第3話


大勢のたましいが爽快なメンソールを吸い込んで、冴えた朝を街に連れてきた。沖縄の大通りも薄っすら涼しく。

写真立てを飾った机上の体操着に腕を通したぼくは一階に降りた。

リビングの風景は、いつもと変わらず、父は新聞を広げ、母はせかせかと朝食の準備、ぼくは小分けにされた林檎をひと口齧った。テレビの天気予報は全国的に晴れマークを付けていて、スマホの画面には、友人の柏木から気合いの入ったメッセージ。


今日はいい日になりますよね。

そうでなければ誰のための世界でしょう。


玄関を開けて、ぼくは学校に向かった。

グラウンドには、鉄骨で組み立てられたそれぞれの団席があった。

向かって東に赤団、真ん中に青団、そして西に黄団が位置していた。団席の上部には、美術部が制作したそれぞれの色をモチーフとした大きなパネルがでかでかと設置されていて、生徒たちがちらほらと集まっていた。

校舎側には白いテントが立ち並んでいて、そこは先生たちや生徒の親が待機する場所だった。

よほどのことがない限り、生徒たちは団席のほうに居座ることになる。それで自分が出場する競技の前になると集合がかかり、離れのスペースにまとめられる。

団別応援のときは編成が変わり、団員がすべて団席の前に集められる。それから笛の合図で、およそ五分間のパフォーマンスが披露される。

応援団の人たちはぼくたちとは違い、体操着ではなく、応援用の衣装を身につける。それはたとえば学ランだったり、法被だったり、着物だったり。

体育祭では、だいたいみんな何がしか役割を有していて、あのような衣装は衣装係がわざわざ手作りであつらえたもののようだった。連日クラスの女子数名が被服室に赴いていたのはそのためだ。


テントの中には、横長い机があり、マイクが備えてあった。放送部の連中が実況を行うためだ。彼らにとっても、この日はまた違った緊張感がある一種の舞台に違いない。

いや、それだけじゃないはずだ。

今日の体育祭にかかわる人たちは、各々がいろんな思いを抱えて、今日に臨んでいるんだ。

そんで力を尽くして、みんな心の底から空っぽになって、最後はお互いわや讃え合うんだね。

そういうのって、すごく楽しいと思う。


そうだよ、ぼくたちはこれから楽しいことをするんだ。


『──選手、入場!』


体育祭が始まった。



「うーわ、黄団容赦なさすぎ」

ご機嫌な太陽の日差しの下、ぼくと柏木は団席の最上階の真ん中辺りに座っていて、歓声の鳴り止まない灼熱のグラウンドを見つめていた。

今行われているのは綱引きだった。

黄団VS赤団という構図で、力の差は見るより明らかだった。黄団の生徒たちはみんな大柄で、腕っぷしのある連中だった。赤団の連中は為すすべもなく、まさしく芋づる式に黄団の方向に引っ張り上げられた。

黄団の男子は勝利に沸き、野太い雄叫びをあげた。テントのほうでは教師や親御さんたちが拍手を送っていた。

次の試合は黄団VS青団。

両者が所定の位置につくと、まず彼らはその場に腰を下ろした。開始するまでは縄を握ってはいけないルールがあるため、選手たちは静かに待ち構えていた。雲ひとつない快晴の下で、一本の荒縄は汗をにじませ、グラウンド全体に緊張感が走った。そして、中間に立つ黒いポロシャツを着た審判の腕がゆっくりと上がる。

──パンッ!

ピストルが鳴ったのと同時、両団がいっせいに縄をつかんだ。脇に抱えこむと、すさまじい掛け声とともに互いの陣地へ縄を引き合った。

今回は赤団のときとは違い、両者の実力は拮抗していた。青団は阿吽の呼吸を合わせて、押し上げる波のように縄を引き、黄団は持ち前の粘りでじわりじわりと縄を手繰り寄せようとしていた。どちらも渾身の意地を張り、一進一退の攻防を見せた。けれど、徐々に青団のほうが黄団のほうに引き寄せられ始めた。縄の中心に近い選手が前のめりになりだすことはピンチを意味していた。

