170th Item Vol.5(ニュージーランド/ワンガヌイ/8/2020)


 そこは、光の中だった。


 水底に落ちる、かすかな光。


 現実なのか、夢なのか、曖昧なままのまどろみの中。


 心地の良い音色が空間を包む。


 限り無く規則正しいようで、ときおり、不安なほどに速くなる。


 それでも、決して止まることのないその音は、少女を、安らぎへと誘う。


「どうしてじゃ?」


 声が聞こえる。膜一枚隔てたような、くぐもった声。


「どうして、わらわを庇った?」


「知らない。体が勝手に動いたの」


「そんなたわけた話があるか。せめて後付けの理由くらい考えられんのか?」


 呆れたような態度。だが声音は、優しく微笑んでいるかのようだ。


「……お姉ちゃんだから」


 少女は時間をかけて、その答えを導き出した。


「あなたはわたしの名前を呼んでくれたわ。わたしは一度、たった一人になった。きっと、本当の意味で、一人になった。お父さんもお母さんも死んで、自分自身傷ついて。痛くて、寒くて、もう、早く死なないかなって、そんなことばっかり考えてた」


「…………」


 言葉はない。姿もない。だが、その気配は、優しく少女を包んでいく。


「あのとき、わたしの名前は失われたの。だって、それはもう、この世界中の、誰も呼ぶことのなくなったものだもの。だけど、そんなところにハクが来て、ハクは、わたしの名前を、呼んでくれたわ」


 少女は目を閉じる。心地良い空間に身を委ね、じっくりと時間に思いを馳せる。


「だからこうして、わたしは存在している。ハクが、メイちゃんが、パラちゃんが。ヤフユたちが、……そして、お姉ちゃんが、わたしを見つけてくれたから。だから――」


「もうよい。妹よ」


 その言葉は、確かに少女に触れた。


「今度は……これからは、必ず妾がなれらを守ろう」


 みんなのお姉ちゃんとして。


 声は溶けていった。


 続いて、鼓動も、光も、空間も。


 そしてまどろみから目を覚ます。


 現実に、回帰する。


        *


 それは、奇跡だった。あるいは啓示とでも言うべきか。


「なんだ……これは……?」


 青年をしてそう言わせる光景だ。


 直径二メートルほどの球体。瞬きすらしていない青年は、それが急に自身の視界に形成されていくさまを思い返す。


 それはただ・・・・・形作られていく・・・・・・・球体に遮られたからではない・・・・・・・・・・・・・間違いなく・・・・・起きた現象・・・・・。少なくとも、青年の認識としては、そのように映った。


 女の体が・・・・まるで式神のように微塵と裂け・・・・・・・・・・・・・・それが徐々に球体と成っていったのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・


「くっ……!!」


 だがそんな非現実的な光景は一瞬で、そこには腹部と右足首を負傷した女の姿が現れる。女は気丈に、青年を睨む。間に割って入ってきた少女は無傷だ。


「本気で殺すつもりだったのですけれどね。いったい――」


「ノラ! 逃げろ!」


 青年の言葉を遮り、女は少女の背を押す。


「逃がすとお思いか?」


 少女の背に、青年は杖を向けた。先の尖った、杖の先で、いつかの老人へ向けたように――


「逃げると思ったの?」


 少女は振り返り、その遠心力でもって、あらんかぎりの横薙ぎを振るった。


 防御などない。己が身を刺し貫かれようとも、相手を倒す攻撃。その手には、気付かぬうちに『焃淼語かくびょうがたり』が握られていた。


        *


『ヤヴィシュタの光の繭』。


 少女が、女と青年の間に割って入ったとき、女がとっさに発動した『異本』。


 インド人神学者であり作家でもある著者によって書かれた小説。特別になにもない世界で、なにも起きないということ自体を・・・・・・・・・・・・・・・、極限まで優しく美しく、まるでアートのように書き綴った作品。その物語には、誰がいるということもなく、なにがあるということもないのに、読み進めていくうちに、どうしてだか心を打たれる。作者が目指したのは『母親の胎内』だという。


