未来を見て、いまを想う


 さて、舞台は戻って、ヤップ島沖西方数キロの海上。その真下、深度約1000メートルの海底に、『異本』、『啓筆けいひつ』序列十五位、『StoneストーンBULKバルク〟』が沈んでいる。その座標にまで男たちは到達した。


「ところで、WBOはここに『啓筆』が沈んでいるってのを把握してんだよな?」


 ふと、男は気になったことを少女に問う。特別にかの組織と関わりあるわけではなかったが、少女なら、そのへんの事情も把握している可能性が高いと踏んだから。


「ならなぜ、やつらはそれを引き上げねえ? 俺たちと違って時間もあったろうし、金も、さすがにそこそこ持ってんだろ?」


 ちょっと自信はなかったが、そう男は問うた。よく考えたらWBOの懐具合まではまったく聞いたこともなかったけれど。


「それはね――」


 少女は言いかける。


WBOだぶりゅーびーうぉーがぁー!! ――うわっとと!!」


 それを、とんでもない勢いで跳び上り、駆け寄り、ずっこけそうになりながらギャルが叫んで引き継ぐ――というより、奪い取る。よろめいたはずみで、あるいはわざと狙ってか、男の胸に思い切り飛び込みながら。


「いひひ……、危にゃかったぁ。ありがと、ハクぅ?」


 上目で、どことなく潤んだ瞳で、男を見上げる。開放的で、少なくとも少女や幼女より豊満な胸部を、男の腹部へ押し付けながら。離れようともせず。


「WBOが……なんだって?」


 男はうろたえることなく聞き返した。女性にさほど耐性のない男ではあるが、ギャルに対しては平常心でいられる。


「あ……ハクって意外と、いい体ぁ……」


 離れようともしない。どころか、さらに抱き着き、頬を寄せる始末。晒した上半身に、ギャルの毛先がくすぐり、むず痒い。


「おいこらアリス。話をするか離れるかしろ。WBOが、なんだってんだ?」


「じゃあおはにゃしするから離さないでぇ? うんとね、WBOがそもそも、『BULK』に関しては現状維持を望んでるんだよ。『これはここにあるのが正常な形だ』ってね」


「ふうん」


 男はボルサリーノを押さえて、忌々しげに太陽を見上げながら鼻を鳴らした。なにかを思案するように。


「……あなたの思案は杞憂よ。確かにWBOの一部構成員は、この『異本』を知っている。それなりの親和性を持つ者がね。つまり、この『異本』を持ち出せばすぐにWBOに知られるし、それはある意味、敵対行為ともなる。だけどね、ぶっちゃけそんな話、とっくに・・・・通り過ぎてる・・・・・・のよ。……ってかおばさん! いいかげんハクから離れなさい!」


 少女はギャルの巻き毛を一束、引っ張った。


「にゃああぁぁ! 痛い、痛いぃ!」


 大袈裟に騒いで、それでも従順に、ギャルは離れた。いや、むしろ今度は、少女の方にぐいっと近付く。


「もうっ! エレクトラちゃんなんだからぁ☆」


 少女の耳元にそう、囁いた。

 その意味を理解して、ビキビキ、と、少女は、笑顔を引き攣らせる。


「……ぶん殴る」


 ぶん殴った。


        *


 ギャルが昏倒したので、男たちは昼食を摂ることにした。というのも、わざわざ連れて来ていることからも解る通り、深海1000メートルに挑戦するには、ギャルの力が不可欠であるから。むしろ彼女の集中力次第で、成功率も変わってくる。ここで少しギャルが昏倒し眠って体力を温存してくれるのはありがたいことともとれた。


 レタスにトマト、ポテトサラダ、キュウリやコーンを用いたシーザー風、タマゴサラダやツナサラダ、ホイップクリームにストロベリージャム。などなどの多様なサンドイッチ。そして、体を温める、野菜たっぷりのミネストローネ。少女がすべて用意したそれを、みんなでいただく。