「やばいやばいやばい」

ひしひしと伝わってくる迫力に、柏木も焦りを感じていた。

頑張れ、頑張れ、負けるな。ぼくは心の中で応援をした。ここからじゃ何の力にもなれないけれど、頑張れ。みんな、応援してる。ファイトだ。


そのとき、彼らのピンチに手を差し伸べた人たちがいた。ぼくらの座っている席の前列、そこにはたくさんの女子の姿があって、彼女たちはひときわ大きく甲高い声で青団の応援をしはじめた。

それにつられるように、ぼくらの周りも一丸となって鼓吹した。青団の声援は他の団を驚かせ、じゃっかん引かれてしまったのかもしれないが、その激励は確かに青団の選手には届いていたようだ。

彼らは息を吹き返したように、ふたたび縄をたくましく引き出した。体勢を立て直しさらに大きい声で盛り上げ、グラウンド全体を巻き込むほどの青い波濤を作り出した。

そしてついに、青い波は黄色い猿を飲み込んだのだった。

パンッ、パンッ!

乾いた音とともに拍手喝采が起きた。

みなが立ち上がり、青団の選手をほめたたえた。

「やべえ、俺鳥肌立ったわ」

柏木が唸るようにつぶやいた。

青団の選手は団席の前まで来て、応援ありがとうございました! と深々と頭を下げた。いっそう大きな拍手が彼らの帰還を歓迎した。


「さて、綱引きは青団が一位だったから、これで点差は僅差になったんじゃないか」

と柏木が言い、白いテントの左端に設置された点数ボードを眺めた。

ここまで各団、負けず劣らずいい勝負を繰り広げていた。しかしながら、100m走で点数を稼いだ赤団がいまだにトップを守り、次いで黄団そして青団という順位だった。

今回の綱引きによって、青団は黄団の順位が入れ替わった。けれども、まだまだ赤団との点数差は大きく、その後もいくつかの競技が行われたが、その差は縮まらなかった。

青団もじりじりと詰め寄ってはいるが赤団はことさらにミスが少なく、大量得点はないもののコンスタントに点数を稼いでいった。

結局、午前の部の競技が終了した時点で赤団、青団、黄団の順位は変わらなかった。


お昼休み、生徒たちは団席で昼食を取る。彼らの中にはテントに向かい、我が子の活躍を見に来た親から直接お弁当を受け取る人もいた。

ぼくも団席の支柱付近に置いていたエナメルバッグから弁当箱を漁った。けれど、そこには何もなくて、教室に置き忘れたことを思い出した。

柏木に、先に食べていて、と告げるとぼくは三色のはちまきが入り混じる人たちの間を抜け、校舎に向かった。

みんな外に出払って誰もいなくなった校舎はひどく静かだった。耳を澄ますとグラウンドの方から陽気なBGMは聴こえてきたけれど、今ぼくがいる校舎はほんとうに静かで、靴のラバーが床を擦る音がとても響いた。

中庭の日差しの影になるところを歩くと、心地よい涼しさが体操服をすり抜けていった。

昇降口で衣類についた砂を落とし、上履きに履き替え三階の教室に上がり、弁当箱を取りに行った。

入口以外施錠をされていた教室はがらんどうとしていて、ぼくはまるで誰もいない世界に迷い込んでしまったような気がした。隠し事があるわけじゃないのに、ここに居続けることがいけないように感じられて、鼻をすんと鳴らしたぼくは弁当箱を取るだけのことをして教室を出た。

一階に降りて、昇降口に続く長い廊下を歩いている途中、突然使われていない空き教室ががらりと開いた。

そこから出てきたのは、赤いはちまきをつけた同学年の男子、よく見るとそれは赤団の団長の弟、竹熊だった。ぼくはつい立ち止まった。彼はぼくの存在に気づいて、首だけぼくのほうに向けた。

彼と正面から向き合うことはこれが初めてだった。彼は何も言わなかった。しかし、その目は強い意思を宿しているように思えた。なにか、この先の運命を左右する決意をしたような目だった。

