第6話 法皇セルナス・ホーヴェルレッセン89世
「ユフィ様、法皇様がお呼びです」
「わかった、すぐ行くわ」
戦場から帰還し、休む間もなく訓練を終え、法皇より与えられた自室で一息いれていた美少女へ、近衛兵から伝言が届く。
セルナス皇国の首都の中心部には巨大な円柱の筒がそびえる。高さは二十数階、直径100メートルほどの巨大な塔こそがセルナス皇国の法皇、セルナス・ホーヴェルレッセン89世が住む国の心臓部であり、その塔は“約束の塔”と呼ばれている。
塔を取り囲むは高さ10メートル、厚さ5メートルほどの巨大で分厚い外壁。塔へ通じる通路は南北に1か所ずつ。塔最上部はカナン教の崇めるカナン神への祭壇があると言われており、何人たりとも近づけさせないことを主眼においた造りになっている。
その塔の中層階には法皇の間があり、法皇含めた皇国の重鎮たちの自室なども置かれている。上層階の大半は、宝物や過去の記録等の保管庫となっており、普段は人が立ち入ることはない。
偉い者は高いところを好むというが、高すぎる場所への移動の不便さを上回ることはないのだろう。
ユフィ自身、帰還後に階段で10階層近く登るのはめんどくさいことこの上ないと思う。降りるのが面倒すぎて、塔内に与えられた自室は既に居住できる空間となっていた。
「どうぞ、お入りください」
伝言にきた近衛兵が案内したのは、法皇の間ではなく、法皇の自室であった。この部屋に来るのは初めてではない。そしてこの部屋に呼ばれるのは、私用だということだ。
国のトップの人間から私用で呼ばれるほどの存在、それがユフィ・ナターシャという美少女なのだ。
ノックをし、返事を待つでもなくユフィは室内へ入る。薄暗い室内に入ってまず目に入るのは、天蓋付きのベッド。
そしてベッドの上の毛布の下に、人一人分ほどの膨らみが見える。
はぁ、と溜め息をつきながら後ろ手に扉を閉めたユフィは無言のまま室内へ進み、ベッドの前に立つ。
「何か御用ですか、法皇様?」
ユフィが身にまとっているのは、位の高さを示す紫の法衣。肌触りがよく、通気性も高い一級品だ。
自分を呼んだというのに、ベッドに横になったままの法皇に対し、恭しく伺ってみせる。慣れてはいる が、室内に漂うやたらに甘い香りのお香はあまり好きにはなれない。
「一緒に寝るか?」
再びユフィが溜め息をつく。
「いいえ。御用とは、それですか?」
「なんだ、つれないな。私とお前の仲だというのに」
法皇と彼女の仲はよほど深いのだろうが――
「人呼んでいていつまでも寝てんじゃないわよっ!」
そこでユフィは限界を迎えた。ベッドの上の毛布をはぎ取り、光源魔法を発動させ部屋を明るくさせる。
「ぎゃっ! まぶしい! まぶしい!」
急に光を取り込まれたことに瞳がついていけず、ベッドの上の法皇は枕に顔を押し付けた。
「もう少し威厳とかないの? セレマウ!」
「えー……そんなんめんどいし……」
ゆるゆると枕から顔を上げた法皇は、まだ大人とは言い切れないような女性だった。いや、まだ少女と言っても差し支えないかもしれない。
指先でくるくると自らの美しい黒髪をいじる美少女に、ユフィは怒りの視線を投げかける。
絹の法衣――もといパジャマに身を包み、怒られてバツが悪そうに口をとがらせているのが、セルナス皇国の統治者たる法皇セルナス・ホーヴェルレッセン89世だと、誰が思うだろうか。
ストレートに伸ばされた黒髪は肩につくほどの長さに伸ばされ、思わず触れたくなるような艶やかさがある。緑がかかった瞳を浮かべる猫のような目はまだ幼さを残すも、左目の下の泣きボクロがどことなく色っぽさを浮かべていた。整った鼻梁に、可愛らしいアヒル口。白く華奢な身体から、威厳は皆無だった。
ある意味守ってあげたくなるような美少女ではあるから、兵たちは彼女のために頑張るかもしれないが。
「ユフィは、また戦場に行ってたんでしょ? 怪我とかしてない?」
ベッドの上で女の子座りをしたままセルナス・ホーヴェルレッセン89世が尋ねる。上目使いに見つめてくるその姿は、ユフィから見ても非常に可愛らしい。
誰か別な者が見れば、二人の美少女に目が釘付けになることだろう。
「怪我はしてないけど、またあの仮面男とは引き分けちゃった。……ああ、思い出しても憎たらしい……!」
