さよなら三角、また来て四角、もしくは互角

瀞石桃子

第1話


パルコの8F展望台から突き落とされる夢を見た。


地表の麦畑に柔らかな体躯が打ち付けられる瞬間、ぼくは目が覚めて飛び起きた。

枕元に置いてある目覚まし時計は2時45分を指していた。

今いる部屋はきんと冴えた夜空に覆われた草原の厩みたいに肌寒く、カーテンの外も真っ暗で宇宙の梁のように静寂を湛えていた。外を出歩くには厚いダウンが必要で、星に願いでも捧げないと凍えてしまいそうなほどで。

頭上には清涼感をたっぷりとふくんだ秋の夜空が、蒼然としたうしおのようにせり上がっていて、カシオペヤ座やペルセウス座、ペガスス座がちらりとまたたいていた。

ぼくはなんとなくスマホを開いてみたけれど、誰かしらからの通知は何もなかった。


なるべく静かで、穏やかな日々を目指していたぼくは、いつも大人しく、目立たないところにいようとした。積極的に友達を作ろうとはせず、ごくわずかな引力に引き合わされた人間のたもとに身を潜めて、荏苒とした毎日を過ごしてきたつもりだった。

ぼくのこれまでの人生は、高度三千メートルを風になびく鉛色の飛行船そのもの。旅客機や爆撃機になんてなりたくないのだ。

もしも君が、そんなことは大袈裟だと言うのなら、もっと単純な言葉で教えてあげよう。


ぼくは人と関わるのが苦手だ。


口下手だし、緊張するし、目を合わせられないし、何を言ったか覚えていないし、家族・友達ならまだしも、同年代の異性と会話をするなんてもってのほかだった。女子との関わりなんてせいぜい事務的なやりとりをするか、二次元の女の子と感情をいっさい抜粋した空虚なやりとりをするくらいのことだった。

真っ赤な苺のタルトみたいな甘酸っぱい青春なんてのは、どこかの空想家が言い出した都市伝説で、下校中に見かけるカップルたちの姿は熱に浮かされたかげろうで、ルイス・キャロルさえ思いつかない稚拙なおとぎ話。


つまりはなんと言えばいいか。


ぼくからすれば、等身大の青春というのはぼんやりしていて、擦っても消えない鉛筆の痕のようにくすんでいるものなのだ。このさきの果てしなく長い人生に、ずるずると影響を及ぼす、鈍痛そのもの。苦々しくて、恥ずかしい思いのたっぷりとつまった乳袋。


すくなくとも、ぼくの歩んできた青春は、割れたビンやら不燃ごみやら漂着物でとっ散らかった汚い海水浴場のようなものだったと思う。それらはとても人に見せられるものではなかったし、負い目または引け目に感じてしまうこともしばしばあった。


とかなんとか謳ってみるけれど、実際はほんとうに汚いわけではない。

目線のかなたのおおいなる海がもたらしてくる漂着物の中には、ときとして、未来まで大事に持っておかなくちゃならないものも紛れていることを、ぼくらは忘れちゃならない。

荒波に揉まれて遥か遠くから流れ着いた見事な風合いのシーグラス。ふと見下ろした足元にも、それらがいくらでも落ちているという事実を、君はいつの日かきっと体感するはずだ。

そして。

ガラス片を太陽に透かしたとき、燦々と降り注ぐ光を大反射して、かつての君の思い出を鮮やかに映し出すに違いない。


これからここに記すのは、何の取り柄もないぼくが、唯一語ってもいいと思えるガラス片の物語だ。



「ああ、極限の問題が全然わからないぜ。なんで答えが発散になるんだよ。助けてくれ」

右どなりで、ぼくの数少ない友人の柏木が、黒板消しで黒板の文字や数式をせっせと消しながら文句を垂れていた。目の前の真実を慌てて隠蔽するようないい加減な手つき。それだと黒板はまっさらな状態になりきれなくて、白い線がうっすら残っていた。

ぼくと柏木は、日直の当番だった。授業が終わるたびに黒板を消し、プリントを配布したりするのが仕事だった。

「安藤芙雪のような天才が俺らの近くにいたらいいのになあ」と柏木はぼやいた。

仕事を丁寧にこなすタイプのぼくは、柏木が消しそこねた部分をきれいに仕上げた。その後、窓をがらりと開けて、拍子木を叩くように黒板消しをはたいた。

「もうすぐ体育祭だってのに、勉強なんて勘弁してほしいよなぁ。なあ?」

背中の方で柏木のため息が聞こえた。

ぼくたちがいる三階の教室からは窓の外のグラウンドが一望できた。そのときはおよそ150人の生徒たちが小さな輪を複数作って、朝礼台に立っている男子学生の笛の音に合わせてのろのろと動いていた。彼らは半袖短パンという恰好で、頭に赤いはちまきを巻いていた。その様子をなんとなく眺めていると、となりに来た柏木が窓の桟にもたれかかりながら、興味なさげにふうん、と息を漏らした。

赤団だね、とぼくはつぶやいた。


「今年の赤団の団長って、竹熊んとこの兄貴なんだろ」

「へえ、そうなの」ぼくは朝礼台に立っている男子学生の背中を見た。彼はほかの学生よりひときわ長いはちまきをつけていたので、団長だと理解できる。ということは彼が赤団の団長なのだ。

