End Works


 翌日。淑女はいつも通りに出社した。新たに住み始めたマンションはやや遠く、『世界樹』まで、地下鉄メトロに乗って三十分ほどかかる。

 いつも通りに到着して、三十階建てのビルディングを見上げる。淑女は、やはりいつも通りに、嘆息を零していた。決して嫌いな職場ではないが、まだ慣れない人間関係を、おっかなびっくりこなさなければいけないのが憂鬱なのだ。


本の虫シミ』での清掃員の日々が懐かしかった。長年勤めたということもあり、あの場所での人間関係は円滑だったから。しかし、昨夜メイドからの報告によると、どうにも、とうとう『本の虫シミ』も解散したらしい。つまり、麗人からの依頼がなかったとしても、もうあの場所へは帰れないのだ。とうぶんは、WBOここでやっていくしかない。


 淑女が基本的に活動拠点とする『司書長室』は、一階にある。『世界樹』の根本。また、めったに来ない外客への対応をするカウンターの近くでもある。『司書』の肩書を、いちおうは与えられている職員も多少いるが、実質的な仕事はやはり、司書長、ゾーイ・クレマンティーヌひとりで行われていた。それは、彼女の扱う『異本』によるものでもあるわけだが、それ以上に、それを使いこなせる彼女の有能さによるところが大きい。本当に、性格や幼さ(外見・内面含む)を度外視すれば、ともすればWBO全体において、トップに有能な人材だとさえ言えるだろう。


 こんこん。と、小さくノックをして、たっぷり五秒。いつも通り返答がないことを確認して、淑女は、『司書長室』へ入った。時刻は、午前六時である。


「お、おはようございま――」


 おずおずと、淑女は挨拶を投げ掛けた。投げ掛けかけた。そして、「ひっ……!」と、短い悲鳴を上げる。


「ぐひゃー。すぽー。ひみー」


 部屋の中央で、司書長が死んでいた――もとい、眠っていた。その姿は、くるくると可愛らしくカールした、オレンジのミディアムヘア――それをぐしゃぐしゃに振り乱した、狂乱のごとき様相だ。暖房はつけっぱなしのようだが、下着姿に、サイズの大きすぎる『おやすみちゅー』とプリントされたTシャツを着ているだけの軽装である。それは、明らかに大きすぎるTシャツなのに、胸部だけはきつそうだった。それを見て、淑女は少し、殺意を覚える。ともあれ、そのままでは風邪でもひきかねない。布団を探したが、なぜだか壁に引っかかっている。毎度のことだが、昨夜はまた、いったいなにが起きたのだろうか?


 そう、思うしかない。現実逃避をするために、この現象に――現状に、理屈をこねてみるしか、淑女にはできなかった。


 まるで、隕石でも落ちたみたいだ。とりわけ大きめの家具――司書長のデスクや、本棚などですら、部屋の隅から隅まで移動し、逆さに倒れている。もとより、こうなることを見越して、多く物を置いていない『司書長室』だが、それでも、部屋の中にあるすべての物質が、すべて例外なく、元あった場所から移動して、乱雑に散らばっていては、部屋の床を覆い隠すのに十分だった。いや、ともすれば、元来この部屋にないはずのものまで散らばっている気がする。気がする――というか、その通りなのだろう。司書長の私物らしき、数々の物品が混在している。もう、淑女にはそれを、見るだけで理解できた。


 司書長、ゾーイ・クレマンティーヌは、かなりの頻度で、わけの解らないものを大量に抱えて帰ってくる。それは本当に、『わけが解らない』ものなのだ。むしろわけが解ったことが一度としてない。いったいなんの用途に使うものなのか、皆目見当のつかないものを、彼女は本当に嬉しそうに、抱えてくるのである。つまり、部屋の中に、使用用途の解らない物品を見付ければ、それは、まず間違いなく、彼女の私物ということである。


「はあ……」


 淑女は、嘆息した。七時には司書長も目を覚ますだろう。それまでに、『司書長室』の掃除をするのが、『司書長室管理員』としての彼女の、毎日最初の、お仕事だった。


        *


「のなー。ぐげー。……は、はるさめっ!」


 くしゃみのような声を最後に、司書長は覚醒した。横たえた体を起こし、周囲を見渡す。それから、再度、上体を沈め、目を閉じた。


「司書長! 朝です!」


 淑女は声をかける。


「あと五分―」


 だるそうに言うだけで、司書長は目覚めない。淑女は掛け時計を見て――今朝の騒乱で、壊れてはいないのだろうが、電池がなくなっていることを思い出し、改めて自身のスマートフォンで確認した。時刻は午前七時六分だった。十一分になったら起こそう。そう、内心で呟く。


 部屋の掃除は、なんとか終わっている。わけの解らない司書長の私物は、最終的に、すべて適当に、隣にある司書長の私室に掃き入れておいた。だいたい、私室があるのだから、そちらで寝てほしいものだ。というか、そちらで寝たはずなのだけれど、気付いたらいつも『司書長室』の真ん中で目覚めるらしい。本人はワーカホリックだとかうそぶいていたけれど、淑女としては迷惑極まりない。……とはいえ、司書長の私室に関しても、淑女はあとで時間を見つけて、掃除しなければいけないのだけれど。あと、洗濯も。もはや家政婦である。


(メイちゃんからまた、いろいろスキル学ばないとなあ)


