台湾編 本章 ルート『憂鬱』

戦場に生きた者


「各々の戦線にて、どうやら口火は切られた、か……」


 その仙人は、真白な顎髭をきながら、呟く。革張りのソファに横になり、だらけているようにも見えるのだが、その纏う雰囲気は、殺伐としていた。その強い眼光は、空を見上げ、思惑に耽っているようにも見える。それでいて、仕留めるべき敵を、まっすぐめ付けているようにも。


「我の相手は、まだ、死生の狭間か……。そうだ……それでいい。我と――対峙するのに、その程度ではな……」


 瞬間、仙人は己を、『神』と、そう言おうとして、思考を曲げた。この闘争は、『神』としてのものではない。しかして、すでに『人』ではない身、人間同士の戦いとも、やはり違うのだけれど。


 ク――――。と、笑い出そうとするのを、あえて抑えた。享楽に相対するには、さすがに強敵だ。だが、真面目にやってしまえば、それはそれで話にならない。


『神の力』は使えぬな。そう思う。そこに不満があるわけではない。むしろそれは、仙人としても望むところだ。だが、いまだ余力を残したままの闘争に、はたして満足できるだろうか? と、そう、思うのである。


 相手は、もはや『神』の域にまで踏み込んだ人間だ。であれば、『神の力』を用いても、それなりに持つ・・だろう。そうも思う。だが、多少を耐えようが、やはり、その時点で結果は決まってしまう。


 まったくもって、もどかしい。仙人は思った。


 あのころ――『人』として生きていたころは、全身全霊でよかった。全身全霊をもって、なお足りなかった。そんな世界で、生死を賭けて、戦い続けたのだ。

 思えば、恵まれていた。それだけの感情を抱けた、あの人生は、実に実に、賜物だった。なれば、それをいまさら望むのも、行き過ぎた願いか。


「クックック――」


 仙人は、今度は意識的に、苦笑を漏らした。身を起こし、地に足をつけ、ソファにもたれる。どこからか取り出した瓢箪を傾け、その内の、酒を飲む。甘美なる酩酊が、ひととき、彼を満たした。そして瞬間、回帰する。アルコールによる心身の異常も、もはや思い込み程度のものだ。いや、事実、酩酊はできる。だけれど、それも、己が意識で生み出したものであり、あるいは、その思惑で消し去れるものだ。


 つまるところが、己は、己のみで完結している。自身はいつでも、望むとおりにすべてを得られ、すべてを失え。世界を望むまま変えることができ、望まぬまま・・・・・に変えることすらできる。


 世界は、己が思い通りの、物語でしかない。『神』とは、そういう次元ステージに上がった者のことだ。


「つまらぬな」


 げに、つまらぬ。……つまらぬ。そう、仙人は繰り返した。


『神』の憂鬱は、静かな物語の中、つらつらと、巡る。


 ――――――――


 広さ、545平方メートル。敷き詰められた畳は、256枚だった。畳を囲うようにフローリングの床もあるにはあるが、全体的に、畳の占める面積が多い。床の間には掛け軸、違い棚の上には、いくらかの工芸品も並んでいる。かなり和風を意識した構成だが、壁紙はいじっていないようで、ビル全体と変わりなく白いから、どうにもアンバランスだ。とはいえ、やはり広々と敷き詰められた畳を見ると、どうにも、道場のような装いである。


 そして、その中央付近に、座る者が、ひとり。脇にひと振りの日本刀を置き、粛然と待ち構えていた。


 日本刀は、彼の左側に置かれていた。武士の作法としては、本来、敵意のないことを示すため、着座の際は右側に刀を置く。これは、左手で鞘を持ち、右手で刀を抜く都合上、右側に刀を置くと、とっさに抜きにくくなるからであり、さらには刃の方を自身に向けて置き、なお、抜きにくくするのが本来であった。


 だが、眼前の相手は、敵意をむき出しに、左側に置いていた。刃も外向きだ。いついつでも、その刀を抜けるようにと。それでいて、彼のたたずまいは穏やかで、まるで眠ってでもいるかのよう。あるいは、死んででもいるかのようでもある。実際、どうやら目を閉じている。しかし、眠ってもいないし、もちろん、死んでもいない。少女はそう、理解していた。


 いや、正確には、その理解は間違いだ。だが、現時点では・・・・・、いちおうそれは、正しいと言えなくもないだろう。


「おぬしが、拙者の相手でござるか」


 目を閉じたままに、彼は言い、静かに立ち上がった。身の丈は、特段に高くない。成人女性としてもだいぶ小柄な少女とはいえ、頭ふたつは差がないかもしれない。体の厚みも、けっして大柄とはいえない。だが、しっかと筋肉はつき、身体能力の高さは十二分に感じられた。


 赤黒い髪は、肩あたりにまで伸ばしているようだが、それらを乱雑に、うしろでひとくくりにしている。総髪そうはつ……と、呼ぶべきなのかもしれないが、だいぶ適当なまとめ方だ。前髪が一部、結いから逃れ、垂れている。服装は……旅館などに備え付けてあるような、簡素な浴衣にしか見えない。し、おそらく、その程度のものだろう。だが、彼が着ると、それも武士の正装のように見えなくもなかった。それだけ、彼は武士として――侍として、完成している。そのような雰囲気を、ずっと、放っている。


 と、いうなら、それは、殺気か。そうまで能動的なものではなくとも、生死を賭けた世界で生きた者の、独特の気質を漂わせている。


 見開いた眼光は、四白眼かと見間違うほどに、白かった。だが、よく見れば、それが銀色の虹彩だと解る。その中に、揺蕩うように黒目が浮いていた。地球外生命を思わせる瞳である。


