僕の物語 5

 すっと全身が冷えていく。

 眩暈のようなものを感じながら、僕はグラスの水を飲んだ。

 やはり直接、こうした科白を聞かされると信じざるを得ない。

 彼女は見たのだ。

 驚くほど僕とよく似た男を。

 僕が半年前、あの運命の日に美優と一緒にいるのを目撃した男と同じ、僕と瓜二つの顔をした男を。

 猪野沢真希の言うことが事実であれば、やはり僕とそっくりの顔をした男はこの世に実在しているということになる。

 とても信じられないような話だ。

 実際、警察は僕の証言を信じなかった。

 「自分とそっくり同じ顔をした男と一緒の車に妹は乗っていました」と殺人被害者の兄が言ったとしても、それを額面通りうけとる者などいるはずもない。

 警察は一時は僕が妹を殺したあげく、捜査を混乱させようとして虚偽の証言を行っているのではないかと疑ったほどだ。

 犯罪者というのは、正常な心理状態では考えられないようなときに突拍子もない嘘をついては自分から自らの罪を暴露してしまうことがあるという。

 僕も、そうした犯罪者ではないかと嫌疑をかけられたわけだ。

 後に僕の無実は明らかとなったわけだが、警察が僕の証言を疑うのもある意味では当たり前のことだ。

 そんな偶然が果たしてあるものか。


「その、あたしも昨日、実物見たときは、自分でも信じられなくて、なんかパニックみたいになって……でももしかしたら、お兄さん……御厨さん本人かなとか思って電話したけど、お兄さんが出たからまた自分でもわけわかんなくなって……」


 そこで猪野沢真希は、じっと僕を見つめてきた。


「あ、えーと、なんてお呼びすればいいですか? お兄さん、とかだと生意気ですよね。やっぱり、御厨さんのほうがいいですか?」


「君の好きな呼び方でいいよ」


 そこまで言って、いまどき「君」なんて呼ぶのは変だよなと後悔したが、猪野沢真希は僕の下らない心の動きに気づいた様子もない。


「それじゃ、御厨さんにしますね……とにかく、そういうわけなんですよ。こうしていま見ていても、本当によく似ていて……」


 再び彼女は僕の顔を凝視していた。

 別に僕の顔が赤いからではないと自分にむかって言い聞かせる。


「でも、よく俺の顔なんて覚えていたね? そんなにあったことないのに……」


「美優が、いつも写真もっててよく見せられたから……」


 途端に、気まずい沈黙が落ちた。

 美優。

 事件から、半年が経過した。

 もし彼女が例えば交通事故や病気で亡くなったのなら、多少は残された僕たちの心にも変化が生じていたかもしれない。

 だが、殺人とは通常の死とは異なるものだ。

 なぜ、と問わずにはいられない。

 なぜ、美優は殺されなくてはならなかったのだ。

 いまだに警察は被疑者を逮捕してはいない。

 この半年いうもの、事件捜査はほとんど進展しいないのだ。

 むろん、犯人が捕まったところで心が軽くなるわけではないだろう。

 美優がそれで生き返るわけでもないのだ。

 だが、それがどんな無茶なものであっても、美優が殺された動機がわかれば、無理矢理に心を納得させることが出来るかもしれない。

 いまのような、なにもかもが中途半端で、理不尽としかいいようのない状態よりはおそらくましなはずだ。

 美優は突然、わけがわからぬまま殺された。

 しかもあれほど無惨な殺され方をしたのだ。

 兄である僕や両親といった家族はむろんのこと、美優の友人だった猪野沢真希も「残された者」であることには変わりない。


「あ……なんか、その、すみません」


 長い沈黙の後、猪野沢真希が暗い面もちで言った。


「やっぱり、美優のことは……御厨さんにとっては、辛い話ですよね」


 辛くないわけがない。

 だが、それは僕だけではなく、猪野沢真希にしても同じだろう。


「確かに辛いし、いまでも美優のことを考えるだけで気が変になりそうになることもある。でも……」


 運ばれてきた珈琲に僕は口をつけた。


「美優が、この世からいなくなったってのは、理屈ではわかっているんだけど、なんかみんなたちの悪い夢じゃないかって思うときがある。それに、なんで美優なんだって……なんか、納得がいかないんだ。俺も美優も普通に暮らしてきたのに、なんでいきなりこんなことになるなんて……」


 いまでも、その思いに変わりはない。


「なんか、こういうのってドラマのなかの話で、自分たちが巻き込まれたなんてどうしても信じられないんだ。おまけに、犯人かもしれない相手が……」


 僕は、珈琲カップを見つめた。


「自分と、同じような顔をしていたなんて」


「あの、本当に失礼だとはわかってるんですけど」


 猪野沢真希がささやくように言った。


「正直、あたしも思ったんです。いくらなんでも、こんなことがあるはずないって。美優がころ……」


 殺されて、と言いたかったのだろう。だが、それは僕ら「残された者」にとってはあまりにも口に出すのがきつい言葉だった。


「美優が、あんなことになるなんてなんだか嘘だろうって感じで、現実感が全然なくて。それに御厨さんが、自分とそっくりの男が美優といたとか言っていたって聞いて、少し、精神的にまいってるんじゃないかって」


 やはり彼女も、あの週刊誌の記事を読んでいたのだろう。

 それ以外に僕の「目撃証言」を報道した媒体は存在しないのだ。

 実際に週刊誌に書かれた記事は、ひどく陰湿なものだった。

 被害者の兄である僕が神経を病んで大学にも行かずに引きこもりがちになったあげく、事件当日、殺された妹は自分とそっくりな相手と一緒にいたという「不可解な証言」をしたことを、面白おかしく書き立てたのだ。

 「被害者の兄」の奇妙な言動。

 それが、二ページほどの記事のタイトルだった。

 その記事には捜査当局が「被害者の兄に対し慎重に捜査を進めている」と書かれており、実際には頭のおかしい兄が妹を殺したのではないか、という疑惑を読者に抱かせるような内容になっていた。

 この記事を読んだ猪野沢真希が僕の精神状態を疑ったのも無理はない。

 犯人扱いされなかっただけ、ましというものだ。


「だから……昨日、本当に御厨さんとそっくりの『あの男』を見たとき、驚いたっていうか、マジでパニックみたいになって……」


「でも、よく僕の電話番号、知ってたね」


 すると、猪野沢真希は奇妙に口元をひきつらせるようにして笑った。


「あは……やっぱり、あたし、忘れられてますね。御厨さんの家に行ったとき、携帯の番号、交換したじゃないですか」


「そうだっけ?」


 僕は驚いて言った。


 そんなことはすっかり忘れていたのだ。

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