彼もまた、いろんな思いを胸に秘めて、この体育祭に臨んでいるのかもしれない。

竹熊は颯爽とぼくに背中を向け、昇降口に向かった。

彼の姿が見えなくなったところで、ぼくはおそるおそる空き教室をのぞいてみた。

すると、そこにいたのは、

「え、あ、ま、松郷くん?」

安藤さんだった。

彼女は黒板の前に突っ立っていて、ぼくの顔を見るや、ぱたぱたと教室を駆け回り始めた。

「いや、あのね、これは」

完全にうろたえている様子だった。

落ち着いて、どうしたの、と声をかけると彼女は首をぶんぶんと横に振って、

「違うの。何もないの」と、幼子がお気に入りのおもちゃを手放さないみたいに、頑固に何も答えようとしなかった。

「……」

もしかして、竹熊と何かあった? と聞くことはさすがに憚られて、ぼくはそれ以上何も聞けず、彼女の挙動が落ち着くのを待った。

ようやく安藤さんは落ち着きを取り戻したようで、一度大きく深呼吸をした。

「あのね、その、うまく言えないんだけど、というか、今は、うまく言えないんだけど、えっと、竹熊のことは黙っていてほしいっていうか、なんか、その、ごめん」

いや、いいよ。気にしないで。

ぼくのほうこそ、ごめん。

そんなふうに振る舞えるほど、僕は冷静な人間じゃなかった。けれど、下手な反応をして安藤さんを困らせてしまうのも胸が痛むので、僕は目線を彼女から外して、無言でその場所を後にしようとした。

「で、でも! あとでちゃんと事情は話すから! 絶対話すから、待ってて!」

事情? ……事情って、なに。あいつと二人きりで教室にいて、何もなかったはないだろう。

ぼくは彼女の、ぼくの気持ちをおざなりにする発言にたいして猛烈な憤りを感じた。

だけど、それを言葉にすることは理性で止めた。止めた分だけ、切ない気持ちが拍子もなくじわりと湧き上がって目の奥が熱くなった。

たまらなくなって、ひとたまりもなく破裂してしまいそうだった。


早く、行きなよ。体育祭はひとりじゃ楽しめないよ。

と、ぼくはかすかに震える声で、安藤さんに言った。彼女は小さくごめんと言って、ぼくの横を過ぎていった。

誰もいなくなった教室は孤独でしかなかった。けれども、今のぼくの気持ちをなだめられるのもまた孤独しかなかった。

だからぼくは一番後ろの席に座って、母がいつもより気合を入れて作ってくれたお弁当をもくもくと食べ続けた。



「黄団は容赦なかったけど、女子はあれだな。えげつねえな」

午後の種目は女子の障害物競争から幕を開けた。その筆舌に尽くしがたい、女子たちの勇猛果敢な姿を見ていると、柏木の言うこともわかる気がした。修羅場をぎゅっと凝縮したような、ちょっとした痛々しい光景だった。男子は呆然とするばかりだった。

「マジで笑えねえ」

くわばらくわばら、と柏木は手をすりあわせてお祈りしていた。

そうだね、笑えないね、とぼくは漏らした。その真意は、もっとべつの場所にあってぼくは気が気ではなかった。

「松郷、お前元気ないな。もしかして気分が悪いです、とかはやめてくれよ。もうすぐ俺たちは──」

柏木の言葉を遮るように、団席の後方で笛が鳴った。

「二年生男子諸君、時間だ。準備に取り掛かろう。降りてきてくれ」

笛を鳴らしたのは椎名だった。団席よりすこし離れたスペースを指差し、ぼくらを先導した。

「来たぜ来たぜ、この時が。ついにお呼びってわけだ」

柏木は野生児みたいに団席の最上階から軽々と飛び降りた。ぼくはほかの生徒の間をかき分けて、下に降りた。スペースには見知った顔がたくさんあった。

「じゅうはち、じゅうく、にじゅう、よし、これで全員だな」

点呼を終えた椎名がぼくらの輪に入った。みんなの顔がよく見えた。

「1年生女子の障害物競争のあと、先生たちの借り物競争がある。そして次のプログラムが、2年生学年種目『騎馬戦』だ」

応援、声援、談笑の乱れる騒がしい空間の中で、椎名の澄んだ声ははっきりとぼくらの耳に届いた。図らずもみんな集中力が高まっていることで、雑音を排除していたのかもしれない。