 以前からいくらか、掃除・洗濯の豆知識などを聞いていた。前任者の麗人に言わせれば、「どうせすぐ散らかすんだから、適当でいいよ」とのことだったが、淑女としては、無理のない程度には、ちゃんとやりたい欲があった。ここでの仕事も、どうせ他に、そう多くないのだし。


 オレンジの香りが、『司書長室』の隣に備わった、給湯室を満たした。司書長の好きな、紅茶の香りである。


 ちょうどよく、時刻は午前七時十一分を指した。


「司書長! 五分経ちましたよ!」


 淑女は、淹れたての紅茶を運び、声を上げる。

 司書長は「なー」と呻き、寝返りを打った。……それだけだった。


「クレマンティーヌさん。朝……なんだけど」


 そばに寄って、身をかがめる。軽く彼女の体に触れ、揺り起こす。嫌そうに眉をしかめられた。


「うゆー。あと二時間……」


「二時間!? 今日のお仕事は!?」


 真面目な淑女である。本気で彼女の言う通りの時間を待とうとしていた。


「るーしゃん真面目か。……んいー。……起きる」


 眠そうではあったが、どうにか起きたらしかった。そういえば、麗人からは、「起きなかったら蹴り飛ばして」と助言を受けていた。ので、思い切って思い切り、淑女は司書長を、蹴り飛ばす。


「がー!? なんで!? 起きたのに!!」


 うん。やってしまってから淑女も、おかしいとは思ったのだ。


 起きたんなら、蹴らなくてよかったよね。


        *


「まあでも、『ゾーイは目覚める前後のことをなんにも覚えてないから。あいつ馬鹿だから』ってカナタ言ってたし、大丈夫だよね?」


「そんなこと言ってたのか、かにゃたんめ。今度会ったらでこぴんしてやる」


 己がでこを痛そうに押さえて、司書長は言った。ややぬるくなってしまった紅茶を、一口すする。……そのほとんどが、ぼたぼたとその、巨大な胸部に染み入った。

 しかし、そんなことには気が付いてさえいない様子で、まず、愛用の丸眼鏡をかけ、司書長はデスクに置かれた資料に目を通し始めた。数日ごとに送られてくる、WBO本部からの指示である。メールにて送られてきたものを、淑女が印刷したものだ。ちなみに、内容は取るに足らないものばかりである。極秘情報――たとえば、26階の一室で行われていることに関する指示などがあれば、もっと違う方法でやり取りされることだろう。具体的には、司書長の扱う、『異本』の力で。


「はいはい。じゃあ、そろそろお仕事始めますよ」


 淑女は声を張った。


「いや! もしかしたら不真面目に見えてるかもだけど! もうお仕事始めてるからね!?」


 司書長は叫んだ。前述の通り、司書長はもうすでに、今朝の資料に目を通し始めていた。


「ルシアってボケキャラなの!? 私もボケだから、わりと困るんだけど!」


 司書長は仕事を始めると、いちおうは真面目になる。具体的には、従業員の呼び名を、愛称から本名へ変えるのだ。……ときおり仕事中でも口が滑ることもあるが。


「あははー。紅茶零してるのになに言ってるんですか」


「これはボケてんじゃないの! マジなの! もっと早く教えてね!?」


 うすうす気付いてはいたが、やっぱりこいつはボケキャラだ。そう、司書長は理解した。以前であれば麗人が拭ってくれたりしていたが、眼前のボケキャラにはそれほどの器量はない。仕方なく、司書長は自ら、零した紅茶を拭った。いやまあ、自分でしでかした粗相なんだから、自分で片を付けるのが当然ではあるのだが。

 しかしまあ、染みが取れない。ごしごしと拭いても、広がるのみだ。


「あ、あーしやりますから、着替えてください。というよりそもそも、いつもの『お仕事中』Tシャツに着替えてないじゃないですか。まったく……」


「辟易しないで。まったくもってその通りなんだけど、ボケキャラに言われたくないよ」


 とはいえ、家事全般に疎い司書長だ、淑女の言う通りに着替えのため、隣の私室へ入った。ややあって、きりっとした(?)『お仕事中』Tシャツに着替え、司書長は戻ってきた。


「さて、気を取り直してがんばるぞ」


 幼い言葉遣いだが、言葉通り、司書長は集中を始めた。こうなると、彼女は肩書通りの働きを見せる。彼女は、ぱぱっと資料に目を通し、少しだけ、思案を始めた。背丈にあわないデスクチェアーに、深く体重を預ける。


「……どうしたんですか? あーし、今日なにかやることあります?」


 どうやら染み抜きから戻ってきたらしい淑女が、珍しく思案顔の司書長へ、声をかけた。どうせいつも通り、彼女の世話以外に大きな仕事はないだろう。そう踏んでの言葉だった。


「るーしゃん」


 まず、そのように、間違えた呼び名が響く。


「……じゃなくて、ルシア。今日はひとつ、お仕事任されてくれるかな?」


 淑女の期待は裏切られ、本当に仕事があるらしい。どちらかというと暇な方が辛い性格だ。淑女は、少しだけ感情を昂らせ、破顔した。


「あなたの、『異本』についてのお仕事」


 だが、続く司書長の言葉に、真顔に戻る。それはいったい、どういう仕事だろう? そう一抹の不安を、覚えて。



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