 さて、そんな『ヤヴィシュタ』の『異本』としての性能は、『完全防御』だ。発動地点を中心に球体の壁を作り、あらゆる攻撃を無効化する。ただし、その壁を制作するのは発動者本人の肉体・・・・・・・・。そして防がれたダメージを受けるのもまた、発動者本人である。だが、そのダメージが肉体のどの部分にわたるかはランダムだ。


 女自身、この『異本』を使うことはないと、いつだったか、それを手に入れたときに思ったはずだ。たった一人で進む、『異本』集めの旅。守るものなどない。また、守らなければならないほどに追い込まれるつもりもなかった。


 だから、このとき、とっさにこの『異本』のことを思い出したのは、奇跡と言っていい。あるいは神の啓示とも。


 女は息を吹き返した。負傷という意味ではさきほどより増えている。少女が現れ、守るものができてしまった。状況は悪化しかしていない。


 それでも、女は、死ぬことだけは、諦められた。


        *


「姉さん!」


 だいぶ遅れて、少年が現れる。それはそうだ。よもや少女一人で、こんな広大な公園の奥深く、しかも立ち入り禁止区域にまで進んでくるとは、女は思っていない。


「……!! 『開闢かいびゃくの夢』、一分!」


 女は駆け寄る少年の後方に危機感を覚え、とっさに『異本』を発動した。左足だけで無理矢理に全身を弾き飛ばす。少年を抱え、不格好に地面を転がった。


「汝もか! 馬鹿者! ついてくるなと言ったろうに!」


 さきほどまでいた背後を見えない衝撃が通り過ぎる。『鳴弧月めいこづき』による攻撃だ。


「ノラに、『マール・ジーン』を」


 少年は女の耳元で囁いた。唐突に、必要なことだけを。


 この場所に来る前、少年と少女は話をしていた。女の急な態度の変化。その理由。仮説を立て、対策を用意した。もちろん、そのどれもが空想への対策で、ふわふわと、どうにも具体性に欠けていたが、それでもないよりはマシだろう。


 そのうちの、一番危急を要する場合だ。とにかく少女の全力が出せるなら、あらゆる事態に多少は有効に働く。また、少女の目的である『枷の解除』も行えるという小賢しい策でもある。


 その言葉を受け、女は瞬き一つだけの逡巡をした。いや、考えを巡らしたのかもしれない。


「ヤフユ。手を貸せ」


「もちろん」


「そうじゃない。手を貸せ」


 女は同じことを言い直し、少年の手を取った。その手を掴んだまま、二本の腕を纏めて、突き刺す。転がったはずみに地面に広がっていた、『箱庭百貨店』の中へ。


        *


 少女が青年を足止めしている。もちろん、青年は一人じゃない。しかし、転がったことでうまく、そのすべてに見失わせることができたみたいだ。木陰に隠れ、行動を指示する。


「汝に頼むことは三つある。『マール・ジーン』をノラへ。『ミジャリン医師の手記』を妾へ。最後に『百貨店』を持って、安全なところへ」


「わたしには『異本』は扱えない」


「大丈夫じゃ。『箱庭』シリーズは特別でな。相伝することで誰にでも、扱えるようにすることができる」


「…………!」


「『マール・ジーン』は強力な『異本』じゃ。コントロールに気を付けろ。『ミジャリン医師の手記』は『制限解除アンリミテッド』として使うのじゃ、大量の札束を入れればよい」


 女は言って、コートからいくつもの札束を取り出す。

 そのうちの一つを手に取り、『百貨店』へ。次に現れた手に握られていたのは、札束ではなく、一冊の本。藍色の装丁の、『異本』だ。


「すまんな。汝に、多くを頼ってしまって」


 時間がない。少女がそう長く、青年を抑えられるはずがないし、こうやって隠れ続けるにも。

 だが、歯がゆい様子で女は言葉を詰まらせる。俯き、拳を握る。


「……大丈夫だよ、姉さん」


 そんな拳を両手で包み、少年は、優しく言った。


「痛みも、辛苦も、懺悔すら分かち合えばいい。もうわたしたちは、家族なのだから」


 女の拳を開き、握手のように包み直す。祈りのように。


 そして、少年は立ち上がった。


        *


 ギイイィィ――ンン!!


