40th Memory Vol.2(エジプト/アスワン/9/2020)


 その日の夕食。男の帰りが遅かったため、遅めの夕食だ。宿からほど近い、ナイル川を見下ろせる、綺麗なレストラン。


 モロヘイヤのスープ。アエーシと呼ばれるエジプトのパンと、それに挟む野菜や、ターメイヤというソラマメのコロッケ。エジプトでは高級食材のハマーム

 そしてエジプトの庶民食、コシャリ。こちらは米とマカロニ、豆などに、フライドオニオンとトマトソースをかけて、混ぜ合わせて食べる。それがベースだが、『同じものは一つとしてない』とまで言われるほど、エジプト各所でいろんなバリエーションに仕上げられている。こちらのレストランでは、オリジナルに忠実な具材だが、なんとソースが二十種近くも提供された。


「もう、みんなだけお出かけして、ずるいわ」


 幼女がアエーシをかじりながら言った。ふてくされた様子で。


「拗ねないで、パラちゃん。お土産あるし、明日は一緒に巡りましょう」


 少女が慰める。それに幼女は顔を明るくさせ、機嫌を直した。


「それよりハクはどこ行ってたのよ。可愛いわたしを差し置いて」


「どこでもいいだろ。ちょっと用事があったんだよ」


「帰りも遅いし。どうせまた迷ったんでしょ?」


「迷ってねえ。なんか、うまく英語が通じなくてな。時間を食った」


「はっ、だから可愛いわたしを連れていけばよかったのよ。せっかくアラビア語も覚えたっていうのに」


 なんだか棘があるな。と、幼年は静かに思った。少女の言葉や態度は、どうにも男へ向けるものだけ、辛辣だ。


「シロ、そこのソース取ってくれる?」


 だから、聞くに堪えなくて、幼年は割って入る。


「これ? めっちゃ赤いけど……」


「いや、その隣。オレンジのやつ」


 幼年が訂正すると、少女はどこかほっとしたようにし、ソースを手渡した。まだ、香油の匂いが残っている。


 幼年は受け取ったソースをコシャリにかけ、食べる。ふむ、どうやらマンゴーを主軸にしたソースのようだ。味はいいが、どうしてもデザート感が出てしまう。


「おい、ノラ。俺にはその、赤いのをくれ」


 男が言う。少女が最初に顔を歪めたソースだ。それは、どう見てもその中で、もっとも辛いであろう雰囲気を醸し出している。


「つーん」


 少女は擬音を発しながら、そっぽを向いた。


「おい、ノラ――」


「つんつーん」


 やはり擬音を漏らし、反対側へ顔を向ける。


 男は諦めて息を吐いた。やや強引に、腕を伸ばして、ソースに手をかける。


「ほら、ハク。……別に止めへんけど、たいがいにしときや」


 言って、幼女がソースを持ち上げた。そのわずかな上昇で、男はしっかと、小鉢を掴むことに成功する。


「なんの話だ?」


 すっとぼけ、男はソースを、自身に取り分けたコシャリに、山ほどかけた。


        *


 少女に肩を借り、腹痛をこらえて宿へ帰る。


「だから止めときなさいって言ったのよ。ハクに付き合うことなんてないのに」


 少女はため息をつく。うなだれた顔に、少しだけその息が触れた。まだ鼻に匂いが残っているのだろう。その息すら、薔薇の香りに感じられた。


「いや、美味しかったのは本当なんだけど、ちょっと調子に乗りすぎた」


 幼年は言う。コシャリだけならまだしも、ハマームにまでかけて食べることはなかった。


「ハクの舌はぶっ壊れとんねん。あとお腹も」


 幼女も心配そうに幼年に寄り添った。最後尾をついてくる男を一回睨む。なぜだか男もうなだれていた。もう日も落ちて、涼しくなっているというのに。


「どうして俺はいつもこう邪険にされるんだ? 辛いもん食ったときは、ひときわひでえ」


 どうやら落ち込んでいる様子である。


 ナイル川沿いの道を、とぼとぼと歩く。よく食べた。だから、気分的には五割増しほどに体が重くなり、同様に心は、五割増しで幸福になった足取りだ。


 アスワンの夜。都会とは違う、明かりの少ない道程だ。全体的に茶色い町。ナイルのせせらぎ。人の呼吸。静かな喧噪。昼間の酷暑を乗り切り、一息つく、町の穏やかさ。数千年の歴史を内包する、独特の雰囲気。


