第2話


午後からは青団の練習があり、普段運動をしないぼくはしこたま疲れた。

家に帰ると、夕ごはんを食べてお風呂に入り、何もしないで寝た。次の日に疲れを残したくなかったからだ。

夜はぐっすりと眠ることができた。



それから数日は体育祭の練習が本格化してきて、真夏日がシャツを一枚脱いだくらいの蒸し暑い日々が続いた。ぼくらは炎天下で汗だくになりながら、熱血的練習に励む日々を過ごした。

家に帰ると疲れで寝てしまい、気づけば朝、そんな毎日で普段遊んでいるスマホのゲームすらログインする気力も湧かなかった。

入場行進、団対抗応援、全体練習……。

赤団、青団そして黄団という三つの勢力がグラウンドと体育館の間を目まぐるしく入れ替わっていた。三色が混ざり合うことはなく、それぞれがそれぞれの色に染まり、他の色を寄せ付けないような雰囲気が漂っていた。


学生の本領である勉学からはなれるこの時期、生徒たちはどことなく浮ついていた。団内で結成した応援団の中にはすでに複数のカップルが成立したという噂もちらほら聞こえてきた。それはもとより、体育祭の時期というのはとくに勉強ぎらいの生徒にとっては、この上ないバカンスと言っても過言じゃない。なにせ先生たちも大助かりだろうし。

「こんなのがバカンスなわけあるか」

そんなぼくの所見を余所に、となりに座って肩で息をしていた柏木は苛立ちをあらわにしていた。


駐輪場の影に隠れて、頭にタオルを巻きつけ、うだるような熱さをねめつけていた。彼だけじゃなく青団の団員はみな一様に、木陰に逃げ、照りつける日射しから身を守っていた。もちろん、ぼくも木陰にいた。胸のあたりから脇にかいた汗が気持ち悪くて、タオルで拭いたりした。

アクエリアスの入った1.5Lのペットボトルで首元を冷やしながら、ぼくはグラウンドを見つめていた。前の練習が早く終わったぼくらは、次の練習がグラウンドで行われる予定だったので、外に移動をしていた。けれどもグラウンドはまだ黄団が練習の真っ最中だったため、邪魔をするわけにもいかず黙って傍観するしかなかった。

誰もわざわざ日なたに出ようとはしなかったし、その光景はまるでプレーリードッグの群れが小さな巣穴に身を潜めているみたいだった。

グラウンドには蜃気楼が立ち登っており、黄団の生徒たちの姿が目の錯覚みたいに不自然に屈折していた。

ようやく彼らの練習が終わると、ぼくらの団の団長が、いの一番に声を張り上げ団員を鼓舞した。しかしながら、疲労と熱さで体力を削られていたぼくらは、その声に応えたいという気持ちはあっても、身体が追いつかなかった。この場では迅速な行動が求められていて、ゾンビみたいによろよろと立ち上がる団員の姿を見て、さらに団長が檄を飛ばした。その行動が余計にぼくたちの不快感を増長させることを、彼は知っているのだろうか。


はあ、市民プールで泳ぎたいなあ。安藤さんと泳ぎたい。ばちゃばちゃしたい。むしょうに。


そんなくだらない妄想に逃避しつつ、せっつかれるように進まされた先のグラウンドは、熱されたフライパンの上のようにひどく暑くて、まつ毛から溢れた汗の粒が頬を流れた。

まったく、ぼくらを目玉焼きにでもするつもりか、太陽。



その日の練習がすべて終わったのは、午後6時だった。ふだんなら、とっくに下校をしている時間で、ほとんどの学生がこんな時間まで残っている──残されているというのも、体育祭ならではの光景だった。芝生の生えた中庭では、各応援リーダーたちがいまだに練習を続けており、応援の型の確認などたいへん熱心なようすだった。

ぼくにはよくわからない。

いったい彼らは何をそんなに一生懸命やっているのだろう。ぼくは彼らの感覚から遠すぎたのだ。なるべく静かで、穏やかな日々を目指していたぼくとは、見据えている世界がまるで違っていた。