「あ、ちゃんと会えたんだ。よかったねっ」
『あのエンダンシーは反則なのよ、セレマウにも見てほしいわ』
二人の会話に新たな声が加わる。
「ユンティもおつかれさまっ。ユフィを守ってくれてありがとね。でもユフィでも勝てないなんて、ゼロ・アリオーシュっていう人も強いんだね~」
先ほどからユフィとユンティが呼ぶ“セレマウ”とは、セルナス皇国の上層部しか知らない法皇セルナス・ホーヴェルレッセン89世の本名だ。法皇の名は世襲であり、セルナス皇国の御三家と呼ばれる家系から選ばれた未婚女性のみに受け継がれる御名である。
御三家の格はユフィのナターシャ公爵家よりも高く、極寒の地と接するセルナス皇国の北部、距離はあるものの大グレンデン帝国の警戒を行う西部、外敵と接することのない東部の三地方が、御三家の大公たちが治める領域となっている。首都を含む中南部は法皇領であり、リトゥルム王国との国境を抱えることから現状では最大の軍事力を有している。
セレマウ自身は御三家の中でも最も平和な東部の出であり、正直大陸の覇権や政治などに感心はない。事実、軍事や政務などは全て部下任せで、決定の意を伝えることだけを行っているのが実態だ。
皇国でも知る者は少ない事実だが、そもそも彼女自身は望んで法皇になったわけではない。
先代セルナス・ホーヴェルレッセン88世が30代半ばという若さで急死したため、急遽御三家の中で最も年長の未婚女性だったセレマウに白羽の矢が立ったのは、今から3年前のことだ。
本来であれば秘密裏に次期法皇に選ばれ、塔内で法皇より次期法皇としての帝王学を学び、満を持して法皇となるのが慣例であったが、幸か不幸か、セレマウにはその時間は与えられなかった。
セレマウに教育を施した後、崩御と新法皇即位を公表しようとした御三家の思惑を破り、一部の皇国貴族たちは先代法皇の崩御を即時に公表し、御三家に猶予を与えなかったのである。傀儡の法皇を立て、首都での権力を高めることに腐心する貴族たちは一定数存在した。
カナン神を絶対と崇め、カナン教の名の下に結託した国家とは名ばかりの、権力への意思渦巻く国家、セルナス皇国の実態はそんな国だと、法皇となったセレマウは感じている。自分自身、傀儡だとは自覚している。だがむしろ、セレマウ自身がそれで構わないとも思っているのも事実だった。
セレマウにとって法皇という役目は面倒くさいことこの上ない。法皇としての教育を受ける機会がなかった彼女は、持ち前の性格が変わることはなかった。誰かに言ったことはないが、代わってもらえるなら即座に代わってもらいたいし、国の一存を考えるなど自分には身に余る大役だと思っている。
権謀渦巻く国家中枢に据えられたことこそが、彼女にとっては問題だったのだ。
そんな彼女にとって、1つ年上のユフィの存在はありがたかった。ナターシャ公爵家の出自で、気軽に塔を訪れることができ、幼い頃より武術も学問も学んできた彼女はセレマウにとっていい手本であり、頼れる姉のような存在だ。
12歳で親元から引き離され、いきなり国家元首たる法皇に据えられたときの彼女は、一人になっては涙する日々を送っていた。そんな彼女を救ってくれたのが、ユフィなのだ。
パジャマ姿で威厳もなにもないセレマウは、ニコニコと笑顔を浮かべながらユフィと向き合う。本質的には世間知らずで、人見知りで、怠惰なセレマウだが、ユフィといるときだけは素の自分をさらけ出せるのだ。
この笑顔を出されると、ユフィは何も言えなくなる。
「功を上げたい、ってやつらはいっぱいいるから、また仮面男に会いたくなったら言ってね!」
平和に育ったセレマウは争いを好まないが、自分の力がどれほどなのか知りたい、と言ったユフィのためにセレマウは上層部たちが求めるリトゥルム王国侵攻を認めた。
1年半ほど前から、数か月に一度侵略戦争をしかけている。まだ威力偵察程度の攻撃だが、そのくらいの方がユフィも安全だと、戦場を知らないセレマウの考えもあっての侵攻作戦だ。
いい加減戦争を本格化させたい貴族たちを抑えるのが大変になってきたので、そろそろ本格的な侵攻作戦に移行せずにはいられない不安はあるが、あと数回はユフィが仮面男と戦う機会を作ってあげることはできるだろう、とセレマウは思う。
