未来を見て、いまを想う
さて、舞台は戻って、ヤップ島沖西方数キロの海上。その真下、深度約1000メートルの海底に、『異本』、『
「ところで、WBOはここに『啓筆』が沈んでいるってのを把握してんだよな?」
ふと、男は気になったことを少女に問う。特別にかの組織と関わりあるわけではなかったが、少女なら、そのへんの事情も把握している可能性が高いと踏んだから。
「ならなぜ、やつらはそれを引き上げねえ? 俺たちと違って時間もあったろうし、金も、さすがにそこそこ持ってんだろ?」
ちょっと自信はなかったが、そう男は問うた。よく考えたらWBOの懐具合まではまったく聞いたこともなかったけれど。
「それはね――」
少女は言いかける。
「
それを、とんでもない勢いで跳び上り、駆け寄り、ずっこけそうになりながらギャルが叫んで引き継ぐ――というより、奪い取る。よろめいたはずみで、あるいはわざと狙ってか、男の胸に思い切り飛び込みながら。
「いひひ……、危にゃかったぁ。ありがと、ハクぅ?」
上目で、どことなく潤んだ瞳で、男を見上げる。開放的で、少なくとも少女や幼女より豊満な胸部を、男の腹部へ押し付けながら。離れようともせず。
「WBOが……なんだって?」
男はうろたえることなく聞き返した。女性にさほど耐性のない男ではあるが、ギャルに対しては平常心でいられる。
「あ……ハクって意外と、いい体ぁ……」
離れようともしない。どころか、さらに抱き着き、頬を寄せる始末。晒した上半身に、ギャルの毛先がくすぐり、むず痒い。
「おいこらアリス。話をするか離れるかしろ。WBOが、なんだってんだ?」
「じゃあお
「ふうん」
男はボルサリーノを押さえて、忌々しげに太陽を見上げながら鼻を鳴らした。なにかを思案するように。
「……あなたの思案は杞憂よ。確かにWBOの一部構成員は、この『異本』を知っている。それなりの親和性を持つ者がね。つまり、この『異本』を持ち出せばすぐにWBOに知られるし、それはある意味、敵対行為ともなる。だけどね、ぶっちゃけそんな話、
少女はギャルの巻き毛を一束、引っ張った。
「にゃああぁぁ! 痛い、痛いぃ!」
大袈裟に騒いで、それでも従順に、ギャルは離れた。いや、むしろ今度は、少女の方にぐいっと近付く。
「もうっ! エレクトラちゃんなんだからぁ☆」
少女の耳元にそう、囁いた。
その意味を理解して、ビキビキ、と、少女は、笑顔を引き攣らせる。
「……ぶん殴る」
ぶん殴った。
*
ギャルが昏倒したので、男たちは昼食を摂ることにした。というのも、わざわざ連れて来ていることからも解る通り、深海1000メートルに挑戦するには、ギャルの力が不可欠であるから。むしろ彼女の集中力次第で、成功率も変わってくる。ここで少しギャルが
レタスにトマト、ポテトサラダ、キュウリやコーンを用いたシーザー風、タマゴサラダやツナサラダ、ホイップクリームにストロベリージャム。などなどの多様なサンドイッチ。そして、体を温める、野菜たっぷりのミネストローネ。少女がすべて用意したそれを、みんなでいただく。
「おお……!」
男は感嘆の声を上げた。
「なによ? 可愛いわたしが料理すらできないとでも?」
サンドイッチをひとつまみ頬張って、少女は男を睨んだ。
「いや、おまえがなんでもできるのは解ってる。だが、こんな……こんな野菜尽くしのメニューを用意してくるとは……!」
「お野菜は体にいいのよ。それに、食べたら頭がよくなるし。ねー、シロ?」
「あいっ!」
美味しそうに食い散らかし、手から口元まで大惨事な女の子を、高速で綺麗に拭いながら、少女は――そして女の子も、満面に笑んだ。
「ノラ。俺は肉喰いてえ。喰い応えのある赤身肉とかさ」
生意気に男の子が言った。文句を言う割には食が進んでいる様子である。
「あなたいっつもそればっかりね。放っておいたらお肉ばっかり。どうせローマではお肉ばっかり食べてたんでしょうし、今日は我慢しなさい」
