呼吸のように当然と、大切なこと。


「『異本』集めが終わったら、どうする?」


 意を決したような間を空けて、少女は、それを問うた。


「ん?」


 男は意図を掴み損ねて、疑問で応答した。


「『異本』集めも佳境よ。『StoneストーンBULKバルク〟』を蒐集して、残りは53冊。この後、『本の虫シミ』に乗り込んで、その持つすべての『異本』を奪うなら、さらに最低12冊は手に入る。これで残りは、41冊」


「奪うとか、人聞きの悪いことを言うな。ちゃんと穏便に、話し合いから入るさ」


「でも、彼らはそれを手放さない。そう、あなたも思っているのでしょう?」


「…………」


 男は、苦笑いだけで応える。


「あとは、ほとんどWBOの持つ『異本』だけね。まあ、いくつか、所在の知れないものがあるのが、気がかりなのだけれど」


 そう言って、少し思案顔になる。本当に、ここまで所在が知れないのはどうしてだろう? そう思う。だって、『啓筆けいひつ』のすべてをも、少女は所在を把握しているのだ。残り、見つからないような『異本』がまだあるとは、どういうことなのだろうか?


 まあ、考えても仕方ないわ。と、置いておく。最終的には『箱庭図書館』――『箱庭』シリーズの『異本』探知機能を使えばいずれ見つかるだろう。その機能は、『箱庭』に収められていない次の一冊を探知してくれるものだから。時間をかければ、必ず見つかる。


「それにほら、無形の『異本』があるだろう? ワンガヌイにも……『Te waiワイ ma』、だったか? 他にもいろいろ。あのあたりの蒐集方法が解らねえ限り、終わりはまだ遠い」


 男は言った。それじゃあまるで、この旅が終わらなければいいと思っているかのような、そんな口ぶりで。


「それは……そうね」


 実のところ、少女はそのことについての解決策をもう知っていた・・・・・。いや、解決策というほどではない。ただ、男たちの意思とは関係なく、その問題を解決すべく動く存在を、少女は知っているのだ。その実験が、うまくいきそうである、ということも。


 だが、それは男へは言わない方がいい。騙すようだとも思うが、その事実と、それに付随したいくつかの情報を、少女は、自分の口からは男へ言いたくなかったのだ。


 これは、男が自ら、前情報なしに向き合うべき問題だと思ったから。


「まあ、ともかく。『異本』集めが終わったらどうするの? なにかしたいこととか、ないの?」


 強引にまとめて、少女は当初の疑問を改めて放った。少しだけ投げやりな言い方で。


 男はその問いに、頭を悩ませて空を仰いだ。満天の星空と、大きな満月を数えて、考えをまとめる。


「いや……なにも思い付かねえな。いまを生きるのに精いっぱいだよ。あとのことは、あとで考えりゃいいだろ」


「だめよ。考えなさい」


 少女は食い気味にそう言った。有無をも言わせぬ、強い口調で。


「あなたには、まだ未来があるの。『異本』を集め終わっても、人生は続くんだから。燃え尽き症候群とかになられたらいやだもの」


「大袈裟だな」


 少女が声を荒げても、何食わぬ顔で、男は真剣さを持たなかった。だから、少女は逆に、静かに真面目に、トーンを落として話す。


「ちゃんと、家族を持ってみたら? ……結婚とか」


「うん……?」


 まだ初心な少年のように、男はうろたえる。自身はそれなりに隠しているつもりだろうが、少女の目にはお見通しだった。いやまあ、少女の目に見通せぬほどに心を隠せる人間の方が、世の中には少ないのだけれど。


 それでも、男ははぐらかそうと口を開きかけるが、少女の真剣な眼差しに、それも躊躇われた。だから、いま思う、少女の問いに対する答えを、紡ぐこととする。


「俺は、いいよ、結婚なんて。……まっとうに生きてこなかった。いくつも罪を重ねてきた。そんな身で、誰かとともに生きるなんて――」


「わたしは、あなたの娘よ。いま、ともに生きているわ」


「おまえはいいんだよ。おまえや、みんなはな。俺のことを知ったうえで、そばにいてくれてるんだから」


 その言葉に、言いたいことはいくつかあったけれど、その言い草に、少女はとにかく、頭に血が上った。


「卑屈にならないでくれる? 『いてくれてる』って? わたしたちは好きであなたと一緒にいるわ! そういう意味で言ってないのでしょうけれど、そんな言い方されたらムカつく!」


 そんな激情に、男は一目、視線を向けた。だが、ひとつ息を吐いて、変わらぬ態度で続ける。


「言い方は悪かったな。それに、おまえの言う通り、そういう意味じゃねえ。ただ、それだけで、俺には過ぎた幸福だ。なんていうかな――」


 そのとき、男は昔のことを思い出した。いつか、幼いころに、同じような会話を誰かとしたような気がする。……そうだ、あれは、いつかの若者との会話。中国に行った帰りに、飛行機の中で、似たような話をしたことがあった。あのときも自分は、未来を思い描くほどの余裕など、なかったのだ。


 変わってねえ。そう思う。そしてだからこそ、答えも変わらない。


「考えたこともねえ。いや、考えられねえ、んだろう。まだ、そういうことに向き合うことができねえんだ」


 だったら、きみは向き合わなければならないね。あのときの若者の言葉が響く。そうだ。向き合わなければならない。解っている。あのとき、若者には、言われるまでもあった。しかし、いま、少女に言われるまでもない。




 未来があるなんて・・・・・・・・そんな当然のこと・・・・・・・・




 少女は、じっと男を見つめた。その心を見透かすように。さらに奥底まで――深海のほどに深い場所まで、見通すように。


 しばらくして、嘆息する。なにかを見つけたのか、なにかを諦めたのか。決意して、言う。


「わたしは、誰でもいいわよ。メイちゃんでも、あのおばさんでもね」


 メイドとギャルのことを言われて、瞬間、男は首を傾げる。でも、次の瞬間には思い至り、わずかに赤面した。


考えておくよ・・・・・・


 疲れたように、男は後ろに倒れ込む。大の字に両手両足を広げて。抱擁できるほどの満天の空を、見上げて。


        *


 その、片腕に頭を乗せて、少女は男の耳元にすり寄った。


「ありがとね」


 声は、幼く、少女らしく変わっている。父親に甘えるような、甘い声だ。


「ん?」


 いったいなんの話か皆目見当がつかず、男は普通に疑問を持った。


「真っ暗な海の底――深海の闇の中で、ひとりでいるのは、……やっぱり怖かったわ」


「ああ……」


 言葉の意味を納得する前に、男は答えた。しかし、遅れて意味を理解する。理解して、男は驚いたように少女を見た。


「当然だろ。……おまえを、ひとりにはしねえよ」


 改めて返答する。そのとき少しだけ、道が拓けた気がした。


 どう、少女のためになるか。それを、見つけた気がしたから。そうすると、どうしてか自分の進む先も、解った気がしたから。


 そっと、少女の髪を撫でる。まだ怯えた手つきで。あの満月と同じ、銀色に輝く、細い髪を、優しく。



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