「いや、もうすぐあなたの法皇法話巡礼でしょ? セレマウの警護は私の役目だし、まずはそっち優先でしょ」
諭すような口調のユフィに、先ほどまでの怒りはない。彼女は皇国軍の所属だが、法皇直属警護役――もといお世話係、にも任命されているのだ。
「はっ! そうだよ、その件で呼んだんだった!」
「呼び出しといて忘れんなっ」
軽くユフィがセレマウの頭を小突く。その姿は主従の関係ではなく、本当の姉妹のようであった。
「ボクさ、ずっと塔の中にいるから、正直この国のことあんまし知らないんだよ。でも法話には全国各地から信徒たちが来て、話をしなきゃいけないでしょ? だからせめて、法話までの間にこの国を見ておきたくて」
「あら、珍しく真面目に考えたのね」
「そうなのさっ。でも御三家の領内に行くのは、ボクあいつらに好かれてないからやめておくとして。法皇領内の、工業都市、農業特区、水の都、芸術都市あたりは見に行ってみたいな、って思って。さすがに防衛都市は危ないから行かないけど」
「妥当な判断ね」
セレマウが即位したことに端を発する、法皇領で権勢を振う中央貴族と御三家は、現在水面下での争いが苛烈である。セレマウ自身には何もすることもできなかったのだが、中央貴族を好きにさせているセレマウに対する御三家の反感は強い。生家の東部ですら、西部と北部への体裁もあり、いい顔は見せないのだ。
セレマウの語った、工業都市、農業特区、水の都、芸術都市、防衛都市とは、法皇領内にあるセルナス皇国の中南部にある都市のことだ。都市間には小さな村などは多数あるが、政治機能を持つ行政単位で数えると、首都を含め中南部には6都市があるということになる。
「ということで、一緒にいこ?」
「それが私の役目だし、別にいいけど……。法話まであと20日か。スケジューリングはしてるの?」
「その辺はユフィに任せるっ」
はぁ、とユフィはため息をつくが、セレマウが自ら何かをしようと提案してきたのはこれが初めてであり、ユフィにとっては少しだけ嬉しくもあった。
信徒たちのために、少しでも国を知り、民を知りたいというのは、為政者として悪いことではないだろう。傀儡だとしても、彼女なりのプライドもあるということか。
「でも、そんなに塔を空けても平気なの?」
傀儡とはいえ、国家元首のセレマウだ。不在で問題がないか、疑問は残る。
「あー。うん、大丈夫。コライテッド公爵の許可は取ったから」
「あー、それなら平気ね」
コライテッド公爵家とは御三家と対立する最大勢力の中央貴族だ。中央貴族の筆頭格は政治面を主として支えるコライテッド公爵家と、軍事面を支えるユフィの生家ナターシャ公爵家だが、事実上の国政運営をしているのは現状コライテッド公爵家なのであった。
両公爵家ともセルナス皇国古参の貴族だが、その間柄は良くもなく悪くもなく、といった関係だ。セレマウが法皇となり、傀儡法皇という状況を作り、実質国政を牛耳っているコライテッド公爵家にとって現在の状況はベストであり、コライテッド公爵家に不服はない。そしてナターシャ公爵家としても形式上でも法皇を立てる形を取っている以上、文句はない。
そもそも神の代理人である法皇への忠誠、という形を取る皇国軍なのだから、貴族家による革命の成功率は恐ろしく低いだろう。熱烈な信徒たちは利では動かない。これがセルナス皇国の強さでもある。
「場所とか宿への手配はナナキに任せるから、予定組めたらナナキに伝えてあげてね」
この場にはいないが、ナナキとはミュラー子爵家出身のセレマウの侍女だ。ユフィとは同い年であり、ユフィも信頼している少女である。
「あ、折角芸術都市にいくなら、観たい観劇があるんだけど!」
「おおっ。それはちょうどいいねっ」
旅行の予定を立てる友人同士のように二人ははしゃぎだす。
「どうせならもうナナキも呼んじゃお!」
少し前まで戦場にいたことなど忘れるようにテンションを上げるユフィ。盛り上がった少女たちの話し合いは、まだしばらく続くのだった。
そして出発は5日後と決まったのである。
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