呼吸のように当然と、大切なこと。
「『異本』集めが終わったら、どうする?」
意を決したような間を空けて、少女は、それを問うた。
「ん?」
男は意図を掴み損ねて、疑問で応答した。
「『異本』集めも佳境よ。『
「奪うとか、人聞きの悪いことを言うな。ちゃんと穏便に、話し合いから入るさ」
「でも、彼らはそれを手放さない。そう、あなたも思っているのでしょう?」
「…………」
男は、苦笑いだけで応える。
「あとは、ほとんどWBOの持つ『異本』だけね。まあ、いくつか、所在の知れないものがあるのが、気がかりなのだけれど」
そう言って、少し思案顔になる。本当に、ここまで所在が知れないのはどうしてだろう? そう思う。だって、『
まあ、考えても仕方ないわ。と、置いておく。最終的には『箱庭図書館』――『箱庭』シリーズの『異本』探知機能を使えばいずれ見つかるだろう。その機能は、『箱庭』に収められていない次の一冊を探知してくれるものだから。時間をかければ、必ず見つかる。
「それにほら、無形の『異本』があるだろう? ワンガヌイにも……『
男は言った。それじゃあまるで、この旅が終わらなければいいと思っているかのような、そんな口ぶりで。
「それは……そうね」
実のところ、少女はそのことについての解決策をもう
だが、それは男へは言わない方がいい。騙すようだとも思うが、その事実と、それに付随したいくつかの情報を、少女は、自分の口からは男へ言いたくなかったのだ。
これは、男が自ら、前情報なしに向き合うべき問題だと思ったから。
「まあ、ともかく。『異本』集めが終わったらどうするの? なにかしたいこととか、ないの?」
強引にまとめて、少女は当初の疑問を改めて放った。少しだけ投げやりな言い方で。
男はその問いに、頭を悩ませて空を仰いだ。満天の星空と、大きな満月を数えて、考えをまとめる。
「いや……なにも思い付かねえな。いまを生きるのに精いっぱいだよ。あとのことは、あとで考えりゃいいだろ」
「だめよ。考えなさい」
少女は食い気味にそう言った。有無をも言わせぬ、強い口調で。
「あなたには、まだ未来があるの。『異本』を集め終わっても、人生は続くんだから。燃え尽き症候群とかになられたらいやだもの」
「大袈裟だな」
少女が声を荒げても、何食わぬ顔で、男は真剣さを持たなかった。だから、少女は逆に、静かに真面目に、トーンを落として話す。
「ちゃんと、家族を持ってみたら? ……結婚とか」
「うん……?」
まだ初心な少年のように、男はうろたえる。自身はそれなりに隠しているつもりだろうが、少女の目にはお見通しだった。いやまあ、少女の目に見通せぬほどに心を隠せる人間の方が、世の中には少ないのだけれど。
それでも、男ははぐらかそうと口を開きかけるが、少女の真剣な眼差しに、それも躊躇われた。だから、いま思う、少女の問いに対する答えを、紡ぐこととする。
「俺は、いいよ、結婚なんて。……まっとうに生きてこなかった。いくつも罪を重ねてきた。そんな身で、誰かとともに生きるなんて――」
「わたしは、あなたの娘よ。いま、ともに生きているわ」
「おまえはいいんだよ。おまえや、みんなはな。俺のことを知ったうえで、そばにいてくれてるんだから」
その言葉に、言いたいことはいくつかあったけれど、その言い草に、少女はとにかく、頭に血が上った。
「卑屈にならないでくれる? 『いてくれてる』って? わたしたちは好きであなたと一緒にいるわ! そういう意味で言ってないのでしょうけれど、そんな言い方されたらムカつく!」
そんな激情に、男は一目、視線を向けた。だが、ひとつ息を吐いて、変わらぬ態度で続ける。
「言い方は悪かったな。それに、おまえの言う通り、そういう意味じゃねえ。ただ、それだけで、俺には過ぎた幸福だ。なんていうかな――」
そのとき、男は昔のことを思い出した。いつか、幼いころに、同じような会話を誰かとしたような気がする。……そうだ、あれは、いつかの若者との会話。中国に行った帰りに、飛行機の中で、似たような話をしたことがあった。あのときも自分は、未来を思い描くほどの余裕など、なかったのだ。
変わってねえ。そう思う。そしてだからこそ、答えも変わらない。
「考えたこともねえ。いや、考えられねえ、んだろう。まだ、そういうことに向き合うことができねえんだ」
だったら、きみは向き合わなければならないね。あのときの若者の言葉が響く。そうだ。向き合わなければならない。解っている。あのとき、若者には、言われるまでもあった。しかし、いま、少女に言われるまでもない。
少女は、じっと男を見つめた。その心を見透かすように。さらに奥底まで――深海のほどに深い場所まで、見通すように。
しばらくして、嘆息する。なにかを見つけたのか、なにかを諦めたのか。決意して、言う。
「わたしは、誰でもいいわよ。メイちゃんでも、あのおばさんでもね」
メイドとギャルのことを言われて、瞬間、男は首を傾げる。でも、次の瞬間には思い至り、わずかに赤面した。
「
疲れたように、男は後ろに倒れ込む。大の字に両手両足を広げて。抱擁できるほどの満天の空を、見上げて。
*
その、片腕に頭を乗せて、少女は男の耳元にすり寄った。
「ありがとね」
声は、幼く、少女らしく変わっている。父親に甘えるような、甘い声だ。
「ん?」
いったいなんの話か皆目見当がつかず、男は普通に疑問を持った。
「真っ暗な海の底――深海の闇の中で、ひとりでいるのは、……やっぱり怖かったわ」
「ああ……」
言葉の意味を納得する前に、男は答えた。しかし、遅れて意味を理解する。理解して、男は驚いたように少女を見た。
「当然だろ。……おまえを、ひとりにはしねえよ」
改めて返答する。そのとき少しだけ、道が拓けた気がした。
どう、少女のためになるか。それを、見つけた気がしたから。そうすると、どうしてか自分の進む先も、解った気がしたから。
そっと、少女の髪を撫でる。まだ怯えた手つきで。あの満月と同じ、銀色に輝く、細い髪を、優しく。
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