 ふと、そばにいる家族がみんな消えて、かわりに一人、荒野に佇むイメージに囚われる。だが、そこでは一人じゃない。誰もそばには見えないのに、いつかそこに生きた、幾億の人影が漂っているような。そんな蜃気楼が、垣間見える。


「ハク。明後日にはアブ・シンベルへ飛ぶんでしょう? 明日はどうするの?」


 不意に少女が顔だけ振り向かせ、男に問うた。


「好きにしろ。明後日も昼過ぎの便だ。明日は一日、自由行動だな」


 うなだれた姿勢をようやく正して、男は言った。


「やった。じゃあ、明日はショッピングね、パラちゃん」


 幼年を挟んで、少女は幼女に笑いかける。その言葉に幼女も嬉しそうに破顔するから、間に挟まれた幼年は気まずくなった。


「まだ買うもんあんのかよ。観光じゃねえんだぞ」


 男が言う。その忌々しげな言葉に、しかし、少女は、多少の驚きの表情を向けた。


「え、今日も買い物してたの、気付いてたの?」


 買ってきたものは女子部屋に運び込んである。男には見られていないはずだ。


「そんだけ匂ってりゃ気付くだろ。香水……というか、香油か?」


 少女はどきりとする。なぜだろう? べつに「自由に使っていい」と渡されたお小遣いの範囲内だ。文句を言われる筋でもないのに。


 その横顔を見て、幼年は眉根を寄せた。わずかに紅を差す頬。それが日焼けでないことは、まだ幼い彼にも、なんとなく理解できた。


「匂うとか言わないでよ。失礼ね」


 少女はそっぽを向いた。肩を借りているから、幼年は、その態度が自分に向けられていると錯覚できてしまう。その感覚は、幼年の心に、針で刺すような痛みを与えた。


        *


 夜。気温はまだ高いが、乾燥しているおかげだろう、体感としては過ごしやすい。それでも、どうにも寝苦しい夜を、幼年は過ごしていた。


 飛行機での長旅。時差ボケ。初めての国。その風習、文化。慣れない人間関係。強引に連れ回された観光。口にしたことのない料理。

 いろいろあって、体も心も疲れているはずだ。事実、疲労は感じている。それでもなかなか寝付けないのは、慣れない環境のせいなのか、辛いものを食べすぎた腹痛のせいなのか。


 幼年は上体を起こす。暗い部屋を手探り、静かにトイレへ立つ。戻ってみて気が付いた。隣のベッドに、男がいない。よく暗闇に目を凝らすと、窓が開いている。確か、眠る前に戸締りを確認したはずの窓だ。そして、その窓の外はベランダとなり、椅子や机もあったはずだ。だから、幼年は理解する。


「寝ないんですか? ハクさん」


 案の定そこに、足を机に上げたふてぶてしい態度で、男はいた。警戒が強いのか、寝間着に着替えたりはしていない。下着やシャツは替えたのだろうが、その服装は、スーツのジャケットを脱いだだけの、いつもの男の服装だ。ちなみに、ジャケットは一着だが、スーツのパンツ部分は予備があるらしい。おそらくパンツは着替えている。


