侯爵と合流するんすか?」


 晴れてはいるものの、まだ街道はぬかるんでいる。ゼロは足元に注意を払いながら背中に乗せたアーファに尋ねる。 


「お嬢?」


 返事がないことに疑問を抱いたゼロが立ち止まり、ルーも一歩遅れてアーファの方へ振り返った。


「ん……すぅ……」

「おやおや」

「強心臓かよ」


 耳を澄ませば聞こえてくる可愛らしい寝息。ゼロとルーは揃ったように顔を見合わせ苦笑いを浮かべた。


「そりゃ、慣れない旅にお疲れか」

「こうなったらセシィと大してかわんねぇな」


 そこまで熟睡ではないだろうと信じ、ゼロとルーは再び歩を進め出す。


「万一このままお嬢が寝たままクラックス侯爵とやらと合流して、そいつが皇国の用意した罠だったら、俺は先に逃げるから、任せるぞ」

「いや、さすがにそこまで寝かしとくわけにはいかないだろ。皇国領に入ったら起こそうぜ」


 何度かアリオーシュ家を訪れたことがあるルーは、ゼロが妹のセシリアを溺愛していることを知っている。

 以前訪れた時には遊び疲れたセシリアがゼロの背で眠ってしまったことがあった。

 帰る間際にセシリアにも挨拶をしようしたルーに対しゼロから「起こしてはならない」と圧をかけられたことがあったが、今のゼロはその時と同じ表情をしていた。


「あの丘の先、見たことあるか?」


 ルーの言葉に答えるでもなく、ゼロは道の先を見つめてルーに尋ねる。空はすっかり雲が消え、青空が見えていた。青々とした平原の植物たちは、先ほどの雨露をきらきらと輝かせる。空を数羽の鳥が飛んで行った。


 まるで平和そのものなのに。


 ゼロが示す小高い丘の先は敵国なのだ。


「見たことはねぇが……あの丘の先が、平和への架け橋だったらいいな」


 バハナ平原は幾度となく皇国との戦場になった場所でもある。だがここ数年の戦いは全てリトゥルム王国寄りのエリアで行われていた。実際通り過ぎてきた一部は植物が踏み荒らされ、大地が露わになっている部分もあった。

 戦争の果てに平和があることを願うように少年たちは歩を進める。


「アーファ様、まもなく皇国領に入りますよ」


 あと50メートルも進めばいよいよ丘の先が見えてくる、そんなタイミングでルーはアーファの肩を軽く揺さぶった。


「ん……すまん、寝てしまっていたのか……」

「お休みを妨げてしまい申し訳ありません。ここから先は何が起きるかわかりませんので」

「いや、気を抜いた私がいけないのだ。礼を言う」


 寝ぼけるでもなくアーファも視線を前に向ける。噂に聞く王国領と皇国領の境目とされる登り道の先に、彼女は何を見ているのか。


「行こう。皇国領に入って半刻進んだ先を東に進むと小さな集落があるらしい。そこがクラックス侯爵との合流地点だ。暗くなる前に目指そう」

「かしこまりましたよっと」


 アーファを起こし、少し進んだ丘の先から見えたのは、当然のように広大に広がる大平原。そして遥か遠くに長く広がる防衛都市の外壁だった。


 王都を出発して5日目、ついに一向はセルナス皇国の領域へと辿り着いたのであった。

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