止められぬ思い


「――って感じなんだけど」


 淑女は帰宅し、この日、職場で起きたことを一通り、麗人に話した。これまでも何度か、あの部屋に関することは話していたが、その日、感じたこと――部屋の奥にいるらしい何者かの声に聞き覚えがあることについては、今回、初めて、話してみたのだ。

 だからといって、疑問に対する解決を期待したのではない。ただ、普段の雑談のひとつとして、話題を提供しただけのことである。


「誰なんだろうね?」


 麗人は、簡素な疑問をだけ、ただ口にする。特段に忙しくしているわけでもなく、思惑に溺れている様子でもない。また、なおざりに会話しているわけでもないのだろう。紅茶を淹れて、向かい合い、前かがみに聞き耳を立ててくれている。まっすぐと目を合わせて話してくれるから、淑女としてはややくすぐったい。


「解んない、けど、たぶんWBOでも上層部の人だと思う。暫定的とはいえ、『一級執行官』の人を顎で使ってるみたいだったし」


「ああ、それね」


 またも簡単な返答で終えられた。そう、淑女は瞬間、思った。


「たぶん、『異本鑑定士』だと思うよ」


 だが、麗人の言葉は続いた。先の返答はそのための枕でしかなかったようだ。そんな思考にわずかばかり頭を働かせたから、淑女は、言葉の意味を理解するのにやや、遅れる。


「い、『異本鑑定士』?」


 声が、少し裏返った。特段に男の――彼の家族たちの『異本』蒐集に積極的ではない淑女とはいえ、その存在が稀有なことくらいは知っている。現在、自らが所属しているWBOにおいて、それが重要で、地位の高い役職だということも。


「そうそう。ちゃんと言ってなかったけど――というか、私も最近まで忘れてたんだけど、ちょっとしたプロジェクトがあってね。『世界樹』の一室を使うとは知らなかったけど、たぶん、それ関係じゃないかな」


「プロジェクト? ……それって、どんな?」


「詳しくは、私程度には知らせてくれなかったけど、『異本』に関するすごく重要な研究、みたいなニュアンスだったな。ああ見えてゾーイって、仕事に関してはちゃんとしてるんだよ。普段はすっごくラフに、お友達として接してくれるけど、守秘義務っていうか、極秘情報なんてのはほんと、しっかりお口チャックなんだよね。『異本』集めのために、なんとか情報を聞き出そうかと、いろいろ試したけど、どれもうまくいかなかったなあ」


 遠い目をして、麗人は言った。しみじみと、さして昔のことでもないのに、懐かしむような口調だった。


 だから、淑女は、言葉を探す。仕事を引き継いでひと月近く経った。そのころからずっと、一緒にマンションで寝泊まりしている。大所帯に・・・・なったから・・・・・、当初、麗人が住んでいたのとは別のマンションに移ったが、とにかく一緒だった。


 その間、何度も彼女を諫めた。父親とも呼べる存在――いや、血なんか繋がっていなくても、彼はたしかに彼女らの父親だろう。彼――稲雷いならいじんが、彼女らの父親が殺されたことへの、復讐。それを、やめさせようと。


 淑女にも、気持ちは解った。淑女の故郷も、狂人ネロの用いる、『噴炎ふんえん』により壊滅させられた。その暴力で、両親さえ失った。だから、少女が――男たちが彼を殺さずに解放したことについて、淑女は複雑な気持ちを抱いたものだった。悪人には、相応の、罰を。そういう復讐心が、淑女にもたしかにあったのだ。

 だが、反面。ほっと胸をなでおろす安堵をも感じたのである。よかった。姉とも、あるいは母のようにも慕う少女が、手を血で染めなくて。と、そのように。


 そのときから、淑女の中での『正解』は、確定したのだ。大切な人が殺されようと、それと同じように、暴力で報復することは間違いだと。自分がもっとも忌み嫌う、加害者と同じになるだけだと。

 だから、淑女は探したのだ。何度言っても、何度でもやんわりと跳ね除けられてきた、諫めの言葉を。彼女を――彼女たちを止める、言葉を。


「あれ、ハルカ、お出かけ?」


 淑女が言葉を見つける前に、麗人が言った。言葉の先を見ると、たしかに、ぼさぼさ髪の自宅警備員が――いや、もう彼女は引きこもりではない、これからは佳人とでも呼んでおこう――玄関へ向かっているところであった。何年も引きこもっていた彼女が、最近はわりと頻繁に、外出していることは、淑女も知っていた。


 声をかけられた佳人は、「ちっ」と舌打ちをして、「ああ」と、不機嫌な返答を短く残して、足早に玄関に行ってしまった。


 ……が、すぐに戻ってきた。


「まったく、油断も隙もありませんね」


 いや、正確には、戻されてきた、とでも言ったところか。もこもこなピンクの、起毛した寝巻の襟を掴まれ、まるで猫のように、引きずられている。それを引きずってきたのは、クラシカルなメイド服に身を包んだ、メイドであった。半月ほど前に突然現れ、それ以降、彼女もなんやかんやと、いまは一緒に住んでいた。