「あんまし眠くなくてな。……起こしちまったか?」


「いえ」


 幼年は視線と身振りだけで許可を求める。それに対応して、男は足を下ろした。それを許可と取って、幼年は男の向かいの椅子に腰かける。


「どうだった?」


 男は言う。幼年はその言葉がなにを指すのか、心当たりがありすぎて、断定できなかった。その反応は男にとって予想通りだったのだろう、あまり間を空けず、次の言葉を紡ぐ。


「あいつに付き合わされんのは、大変だったろう」


「ああ、まあ、……はい」


 どう答えるべきか。幼年は一瞬どもったが、最終的には正直に答えることにした。


「でも、べつに、悪くなかったというか。……俺も楽しかったですし」


 その言葉に、男は小さく、鼻で笑った。その表情は、苦々しく笑うような、決して幼年の感情を嘲笑しているわけではないが、どこか達観している風だった。

 つまり、男にもその言葉へ同意するだけの経験があった。しかし、それと同じくらい、肉体的にも精神的にも、摩耗させられてきたことも、やはり事実だった。


 乾燥したアスワンの町。だから、そばにあるナイルの気配が、柔らかな湿度となって感じられる。


 会話の間が空く。だから、幼年は遅ればせながら、違和感に気付いた。


「……俺がシロと出かけてたこと、知っていたんですか?」


 少女の買い物には香油の匂いで気付いた男だが、その買い物に、幼年が連れ回されたことなど、現場状況からは読み取れないはずだった。幼年は途中、ちょっとした飲み食いをしただけで、土産物のようなものなど購入していない。部屋の状況だけ見て、幼年が外出したことを見抜くのは難しいはずだ。


「新しい町に行くとな、あいつはいつも、どっかへ行こうとすんだよ。いつも、誰かと一緒にな」


「そうなんですね」


 そういうことは先に言っておいてもらいたい。幼年は少しうなだれた。


 これまでの言葉はすべて真実だ。少女に付き合って、楽しかったのは本当だ。だが、最初から知っていれば心構えも違ったろうし、もしかしたら少女の誘いを逃れるために、どこかへ隠れていたかもしれない。

 そう思うと、幼年はどっと、疲れが増したような気がした。


「……ハクさん。あなた、宿に着いて、たいして休みもせずに、すぐ出かけましたよね」


 よくよく思い返して、幼年は慎重に、言葉を紡いだ。


「もしかして、シロが部屋に来る前に、さっさと出かけようと、急いでいたんですか?」


 その言葉に、男は視線だけで答えた。言葉にするまでもない。言葉として聞くまでもない。それはやはり、そうなのだろう。


 だから、幼年はさらにうなだれる。心地よい疲れが、肩にかかった。


「……そろそろ寝ます。明日も、たぶん大変ですから」


 近い未来を想像して、幼年は苦々しく笑った。楽しみにしているのだろうか? それとも、覚悟を決めて、肝が据わっただけだろうか? ……どちらかというと、前者かな。心の中の自分に言い聞かせる。


「もしものときは、あいつらを頼む。シュウ」


 小さく、男は声をかけた。部屋へ戻る、幼年の背に。


 幼年は立ち止まる。少しだけ振り向く。そのわずかな時間だけ、その意味を考えた。『もしものとき』。いつのことだろう? それは地下世界とやらに行って、戻れなかったときのことか? それとも、毎日毎日連れ回される、ショッピングのことだろうか?