「竹熊って兄弟がいたんだね」

「なんだよ松郷、お前知らないの」

柏木はぼくの名を呼び、きょとんとした顔をした。

「知らないって、なにが」

「うちの野球部、竹熊と竹熊の兄貴でバッテリー組んでるんだぜ。兄貴がキャッチャーで、弟がピッチャー。しかも兄貴は主将だ」

それは初耳だった。ぼくの知っている竹熊は同学年──つまり二年生だった。少々気の荒い性格をしていてくせに、朴訥な感じの、なんだかわからないやつ。

ぼくは高校一年生のとき彼と同じクラスになった。もちろん関わらなければ、何も起こることはないのだけど、きっと彼からするとぼくは見下されていたと思う。なぜなら関わろうとしないことは、場合によってはおびえていると捉えられることもあるからだ。

ぼくは単純に、気の合わなさそうな人間と無理に接する労力を省いたつもりなだけだ。そんな細かい理由なんて、彼は気にも留めちゃいないだろうけど。


9月のグラウンドにホイッスルの音が長く響き渡った。赤団の団体行動の練習が終わりを告げたらしい。ひとクラス40人、三学年分の生徒がぞろぞろと校舎のほうに向かってきた。

そういえば竹熊のいたクラスも赤団だったような気がする。とすると、赤団には竹熊兄弟が揃っているというわけだ。赤団の団長の威を借りて、ふんぞり返る熊のことが想像できて、なんだか複雑な気分になった。



数学の授業のあとはお昼休みだった。ぼくは購買部にパンを買いに行くために、三階から一階へ降りていった。

その途中、ちょうど先ほど練習を終えた赤団の生徒たちが体操服姿のまま階段を上がってきていた。ふと、そのうちのひとつの騒々しい集団に目が止まった。まくりあげた半袖から伸びる腕まわりの太い坊主頭の生徒たち……そう、野球部だった。

そして案の定、中心には竹熊の姿があった。竹熊は彼らの中で異彩を放っていた。誰よりも腕が長く、肩が力士のように盛り上がっていた。足は全体的に骨ばっていたが、筋肉がよくついていて、健やかに鍛えられていることは一目でわかった。うちの野球部をになうピッチャーなのだ。蒸気した体躯は、揺るぎない自信に満ちていた。

彼とすれ違うとき、彼がぼくを一瞥したような気がした。瞬時にムカデが背中を這うような寒気を感じ、息が詰まりそうになった。冷徹な目、潤いのない侮蔑をふくんだような目だった。

まさか目をつけられているはずはないと思うけど、ただの自意識過剰だと思いたいけれど、不穏な空気が胸のうちに立ち込めていた。

ぼくは何もしていない、絶対にしていない、と急いた心臓の鼓動を無視して歩いている間に購買部にたどり着いた。購買部はごった返していたため、しばらく渋滞が緩和するのを待つことにした。わざわざ人混みに突貫するほど、ぼくは好戦的な性格じゃない。


「あれ、松郷くんも購買?」

突然の声と同時にぼくのとなりに同じくらい背丈の女の子がやってきた。彼女の顔を見て、ぼくはつい驚きそうになった。

そこに立っていたのは、体操服をまとった安藤芙雪だった。

どうして彼女がぼくのとなりに立っているんだろう。松郷くんも、ということは彼女も購買部に立ち寄りに来たということなのだろうか。ともあれこんな場所で安藤さんに会えるなんて、今日はなんて運がいいのかしら。

けれども、今しがた竹熊の視線を感じて強張っていたので、急な話題がぱっと思いつかない。そもそもぼく自身教室内でもあんまり喋るタイプの人間でもないのだ。

ぼくはとにかく安藤さんと話すきっかけを見つけるため、彼女の容姿をちらりと見た。白と桃色の混じったタオルを首からかけていて、紺色の半ズボンのポケットからは赤いはちまきがひらりと垂れていた。

そうか、彼女は赤団なのだ。ということは先ほどの景色の中に彼女は混ざっていたのだろう。

「実はわたしも今日は購買なのです」

安藤さんはにこにこしながら、ぼくに向けてピースをした。

「わたしね、今年も赤団なんだよ。二年連続」と安藤さんは言い、腰の赤はちまきを指さした。「松郷くんは何団だっけ」

再び質問だった。ぼくは早押しクイズに答えるかのごとく、性急に青団だよ、と答えた。答えながら、ぼくは去年は自分が赤団だったことを思い出していた。


去年の体育祭は結構楽しかった記憶がある。高校最初の体育祭だったから、浮かれていたということもあるけれど、同じクラスの安藤さんとクラス別の競技に一緒に出場したことが根強く印象に残っていた。そのことは今思い出しても、背中の表面があたたかくなるくらい、うれしはずかしな心地になって、ふんわりとよみがえってくる。

ぼくが彼女に好意を抱きはじめたのもそのころからで、片思いの波間に白い花びらのぼくはいつまでもゆらゆらと漂っていた。

今年、ぼくと安藤さんの属する団は異なる。すなわち、それらは相容れないということだった。ぼくにとって残念でならないのは、楽しいこと悲しいこと、ありとあらゆることを好きな人と共感できないことだった。

ぼくのひよわな小心は、いつも小石を屋根に投げていて、むなしい音がコツンコツンと鳴り続けるのを聞いていた。

それからどんなやりとりをしたか覚えていない。まず間違いなく、気の利いた言葉は言えなかっただろうし、ふたりの関係性を朗らかにするような取り決めもできなかったと思う。

要するに、ぼくはとんと行動を起こさなかった。

ただただ、体育祭という大きなイベントの到来が、自分に素敵なギフトをさずけてくれることを夢想するだけだったのだ。




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