「離せよ。ミネラルウォーターペリエ買いに行くだけだっての」


「さようですか。でしたら好都合です。ちょうど買ってまいりました」


「悪い、実はオランジーナの気分なんだわ」


「それも買ってあります」


「……ランドゥメンヌのクイニーアマンが食べたくて」


「もちろん買ってあります」


「便利だな、おい!」


 佳人は諦めてうなだれた。その内心を推し量ってか、メイドは佳人の襟から手を離す。そうしてから大量の購入物をまさぐり、彼女の欲した品物を並べた。


「クロワッサンも買ってまいりました。夕食にしましょう」


 にこりと笑うと、メイドは、食材を抱えてキッチンへと向かった。


        *


「繰り返しお伝えしておきますが、性急な行動は慎みくださいますよう。みなさまの仇であるWBO『特級執行官』三名は、現在、謹慎処分中です。ほぼ、WBO本部ビルから外出することはございませんので、手を出す機会はないと言っていいでしょう」


 料理を並べ、みなが席に着いてから、メイドは言った。強く釘を刺す言葉を。彼女が言ったように、何度も繰り返されてきた、言葉を。


「特に、先日ハク様から連絡が入りました次第ですと、近々、WBOとの交渉に入るようです。みなさまが勝手な行動をとることは、WBOの心証を損ねることに繋がりましょう。ハク様にご迷惑がかかることもお考え下さい」


 その言葉に、佳人は一度、舌打ちした。


「しかるべきときに、ノラ様が、みなさまと『特級執行官彼ら』をお引き合わせくださるそうです。それまではどうか、気持ちをお静め、お待ちください」


「謝罪されようが許す気はないよ。ノラがあいつ・・・と会わせてくれるってんなら、あたしはその場で、あいつを殺す」


 メイドの話が長かったのだろうか。佳人は貧乏ゆすりをしながら、強い語調で言葉を吐いた。その剣幕に、淑女は少し、ぴくりと肩を震わせる。


 ダメなのかな。と、淑女は、落ち込む。麗人になにを言っても、きっと彼女は、佳人が止まらなければ止まれない。そしてこの佳人を言いくるめることは、淑女には難しい。どころか、不可能にも感じた。


「どうぞ、お好きになさってください」


 そんな淑女が期待していたのは、メイドが佳人をなだめることだった。しかし、ここで、メイドは、佳人の行動を容認した。だから、耳を疑って、淑女はメイドの方を向く。


「そもそも、向こう側には謝罪の意思などないでしょう。その昔、前の主人に仕えていた際に、WBOにはよく出入りしておりました。その間、ただ一度ですが、『特級執行官』、コードネーム『ランスロット』とは顔を合わせております。当時は『二級執行官』でしたが。ともかく、そのときの印象だけでも、あの者は傍若無人で、己が行いを省み、悔いるような人間ではないと理解できました。ですから――」


 殺しなさい。と、ずっと淡々とした口調ではあったメイドだが、そこでさらに、感情を消したような口調で、低く、強く、言ったのだ。

 その響きを馴染ませるように、一拍の間を、開ける。


「この世には、死んだほうがいい人間だって、たくさんおります。彼らは普段、わたくしたちの生活に、さして深く関わってきません。しかし、ときに、運の悪いごく一部の方々が、彼らの被害にあう。ハルカ様――みなさまの感情は正常です。その行動は正義です。私だって、ハク様に危害を加えるような輩がいたなら、たとえ『家族』の誰かであろうとも、許しはしないでしょう」


 それは、脅しのようにも響いた。改めて、早まった行動は慎むようにと。その言葉を、別の言い方に込めただけだ。


「ただ、覚悟しておきなさい」


 メイドは、一度、強く両瞼を結び、再度、開いた。その目は、それまでよりも少し、細く見えた。


「殺人とは、みなさまが思っているより大変なことです。言うまでもなく、精神的にも肉体的にも摩耗することでしょう。殺意は、相手に向ける以上、相手から向けられることも覚悟しておかねばなりません。返り討ちにあって、みなさまがお亡くなりになることも、十分あり得ることです。また、仮に成功したとして、やはり、このたびみなさまがそうして・・・・いるように・・・・・、近親者が復讐に来ないとも限りません。もちろん、一般的な司法官権がみなさまを追うことにもなるでしょう。これよりさき、みなさまが心休まるときは、もう二度と訪れません。そう、覚悟できるなら、是非にやりなさい」


 殺しなさい。もう一度、メイドは言った。さきほどよりかは若干、軽い口調だった。


「……そんなふうに脅しても、あたしらはやめないよ」


 気圧されたのだろう。やや間が開いたが、まっすぐと視線を合わせて、佳人は答えた。食卓の雰囲気が、ひりつく。


「ですから、やりなさいと、そう言っているのです。ただ、私の脅しくらいは、理解しておきなさいと、そう進言したまで。早まった行動もとらぬように。いまは時期が悪いですし、やはりハク様の邪魔になります。しかるべきときが来たら、私も、できる限りのサポートをいたしましょう」


 真剣な表情で、メイドは言った。どうやら本気らしい。そう、淑女は判断する。


 なんでだろう? と、失望に似た感情で、内心、彼女はメイドを非難した。それは絶対に、正しくないのに。と。


 話が長くなってしまいましたね。食べましょう。そうメイドが言うと、みなが黙って、食事に手を付けた。誰よりも遅れて、淑女は食事を開始する。その日の食事からは、どうにも味が、感じられなかった。



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