セントエルモの火
「消え――た?」
消し飛んだ? そんなまさか、跡形もなく? いぶかし気な言葉は令嬢。だが、狼狽の混じった心は、通じ合った夫婦のように、重なっていた。
だが、それも束の間。
違う――! 執事だけが、違和感に気付いた。
「お――」
とっさに、愛する者を気遣った。だがまずは、
「――マエ……!」
瞬間、嫌悪する。愛する者を呼ぶべき言葉が、強制的に、敵意へと変えられたからだ。もちろん、それを悔いている時間は、ない。
あまりに理不尽な力に、執事も、己が力まで引き出さざるを得なかった。精神を奪われる限界まで――あるいは、それを超えてまで。
「口が悪いですよ、カルナ」
よく知る彼女の姿が、幻のようにそこに、唐突に現れる。あの日のまま――つまるところ、ここまでにぼろぼろになっていたはずの身だしなみすら、完全に整え直した姿で。
「ドノクチガ――」
――言うのか。そう、執事は言いかけた。彼女だって、さきほどまで、彼女らしからぬ口をきいていたはずだ。そしてそれこそが、正しいのだと。
そんな、噴飯や狼狽。使命感や義務感、愛情に激情。すべてをない交ぜに炎に変え、身を焦がし、敵対する。
――そんな、数々の感情を――欲を――『強欲』を、あざ笑うように、圧倒的な力が執事を吹き飛ばし、そして――
「夢を見るのはもう、おやめなさい」
――夢のように、消えた。
*
執事は、察知した。――してから、したことを、後悔する。
『グラウクスの翼』。飛行能力と、外敵の感知。それらを併せ持つ、『アテナ三装』――執事の用いる『
それが、察知した。感知した。
ふたつの、
「お――」
その片割れは、自分を吹き飛ばし、消えた。まるでこの炎熱に燃え尽き、灰となったように、消えた。
だが、もう一方は、遥か彼方。たった十数メートル先の遥か彼方で、大切な――
「お嬢さ――」
執事の大切な、大切な大切な、愛する彼女を――
「カルナ――」
嫌な音とともに、打ち砕いた。
黒紫色の『異本』が、空を舞う。
*
バチッ――――!!
その『異本』は、メイドの手でひとつ、迸った。稲光は彼女の全身を駆け、その身体を蝕む。彼女の身体が、また、消えた。
「――ま……」
くずおれる。駆け寄る余裕もない。そうしなくとも、もうとっくに、終ってしまっていることを、理解しているから。
二度も、同じことを繰り返している。執事は回顧する。あの、地下世界での出来事。当時は、ここまでの感情はなかった。だが、お嬢様をお守りする。その一点に関しては、いまとそう、違わない強さで、思えていたはずだ。
それでもまた――まだ、繰り返した。
「抗力が強すぎますね。少しの間、この『異本』には触れられませんか」
消えた彼女が、なんでもなかったかのように、またそこに、現れる。夢か、
だが、『グラウクスの翼』。外敵の感知を行えるこの宝創があれば、その存在を、いくらか推測できる。
瞬間、二体現れた彼女。そのどちらも――あるいは、眼前に再度現れた彼女すら、
かつて、地下世界で相まみえた、分身を創る能力よりも、さらに、上だ。彼女は、
「アルゴ姉――」
執事は、冷静だ。彼だって、求めている。
令嬢が望んだ、『強欲』の果て――。彼女のための――いいや。
「それが、『神話の果て』か……?」
かつて、EBNAにて、施設長、スマイル・ヴァン・エメラルドから、教育されたことがある。EBNA第六世代以降に移植された『
――『神話の果て』――。
つまるところが……神の、力だ――。
「あなたにはまだ、知る必要のないものです。極玉を扱いきれもしない段階では、まさに、夢のまた夢の世界ですから」
「なるほど。理解したよ」
それを執事は、肯定と理解する。そしてそれは、自分にはたしかに、早すぎた。
いま、この土壇場で、彼女と同じ場所にまで――あるいはせめて、極玉を扱いきれる段階にまで、虫のいいことに到達しようなどとは、露ほども期待してはいない。
自分は、自分だ。
彼女を愛した。そして、彼女が愛した、この自分で――このままで、いい。
そう、執事は思う。
「……繰り返しになりますが、もう、夢を見るのは、おやめなさい。それは、あなたたちにとってただ、辛いだけです」
「人は、夢を見るものだよ。アルゴ姉」
すっくと、執事は立ち上がる。そうして、まさに人間のように、悲哀の混じった微笑みを、向けた。
だから、メイドも息を飲む。その感情を、彼女も知っていたから。
「駄々をこねないで、分相応な夢を、望みなさい。……人は死んだら、それで終わりです」
完全に絶命したはずの――そこから生き返ったらしい令嬢を見て、メイドは言う。いましがた、二度目の終焉をくれてやった、相手を。
彼女は、当然ともう、動かない。
「そうかもしれない。……そうかもしれないが、アルゴ姉。だが現に、お嬢様はご復活あそばされた。であれば、『人は死ぬ』、あるいは、『死ねば終わる』という固定観念も、覆るものかもしれない」
「その仮定が成り立つとしても、この場合は、あなたたちに不幸をもたらすだけです。他者の手に委ねられたかりそめの命を、いったいどう継続させるつもりですか」
「どうとでもするさ」
有無をも言わせぬ迫力で、執事はメイドを、睨む。その、なんの根拠もない、決意を。
「脅迫でも、迎合でも。懇願でも、服従でも。俺はなんでもする。……そしていつか、奪い取る。あるいは学び、真似び、その手法を、模倣する。そうでなくとも、結果はすでに、この世界に存在すると知った。であれば、他の方法であろうとも、必ず見つけ出す」
「それはまた、あなたらしくない。……愚直で、無謀で――」
なんて眩しい――
「……『強欲』、です」
思うところがあるのだろう。メイドはわずかに、表情を陰らせた。そのわずかな機微には気付いた執事だが、しかし、あえてそれを、追及などしない。
……解って、いるから。
執事はそれが、自身が抱く感情とよく似たものだと、解っていたから。
「なにが悪い」
執事は、言う。
「欲を持って、なにが悪い。『強欲』で、なにが悪い。俺は――俺たちは、愚かで、弱くて。だからこそ、誰かといなければ立ってもいられない――」
かつて、『道具』として生きた彼は、感情を忘れていた。だがそれも、けっして、なくなってなどいなかった。
事あるごとに思い知る。どんなに捨てようと、忘れようと――
「――俺たちは、人間だぞ!!」
結局、自分は――。
愚かで、醜く、弱くて、儚い。
――ただの、人間だ。と。
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