「おお……!」


 男は感嘆の声を上げた。


「なによ? 可愛いわたしが料理すらできないとでも?」


 サンドイッチをひとつまみ頬張って、少女は男を睨んだ。


「いや、おまえがなんでもできるのは解ってる。だが、こんな……こんな野菜尽くしのメニューを用意してくるとは……!」


「お野菜は体にいいのよ。それに、食べたら頭がよくなるし。ねー、シロ?」


「あいっ!」


 美味しそうに食い散らかし、手から口元まで大惨事な女の子を、高速で綺麗に拭いながら、少女は――そして女の子も、満面に笑んだ。


「ノラ。俺は肉喰いてえ。喰い応えのある赤身肉とかさ」


 生意気に男の子が言った。文句を言う割には食が進んでいる様子である。


「あなたいっつもそればっかりね。放っておいたらお肉ばっかり。どうせローマではお肉ばっかり食べてたんでしょうし、今日は我慢しなさい」


「どうせ生ものなんか積んでねえのは知ってるし、いいけど」


「おかあさんの料理なら、なんでも美味しいでしょ?」


「ふつう」


「んん?」


 少女は笑顔で拳を掲げた。


「おかあさんの手料理は世界一だね!」


「うん!」


 少女は握った手を開き、男の子の頭を撫でる。


「おお……」


 男は感極まり、わなわなと俯いた。少女の母親としての一面に、気持ちの整理が追い付かない様子で。結果、まだ彼は、一口も食事を口に運んでいなかった。


「ハクー? どしたの? 食べないの?」


 隣でリスのようになっていた幼女が、口の中のものを飲み込み、男を心配する。新しく手に取ったサンドイッチを、その角を、男へ向けながら。


「いや、あのノラが……『肉さえ喰ってりゃ二百年は生きられるわ!』とか言ってたノラが、こんな、こんな健康的な食事を――!!」


 男は感極まりそうになる心を落ち着けるため、幼女の差し向けたサンドイッチを、一息に口内へ放り込んだ。味わうように両目をきつく結び、大きく顎を上下させ咀嚼した。ゴクリ。飲み干してから、カッ、と、目を見開き、立ち上がる。


「うめえっっ!!」


 その絶叫は、天をも衝くほどにいなないた。


「……わたしは、どう突っ込めばいいの?」


 少女は困惑したように、眉をひくつかせ笑った。


        *


 男の叫びに起因したかは解らないが、昏倒中の――睡眠中であったギャルも目覚めた。美味しそうな香りに誘われたのかもしれない。鼻を嗅ぎ鳴らしたのちの、跳ねるような覚醒だった。そしてそのまま流れるように――むしろ災害が襲いかかるように食卓へ飛び込む。


「あたしを差し置いてっ! なんでメシ喰ってるんだよぅっ!!」


 もちろん、そんな災害など事前に予測していた少女は、軽々と食卓ごと持ち上げ、ギャルの突進を防いだ。明らかな大惨事だ。もし少女がその対策を講じなかった場合、すべての食事は地に伏したろう。

 だが少女といえど、特段に絡みのないギャルを相手にしても、さすがに食事を振る舞わないつもりもないわけで、持ち上げた食卓からひとつまみのサンドイッチを、突っ込んできたギャルの口に叩き込む。あまりに乱雑な扱いだが、それでギャルとしては満足したようだ。けたたましく転がった甲板で、寝転がったままサンドイッチを頬張った。


「うみゃいっっ!! ノラちゃんはいい嫁になるにゃ!」


 男と同じくらいの声高に感想を述べ、気持ちの勢いが余って、少女へ特攻する。食卓を荒らさないように静かに降ろす少女は、嫌そうに今度は、ミネストローネの入った器を向けて、それを止めた。


「食事のときくらい、おとなしくしなさい」


 ギャルの騒がしさに――ではないのだろう。不機嫌そうなオーラを無理矢理抑え込みながら、口元だけ笑ってみせる。その理由をちゃんと把握できたのは、この場では、『シェヘラザードの遺言』を断片的に受け継いだ男の子だけだったが、彼の次にしっかとそれを感じ取ったのは意外なことに、ギャルだった。だから、少しだけ落ち着いて、彼女は着席する。距離感が狂ったような、デレたのちのメイドよりもよほど近くまで、男に引っ付きながら。

 彼女が現在、心を向けている関係性・・・に対する、ひとつの解答を、見せつけるように。


「ほら、ハク。あ~んしたげる!」


「おまえのあ~んは口移しだから断る」


 男の言葉通りにギャルはサンドイッチを咥えて、男へ向けた。男はそれを彼女の口内へ押し込む。


「もう! アリスさん! ほんとにおとなしくしてください!」


 言いつつも幼女は、ギャルとは反対側の男の隣で、男へ向けて、新しいあ~んの技術を試すように、口に咥えたサンドイッチを揺らした。やや素っ気なさを醸しながらも、「んん~」と声を漏らして。


「……子どもの教育に悪いな」


 引っ付くギャルを引き剥がし、男は、幼女の口に咥えられたものを、その口内へ押し込んだ。



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