男子たちの取っつかむようなふざけあいを女子たちが笑いながら見ている。

相容れない世界。たとえ人生をゼロからやり直したって、彼らの見ている風景にたどり着くことはないことは自信を持って言える。

あんなキラキラはぼくには眩しすぎるのだ。

そんなこと、わかっている。

「......」

しかし。

その、いつか。

いつかですよ。

仮にぼくにも彼らのような役割を与えられて、自分で行動をしろと言われたとき、ぼくは果たしてその役目をこなすことができるだろうか。

大きな声を出してみんなを励ましたり、あるいは最前線に立ってみんなを牽引していくことができるだろうか。

あのキラキラに、ちょっとでも近づけるでしょうか。


ぼくは自分の姿を想像してみた。人の見下ろす場所に立って、ぼくはみんなに指示をしている。彼らはてきぱきと行動をする。ぼくこそリーダーに適任だと褒めそやす優しい女の子がぼくを献身的にサポートしてくれていた。どこかの青団の団長みたいに怒鳴り散らさず、仲間の行動を逐一観察して、適材適所の役割を与えることができそうな気がした。そんな青写真を思い描いてみると、ぼくは背中をくすぐられている気分になって、ちょっとだけわくわくした。

単純。単純だな、ぼくは。夏の熱さやらで頭がやられているのかもしれない。廊下の影からひそひそ話がしたって、あいまいだらけのぼくは気づかないだろう。


むさくるしい教室が制汗剤で充満するころ、男子は着替えの途中だった。とくべつ脱衣に関して頓着や羞恥のなかったぼくらの教室のカーテンは無造作に開けられていた。あけっぴろげというほどではないが、こちらからは廊下を通りすぎる生徒たちの姿が見えたし、向こうからも簡単にのぞくことができた。誰も好き好んで男子の脱衣風景をのぞくような数奇者はいないだろうけどさ。

なんて下らないことを考えていると、廊下を通りすぎる生徒のさなかに見知った顔を見つけた。

おや、あれは?

「!」

安藤さんだ! 安藤さんがおる!

安藤さんがおるのだが!


彼女は友達ふたりと歩いていて、ふとした拍子にぼくらの教室に目線を投げかけた。そのとき、ぼくは彼女とばっちり目が合ったのだ。心臓がどきんと跳ねた。あまりに短い時間。一秒、いや一瞬の出来事だった。けれど、ぼくはしかとその笑顔にまみえることができた。


着替えが終わると、おもむろにクラス委員長である椎名が、みんなちょっと聞いてくれ、と呼びかけた。教室は水を打ったように静まった。ぼくも我に返って、彼のほうを向いた。

「今日このあと、急ぎの用事があるものがいれば挙手をしてくれ」

いったい、何を始めるつもりなのだろう。もしかしたら教室の中には勘づいているものもいたのかもしれないが、ぼくは唐突なことで首をかしげていた。どうやら急ぎのやつはいないらしく、椎名のターンは続いた。

「実は放課後、体育祭の競技の選手決めをしたいと思うんだ。とりあえずは玉入れとクラス対抗リレー、綱引き、パン競争……まあ詳しいことは後ほど説明するが、唯一男子全員が参加しなければならない種目があることは、みんな知っていると思う」

男子、全員。

「そう。騎馬戦だ」

男子、全員。

「騎馬戦は俺たち二年生の学年種目であると同時に、最大の見せ場、花形でもある。これが何を意味しているかわかるか」

椎名はみんなに言い聞かせるようにゆっくりと言葉を選んだ。

「つまり、女子たちにアピールをする絶好の機会ってわけだ」

にわかに男子がどよめいた。ぼくはと胸を衝かれたような心地だった。なぜならあまりにロコツすぎると言うか、打算ありありだったから。

いやしくも公平な立場にある委員長がのたまう台詞とは思えなかった。ただ一介の男子の思惑をそのまま言葉にしたようなものだった。

しかし、このシンプルさがむしろよかったのかもしれない。生一本な行動原理は、ものすごくわかりやすく、胸がすっとするようだった。ことさら、ぼくたちみたいな可哀想な男子たちの心を焚きつけるには効果てきめんだった。

椎名はそのメガネの瞳の奥に、不敵な笑みをたたえた。なるほど、彼の狙いはそこにあったというわけか。

「じゃあみんな、ホームルーム終了後に4階の遠隔視聴覚室に集合してくれ。よろしく」

話はここで区切られ、続きは放課後に持ち越しとなった。

そして放課後になり、男子はわらわらと移動をしはじめた。その様子があまりに同調していたためか、女子からは不審な目で見られたものの、彼女たちも深く詮索をしてこなかった。男子には男子の事情があるということを察してくれたのかもしれない。