 そんな侍が、道場に、靴を脱ぎ乗り込んだ少女を見て、ひとつ、長いまばたきをした。それから再度、目を開き、その不可思議な瞳を世に晒す。そうしてから、彼は、後ろに背負っていた床の間へと向かった。


「拙者は、これ・・を守るようにと言付かっておる。だが、在処は示しておくべきであろう」


 少女にとっては、言われるまでもなく自明のことだが、侍は公平に、違い棚の低い方を示した。そこに、彼が守る『異本』がある。そういうことだ。


 相手――WBOにとっては、さして重要ではないが、こちらサイドにとっては、各階層にて行われる戦いは、どれも重要である。というのも、それぞれの敵は、各々一冊ずつの『異本』を与えられている。そして、彼らはそれを――各々目的は違えど――守るように言い含められていた。つまり、戦って勝ち取るしか、それら『異本』を手に入れるすべがないのだ。いやもちろん、平和的交渉を試みてもいいが、基本的に、WBOサイドは敵対心を持っている。


 少なくとも、この階層は、戦いを避けては通れない。そう、少女は理解していた。


「拙者が死ねば、おぬしはこれを見付けるのに、多少の手間をこうむることとなろう。死人に口なし。ならば、言うべきことは先に、言っておくべきでござる」


 さて。侍は言って、彼がさきほど座っていた場所にまで、戻った。わずかな距離とはいえ、刀を置きっぱなしで、彼は移動し、話をしていた。それは、いざとなれば即座に舞い戻り、対抗する心づもりをしていたからなのか、あるいは、少女を信頼していたからなのか。


 いいや、見抜いていたのだろう。少女の、内心を。この相手は、正々堂々としている。そのように。


「話は、以上にござる。もはや言葉は不要。おぬしの目的を成就させたいのなら、構えるにござる」


 言って、侍は己が刀を拾い上げた。だがそれだけで、構える様子はない。少女を、待っているのだろう。

 少女は、慎重に、腕に力を込めた。構え――とまでは認識されないように。まだ、始める前に、語るべきことがある。


「よければ、貸しましょうか? 『赫淼語かくびょうがたり』を」


 その刀を持ち上げ、彼へ差し向ける。やはり、戦いへ向けた構えだとは思われないように、細心の注意を払って。

 少女の言葉に、眼前の侍は、わずかに目を細めた。構えはせずとも万全に、心構えは解かぬままに。


「どうやら知っているようでござる。しかし、心配りは無用。むしろ拙者は、とも、斬り合いたい」


 言うと、その期待を表すように、侍は口元を緩めた。

 そして、抜刀する。だが、まだ、それだけ。彼はやはり構えはせずに、ただそれを握り、胸元まで持ち上げた。その柄を、覗き見るように。


「こちらはリュウ殿が用意してくれた一振りにござる。三代目箸蔵はしくら霜銘そうめいが作。『流柳舞りゅうやぎまい』。刀としての本分を残したまま、極限まで軽く、薄く仕上げられた作、と、聞く。たしかに軽い。だが、そうでありながら頑強。どうやら材料に気を遣ったというが、その反動というべきか、切れ味が悪い」


 ゆえに。侍は言って、持ち上げた刀を下げる。あくまで正々堂々と、少女の構えを待つためか、やはりまだ、彼も構えない。


「一定以上の速度で振るわねば、まずもってなにも、切ることすらできぬ。だがその反面、その切れ味は、速度とともに、無限に向上する。そういう、一振り」


 この説明も、正々堂々だ。自分は相手の刀を・・・・・知っている・・・・・のに、こちらだけ手の内を晒さないわけにもいかないと、そう思ったのだろう。


 そして、それが終わり、今度こそ、話はすべてだ。


 少女は、仕方ない、と、腕に力を込めた。構えたら、始まる。だから最後に少しだけ、気持ちを整える。

 戦うしかない。この侍は、戦わずして『異本』を渡すつもりは、毛頭ない。そう解るから。刀での斬り合いだ。相手を殺す――までしなくとも、手足を落とすくらいの重傷を負わせなければ、勝ちとはならないだろう。仮に刀を折っても、彼は戦い続けるつもりだ。そう、読み解く。


 ゆえに、少女は彼を、殺す気で立ち向かわねばならない。その覚悟は、できてる。問題は、殺される恐怖だ。


 正直、彼の力量は、掴めない。少女の洞察眼を持っても、完全には読み解けない。それだけの、達人。かつての老輩を――フウ老龍ラオロンを想起した。結局、完全にはその力の底を見せなかった、少女の、師匠を。


 だから、本当に勝てるかなんて、解らない。少女はそうそう死ねない体ではあるが、それでも、一撃必殺に斬り伏せられれば、絶命する。それに対する恐怖には、覚悟してきたつもりだったが、やはりいまだ、抗えない。


 どれだけ強く、賢くなり、世界を達観できようと、自身の心までは、歳相応でしかない。それは、くぐってきた修羅場――経験によってのみ、培われるものなのだから。


 ぐっ……と、覚悟を固めるように力を込め、少女は、ゆっくり、構えた。


 両手でしっかと、体の真正面に、刀を持つ。切っ先を相手の喉元へ向ける、正眼の構えだ。


「ノラ・ヴィートエントゥーセン。……いざ、尋常に――」


 侍も、構えのために動き始めた。その構えが完成しきる前に、少女は、名乗りを上げた。

 その名乗りにであるか、あるいは、ここから始まる闘争に対してであるのか、侍はにわかに、口元だけで、笑う。




赤ヶ谷あかがや銀九郎ぎんぐろう




 侍は名乗り、そして、構えを完了した。瞬間の、凪。




 ――そして、真剣勝負・・・・が、始まる。




「参る」



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