「どうせ生ものなんか積んでねえのは知ってるし、いいけど」
「おかあさんの料理なら、なんでも美味しいでしょ?」
「ふつう」
「んん?」
少女は笑顔で拳を掲げた。
「おかあさんの手料理は世界一だね!」
「うん!」
少女は握った手を開き、男の子の頭を撫でる。
「おお……」
男は感極まり、わなわなと俯いた。少女の母親としての一面に、気持ちの整理が追い付かない様子で。結果、まだ彼は、一口も食事を口に運んでいなかった。
「ハクー? どしたの? 食べないの?」
隣でリスのようになっていた幼女が、口の中のものを飲み込み、男を心配する。新しく手に取ったサンドイッチを、その角を、男へ向けながら。
「いや、あのノラが……『肉さえ喰ってりゃ二百年は生きられるわ!』とか言ってたノラが、こんな、こんな健康的な食事を――!!」
男は感極まりそうになる心を落ち着けるため、幼女の差し向けたサンドイッチを、一息に口内へ放り込んだ。味わうように両目をきつく結び、大きく顎を上下させ咀嚼した。ゴクリ。飲み干してから、カッ、と、目を見開き、立ち上がる。
「うめえっっ!!」
その絶叫は、天をも衝くほどにいなないた。
「……わたしは、どう突っ込めばいいの?」
少女は困惑したように、眉をひくつかせ笑った。
*
男の叫びに起因したかは解らないが、昏倒中の――睡眠中であったギャルも目覚めた。美味しそうな香りに誘われたのかもしれない。鼻を嗅ぎ鳴らしたのちの、跳ねるような覚醒だった。そしてそのまま流れるように――むしろ災害が襲いかかるように食卓へ飛び込む。
「あたしを差し置いてっ! なんでメシ喰ってるんだよぅっ!!」
もちろん、そんな災害など事前に予測していた少女は、軽々と食卓ごと持ち上げ、ギャルの突進を防いだ。明らかな大惨事だ。もし少女がその対策を講じなかった場合、すべての食事は地に伏したろう。
だが少女といえど、特段に絡みのないギャルを相手にしても、さすがに食事を振る舞わないつもりもないわけで、持ち上げた食卓からひとつまみのサンドイッチを、突っ込んできたギャルの口に叩き込む。あまりに乱雑な扱いだが、それでギャルとしては満足したようだ。けたたましく転がった甲板で、寝転がったままサンドイッチを頬張った。
「うみゃいっっ!! ノラちゃんはいい嫁になるにゃ!」
男と同じくらいの声高に感想を述べ、気持ちの勢いが余って、少女へ特攻する。食卓を荒らさないように静かに降ろす少女は、嫌そうに今度は、ミネストローネの入った器を向けて、それを止めた。
「食事のときくらい、おとなしくしなさい」
ギャルの騒がしさに――ではないのだろう。不機嫌そうなオーラを無理矢理抑え込みながら、口元だけ笑ってみせる。その理由をちゃんと把握できたのは、この場では、『シェヘラザードの遺言』を断片的に受け継いだ男の子だけだったが、彼の次にしっかとそれを感じ取ったのは意外なことに、ギャルだった。だから、少しだけ落ち着いて、彼女は着席する。距離感が狂ったような、デレたのちのメイドよりもよほど近くまで、男に引っ付きながら。
彼女が現在、心を向けている
「ほら、ハク。あ~んしたげる!」
「おまえのあ~んは口移しだから断る」
男の言葉通りにギャルはサンドイッチを咥えて、男へ向けた。男はそれを彼女の口内へ押し込む。
「もう! アリスさん! ほんとにおとなしくしてください!」
言いつつも幼女は、ギャルとは反対側の男の隣で、男へ向けて、新しいあ~んの技術を試すように、口に咥えたサンドイッチを揺らした。やや素っ気なさを醸しながらも、「んん~」と声を漏らして。
「……子どもの教育に悪いな」
引っ付くギャルを引き剥がし、男は、幼女の口に咥えられたものを、その口内へ押し込んだ。
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