170th Item Vol.2(ニュージーランド/ワンガヌイ/8/2020)
女の話を聞いて少年は確信した。少女が『シェヘラザードの歌』を不安定にしか扱えない理由を。
そして少女は感覚的に理解していたのだ。シリーズとして構成されている『異本』は時として、それらを順に修得していかなければ、その本領を発揮できないのだということを。
「確かに
狂乱の姉としてではなく、慈しみを持った目で、女は少女を見た。その寝顔に微笑み、頭を撫でる。
「それは……」
解る。少年は思った。それは自身の兄弟たちに、自分が思ってきた感情だ。
「解っておらんのじゃよ、妹は。あの末弟のことも、その歩む道の先に、どんな過酷な結末が待っておるのかも」
「それは違う」
少年はやや語気強めに言った。その強さには、発した本人さえも驚愕する凄みが含まれていた。
「解っているんだ。彼女たちは――わたしたちは。大切な家族が、どんな茨の道を進んでいるのか。大切な家族が、どんなむごいことをしようとしているのか」
「解っていて黙認するのか。世界なんぞはどうなってもよい。まして自身の身など。しかし、その思想は、その大切な家族をも犠牲にするのじゃぞ」
少年は一瞬言葉を噤んだが、その続きは最初から決まっていた。
「家族というのは、そういうものです」
女の目を直視して、少年は言った。
女はため息を漏らし、少年の頭に手を置いた。
「
少年はそれでも揺らがない。少なくともこのとき、少年は自身の思想に、それなりの信頼を置いていた。
年齢は関係ない。だが、年を経るほど可能性は上がる。大切な誰かと、出会い、別れる可能性。人間が正しさから過ちへと認識を改めるのは、その出会いと別れだけだ。
女は膝にかかる重み、熱、湿度が乖離するのを感じた。
「……おはよう?」
それは、大切な家族が独り歩きし、立派に巣立つ感覚に似ていた。
*
幸か不幸か、少女は心的外傷により、直近の目的を忘れていた。自身にかけられた枷を外してもらうという、大切な目的を。
「ノラ、こっちはどうなのじゃ!? 白くて可愛いノラには、あえて鮮やかな赤で大人っぽさを追加なのじゃ!」
ワインレッドのきらびやかなドレスを持ち、女は少女にあてがった。
「……お姉ちゃんうざい」
「ふううぅぅ! お姉ちゃんうざいのじゃ! あ、ヤフユはこれがいいのじゃ! ヤフユはスマートで凛々しいから、こういう正装がよく似合いそうなのじゃ!」
女は、ドレスの陰から薄ピンクのワイシャツとグレーを基調としたストライプのベストを取り出す。
「あの、姉さん。わたしたちは本日帰国の予定で……」
「えー、お姉ちゃんさみしいのじゃ。そうじゃ! ハクには妾から一報入れておくのじゃ!」
おもむろにスマートフォンを取り出す女。
しまった。少年は思う。ハクという人に連絡が入ると、自分がハクの息子でないことがバレる。すると、いったい誰の子かと問い詰められる。ジンの名を出すのはリスクがある。
「ハクとは別行動だって言ったでしょ、お姉ちゃん。いまはジンという人の指示で来ているのよ」
少女がなんの気なしに言うと、女は真顔で少女に向き直った。
「シロ! ジンの名は――」
いまさら言っても遅かったが、言わずにはいられなかった。だがもちろん、時はすでに遅い。
「なんじゃ、汝、ジンのとこの子か」
女の反応は意外にもあっさりしている。
「じゃったらなお、話は早い」
言うと女はおもむろに店を出た。少年と少女も、その後ろを追う。
店先まで出ると、女は周囲を見渡しながら、コートの内ポケットから赤い装丁の本を取り出す。表のポケットからは紙幣をも取り出したようだ。
「あそこか」
どこかに焦点を合わせ、女は紙幣を、『異本』に差し入れた。
「『カラヤンの世界地図』。一分」
開いた『異本』に手を入れ、なにかを引っ張り出す。
「ぐえっ」
出てきたのは金髪金眼。白いスーツに身を包んだ、若者だった。
*
「愚弟。この二人は数日、妾が預かる」
「それは困る。せめて、ヤフユは帰せ」
「んじゃ」
気軽に言うと、女は若者の返答を待たず「『新たなる静寂の鏡』。一分」と、新たな紙幣を『異本』に押し込み、かわりに抜身の刀を取り出した。そして躊躇なく若者を切る。
驚愕に少女が声を上げる前に、現実は不可解を呈する。
その
「これでよし。喜べ二人とも。ジンに許可は取ったのじゃ!」
「いや、許可は出ていないと思うけれど」
少年は突っ込む。しかしそんな反論などどこ吹く風だ。
「よし、ショッピングを続けるのじゃ! ノラもヤフユも、欲しいものがあったら遠慮なくお姉ちゃんにねだるのじゃぞ?」
もとより幼いその笑顔は、純粋に楽しんでいるから余計に、姉というよりむしろ妹のような無垢さが現れていた。
*
結局少女は女の勧める、ワインレッドのドレスを断り、限り無く白に近いピンク色の、長袖のワンピースを購入した。それは袖部分が肌にぴったりとフィットしており、上からいつものオペラグローブをはめてもかさばる感じがなかった。またスカート部分も以前のものより丈が長く、だいぶ大人っぽい印象に変わる。
少年の方は女の勧めた通りのワイシャツとベスト、それと合うグレーのパンツを購入した。普段のだらけたような服装とは真逆に、キリリとした印象に変わり、女の言う通り、凛々しさが際立つ。
「ヤバいのじゃ、ヤバいのじゃ! うちの弟と妹は、世界一なのじゃ!」
高速機動でシャッターを切る女。その高揚とは裏腹に、被写体の二人は慣れない衣服も相まって居心地が悪そうだ。
「ヤフユ」
「うん」
「なんだかわたしたち、崖の上から足を踏み外したようだと思わない?」
「うん。わたしも同意見だ」
なんらかの撮影かと思われたのだろう。近隣の住人も女に倣って、少年と少女をうっすらと取り囲んでいた。フラッシュの光が目に痛い。
「眼福なのじゃ。満足したのじゃ。……さてと、二人とも、次は――」
その『次』という言葉に、二人はわずかに戦慄した。
だが、戦慄が走ったのは、二人だけではなかった。
「――――」
急に真剣な眼差しで、どこか遠くを見る女。焦点は合っていない。だから、なにかを見つけたわけではないのだろう。
だがその視線は間違いなく、なにかを感じていた。
「ヤフユ、ノラ」
声が、弾んでいない。
「ちょっと用事があったのじゃ。すぐ戻るから、二人で遊んでくるのじゃ」
言って、日本円に換算すると七桁ほどになる金銭を無造作に取り出し、少年に押し付けた。
「姉さん?」
その様子がおかしいということくらいは解る。少年は訝しんで、声をかけた。
「おしっこなのじゃ」
朗らかに言う。だが続く言葉は、朗らかとは程遠い、低く、小さい声。
「ついてくるな」
軍帽を目深にかぶり直す。その眼光は、鋭く、尖っていた。
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