 金属のぶつかる音。そして、擦れる音。

 切っ先が、青年の頬の、触れるほど近くへ。


「……悪くない太刀筋だ。素人ではないな」


 青年は顔色を変えずに称賛する。


「ええ、昔、ちょっと本でね」


 少女は笑う。額に汗を滲ませて。


 ギリギリ……と、震える。競り合いになってから、少女はすぐさま、両手での構えに変えていた。立居姿も腰を落とし、力を極限まで伝えている。


 だが、なんだ、この、手ごたえは? まるで壁に切りかかっているかのように、まったく押し返せない。


「面白いことを言う。では、どこまで抗えるか、見てみましょう」


 キイィィン!


 青年の方から弾き返した。その力は、十二分に体重を落としていた少女でもまったく逆らえない。そもそも体重が違いすぎる。力の押し合いで、少女が勝てるはずもない。


「ほら、ちゃんとしないと」


 転びそうになるのをこらえて見ると、振りかぶる青年。この体勢では受けきれるはずもない。


「わわわ……!」


 だから少女は転んだ。崩していた体勢のまさに同方向・・・へ、自ら転んだ。それは不格好だが、それゆえに予測とは大きくかけ離れた回避行動。地面を転がり、青年から距離をとる。


「ちょ……!」


 仰向けて止まった回転の先には、距離を離したはずの青年。が、さきほどと同じ姿で振りかぶっていた。


 少女はとっさに刀でガードする。しかし、それが無理なことは、すでに理解していた。

 カン。と、思ったよりも軽い金属音が鳴る。だが、刀を握る手にかかる重みは、徐々に増幅していった。じわじわと、その峰が、少女の首元を捕らえるまで。


「君のようないたいけな子どもまで引き連れるようになるとはね。ホムラも変わったものだ」


 少女に馬乗りになり、青年は顔を近付けて、言った。


「どきなさいよ。痴漢。変態。犯罪者」


「確かに身共みどもは犯罪者だが、前の二つは容認しかねるな」


 と、言ったのは、もう一人の青年。


 いまさらながら、おかしいと少女は気付いた。同じような姿の青年が二人? いや、これとよく似た現象を、ついさっきも見たような気がする。


「これは、君のようなものが持っていていいものではない」


 二人目の青年は言うと、少女の手に手を重ねた。そして、両手で少しずつ、少女の手を開かせていく。


 なすすべもなく、少女は『焃淼語』を奪われた。だが、首元には依然として、切っ先が当てられている。刀ではなく、杖の。


「家族のための蛮勇も、結局は己が身を滅ぼすだけだ。一つ勉強になりましたね」


「そんなことは学んでいないわ。だってそれは、真実ではないんだもの」


 少女はまだ、気丈に青年を睨んでいる。


 それが気に障ったのではないのだろう。いや、気に障ろうと障るまいと、青年は次にどうするかを決めていたのだから、内情はどうでもいい。


「『血吸囃子ちすいばやし』は回収した。さあ、ホムラ。あとは君だけだ」


 やや大きめの声で、青年は言う。どこかに隠れている女をおびき出すためだろう。


「この子が壊れる前に、出ておいで」


 言うと、二人目の青年が、二本目の杖を掲げ、振り降ろした。


 その先端は、少女の右手を、オペラグローブごと、地面に突き刺した。



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