「では差し当たり、騎馬戦のルールを大雑把に説明していく。みんな心して聞いてくれ」


・4人一組で一騎とし、3人の馬役と1人の騎手で構成すること

・各団五騎までとし、そのうちの一騎を大将とすること

・騎手がはちまきを奪われたら、騎馬はその場に着座し、以降の参加は認めない

・また馬役と騎手いずれも、地面に手をついたらその場で失格とする

・危険行為を行った騎馬は即刻退場と見なす

・勝敗は川中島方式を採用し、各団の大将騎がはちまきを奪われた瞬間に、敗北とする

・制限時間は無し

・競技中、やむを得ず棄権をする際は、騎手が挙手し、審判に周知すること

・競技は公正な判断の下で行われる

・競技者は道徳的規範に準じ、極端な一騎狙いを行ってはならない


「とにかく危険の多いスポーツだ。みんな呉々も怪我には用心するように。赤団も黄団の男連中もこの競技にすべてをぶつけてくるはずだ。生半可な気持ちではまず勝てないぞ。いいな」

ぼくらはそれぞれの覚悟を念入りに確認するように目線を交えた。気持ちが団結していく様子は言葉にしなくてもわかった。

「昨日、俺たちはあらかじめ騎馬の配置を取り決めた」

ぼくのクラスの男子は20人いて、4人一組、合計5つの騎馬をつくった。ぼくは割合体重の軽いほうだったから騎手に選抜された。椎名もほかの騎馬の騎手になり、柏木はぼくの騎馬の馬役になった。

騎手になるということは相手のはちまきを奪取するという重要なポジションであることを指す。果たしてぼくにその重役が務まるのだろうかという不安は絶えなかった。

「だが、俺たちはまだ、かなめの大将を決めていないよな──つまり、今からその大将を決めようと思う」と椎名は真顔で全員を見渡した。「騎手、一歩前へ」

その声に反応し、ぼく、椎名、そして残り3人の騎手が輪の中心に集合した。

「で、肝腎かなめの大将さんを、いったいどーやって決めるん──」と外から柏木が言いかけたとき、椎名がそれを遮った。

「さーいしょーは、ぐー」

「ジャンケンかよ!」思わず柏木が突っ込んだ。

ほんと、正気の沙汰じゃない。


ポンッ!

パー・パー・パー・パー・チョキ。

チョキを出したのは、ぼくだった。

「そういうわけだ。青団の命運は、お前が背負え」発起人はぼくの肩を力強く叩いた。

え、ちょっと待って。

ぼくはおそるおそる自分で自分を指差した。

「いいじゃないか、松郷。天はお前を選んだんだ。なあに、お前ひとりで戦うんじゃない。しんがりは俺たちがばっちり務めてやる。お前はお前の役割を果たせばいいんだ」

けれど、初っ端からぼくがやられたら、それで青団は負けが決まるんだよ。こんな重圧はない。ぼくを大将にするのは不適だ、誰が考えても符号が一致しない。きっと、こんがらがって、生まれたてのポン菓子みたいに炸裂するよ。荷が重いよ。背中に象を背負わされたみたいに重いよ。無理だって、ほんとうに。無理、無理の無理。

「怯えるな、負けるという意識をするな、威風堂々と構えろ。大将がどすんとしている限り、俺たちもひるんだりしない。そういう精神的な支柱になるのがお前の役目なんだよな」

椎名のこの言葉に、みんなもうなずいていた。そしてみんな、椎名と同じようにぼくの肩を叩くと、めいめい一言をくれ、横を過ぎて行った。

「て、テイクイットイージー」

柏木は覚えたてのイディオムで、ぼくの尻を蹴り上げた。痛かったけど幾分緊張がほぐれた気がした。

「ほんとうに、いいんだな」

どうなっても、ぼくは知らないからな。

かき混ぜたって泡立たない孤島のような憂いは、みんなに預けたからな。

「任せとけ」

椎名はそう言った。




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