やがて視聴覚室にたどり着くと、入口の戸口には『超重要会義(女子禁制!)』と乱雑に書かれた張り紙があった。会議の漢字を間違えているあたり、すごく高校生男子っぽかった。飢えにもとづく焦りが如実に表出していたというか、馬鹿っぽいというか。

ぼくは扉を開き、神妙に室内に入った。教室は消灯されていて、カーテンも閉じられていて、一種の暗室の状態だった。正面に吊り下げられた大きなスクリーンだけが薄白く光っていて、映画館に来ているような気分だった。

男子たちはおのおの好きな席に座り、全員が集まるまでひそめいていた。それからまもなく、一番前の席に座っていた椎名が立ち上がり、左手の壇上に進んだ。壇上にはパソコンがあって、そこから伸びたコードはプロジェクターにつながれていた。

「さあ、はじめよう」

彼のこの一言により、目の前のスクリーンには一枚の写真が映し出された。その写真に写っていたのは、苔むしたような背中のあまり大きくない鳥の姿だった。柏もちに見えなくもない、ずんぐりとした体型で、ぱっとしない印象だった。


「今正面に映っているのは、『フクロウオウム』という鳥だ」

それはフクロウなのか、それともオウムなのか、嘴の感じからするとオウムに近い気がした。

「こいつはニュージーランドに生息していて、世界で唯一飛べないオウムとして知られる。マオリ語ではカカポやカーカーポーと呼ばれていて、まあ、見ての通り、これといって目立った風貌をしているわけではない」

男子は椎名の言葉に耳を傾け、不用意にやじを飛ばすものはいなかった。

「しかしこの鳥はほかの生き物にはない珍しい特徴を持っている」と椎名は言い、次のスライドに移行した。

新しいスライドにあったのは、彼のオリジナルの図だった。そこでは、複数のオスの鳥がくぼみの中に一箇所に集まっていて、喧嘩をしているようだった。そして、その様子をメス鳥が遠くから見ているという絵だった。

「こいつらがほかとは違う点、それは繁殖の方法だ」

繁殖。ああ、そういう意味を指しているのかな。

ぼくは徐々に彼の話に興味がわいてきた。

「レックと呼ばれる繁殖法だ──オスたちは繁殖期になると、縄張りをいったん離れ、丘の上に集まる。そこではレックという闘技場があり、彼らはそこに、めいめい、ボウルのような落ち込んだ『庭』を形成する。オスたちは交尾期が始まる前に、低周波の唸り声を上げてメスたちを惹きつける。こうして舞台が整うと、オスたちはレックの中で戦いを互いに仕掛け、庭を破壊しあう。いわゆる陣取り合戦と同じ構図だな。そうして強さを誇示することで、オスは自分の存在を主張し、これを気に入ったメスがオスと晴れてつがいになる、っていうシチュエーションだ」

これはなかなか面白い話だった。室内からはしきりに関心する声があがった。完全に椎名は主導権をにぎっていた。

「もうみんな、俺が言わんとしていることは理解できていると思う」

彼の言うように、ぼくはわかっていた。


体育祭の騎馬戦こそが、ぼくたち男子高校生にとってのレックそのものであるということを。


「この騎馬戦は俺たちの高校の伝統的な競技だ。見窄らしいところは、先生のみならず、観覧に来ている親御さんたちにも見せられない。無論、女子にも」

確かにそうだ。それは泥臭いプライドとか、体裁とかではなく、純粋な思いに近かった。きっかけはどうあれ、男子たちの迫力ある姿はきっと誰かの気持ちを揺さぶることができるはずで、もしかしたらぼくたちはそのために戦おうとしているらしかった。


「俺たちの意思はひとつだ。有志よ、ここに義勇の旗を掲げ、いざ革命の道を進まん」


このように椎名は締めると、パソコンを閉じ室内の電気をつけた。そして先ほどとは打って変わって委員長の顔に戻った。

「じゃあ早速、選手決めをしていこうじゃないか」

となりで頬杖をついていた柏木がぼそっとつぶやいた。

「あいつに戦乱漫画を貸したのは失敗だったかもな」




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