 この場合は、後者かな。幼年はそう思う。そう、信じたい。


「おやすみなさい」


 そう答えを返す。それは肯定の合図だった。


        *


 翌日。幼年は朝も早くから扉の前で待っていた。男子部屋の扉の前。ひと月弱もともに過ごして、少女の朝が早いことを幼年は理解していたから。


「あら、シュウ、そんなところでなにやってるの?」


 案の定、早い時間に少女はそこを通りかかった。というより、男子部屋に用事があったのだろう。

 本日予定されているショッピングに、幼年と、男を連れ出すために。


「どうせそろそろシロが起きてくると思って、待ってた。どうせハクさんも出かけて行ったし、タイミング合わせて部屋を出たんだ」


 準備していた言葉を紡ぐ。男子部屋の扉に背を預けて。


「なによ。また一人で出かけたの? まったく。迷子になっても知らないんだから」


 どこか大人びた雰囲気で髪を払い、少女は言った。しかし、意外と不機嫌そうではない。


「今日も買い物に行くんだろ。準備はできてるから、行こうか」


 言って、幼年が先導する。「ふうん」。と、その背に少女の声がかけられた。


「今日はなんだか乗り気じゃない。まあ、いいんだけど」


 少女の言葉にぎくり・・・とする。だが、いくら少女の洞察眼が優れているといっても、隠している内容までは解らないはずだ。なにかを隠している、という程度の気付きならまだしも。


「なんや。……ハクおらんの? ノラ」


 幼女が眠そうに眼をこすりながら言った。幼女はロシア語しか話せない。わずかに英語なら、男たちとの旅路で聞き取りくらいできるようになったが、扱える言語はまだロシア語だけだ。

 そして幼年は、日本語と英語しか話せない。英語も、一人で海外を歩くには危ういレベルだ。つまり、幼年と幼女は、お互いまったく言葉が通じない。


「勝手に一人で出かけちゃったみたいなの。仕方のない人よね」


 少女はロシア語で幼女に言った。


 だから、幼年はふと、思い出した。そういえば試していなかったことがある。


「ちょっといいかな」


 幼年はどこからか、銀色の装丁の本を取り出す。わずかに念じ、その『異本』を発動させた。


「なに、これ?」


 現れたのは小さな結晶・・――ガラス細工のようにも見える……というよりは、鏡だった。鉱山から掘り出したままの不格好な結晶。その表面を鏡面に仕上げたような。それが、二つ。空に浮いた状態で現れる。


「あれ、シロも知らないんだっけ? ……この『異本』。『神々の銀翼と青銅の光』は、基本的には『鏡』を扱うものだから」


 説明しながら幼年は身振りで示した。その結晶を手に取れ、と。


「『鏡』? だって、シュウの『異本』は転移系で、人や物の移動や、精神を繋げて心で会話する……とか、そんなんじゃなかったっけ?」


 言いながら、少女は二つの結晶を手にし、片方を幼女に渡した。


「俺も理屈は解んねえけど――つうか、『異本』に理屈が通じるかは知らねえけど、その転移の目印がこの結晶ってわけ。で、前々から考えてたんだけど、これでお互いの精神を繋げて……いわゆるテレパシーを飛ばし合える状態にしたら――」


 たぶん、言語の壁を越えて、会話ができる。

 そう、幼年は念じた。


『ホンマや! 解るで!』


 幼女が嬉しそうにはにかんだ。これでコミュニケーションに支障がでない。ひとつ、憂いを断つ。だが、幼年はこのとき、考えが及んでいなかった。


 二人の人間とコミュニケーションをとれるということは、二人の人間から連れ回されるということ。だとしたら、少なくとも二倍は、疲れるだろうということに。


        *


『ということで、ハクさん。お二人は連れ出したので、あとはご自由に』


 鏡の結晶から声が聞こえる。いや、それは鼓膜を震わせているわけではない。しかし、心に響く。いや、そんなセンチメンタルな言い方でお茶を濁すこともなかろう。これは単純に、脳へ直接信号が伝っている、という理屈・・なのだ。


「ありがてえが、別段、やることもねえんだよな」


 宿の男子部屋で横になり、男は呟く。幼年から聞いている。相手に伝える意思がなければ、この『異本』の性能では、言葉も気持ちも伝わりはしない。プライバシーは守られているというわけだ。


「まあ、ガキがせっかく気を遣ってくれたんだ。有意義に過ごすかね」


 言って、かたわらの『鍵本』を開く。『試練』とやらの手がかりでも見つけられればめっけものだ。


 男はそっと、表紙を開いた。



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