僕の物語 4
夜の外出は比較的、楽だとはいえ、これからのことを考えると気が滅入る。
だが、今回は特別だ。
なにしろことがことなのだ。
待ち合わせ先では、昨日、僕に電話をかけてきた相手が待っている。
だが、彼女の話は本当なのか?
僕に嘘を言っても仕方がないことは理性では理解している。
どこかで、やはりあれは見間違いではなかったのだ、という思いもある。
しかし、実際に直接、「あの男」を目撃したという相手にあって話を聞いてみなければどうしても信じられない。
本当に、こんなことがありうるのだろうか。
僕は小田急線町田駅近くの駐輪場に自転車を停めると、待ち合わせ先の喫茶店に向かって歩き始めた。
ひどく息が弾んでいるのは、町田特有の幾つもの坂を自転車で上り下りしたせいだ。
ビルが林立する駅前に近づくにつれて、僕は呼吸を整えながら自分にむかって呪文を唱えた。
僕の顔は赤くない。
僕の顔は赤くない。
僕の顔は赤くない。
こんなときだというのに、下らないことを気にしている自分に嫌気がさす。
それでも僕は呪文を唱え続ける。
幾つか信号を渡った。
すでに日は暮れているので僕の顔はあまり見えないはずだが、それでもあたりを行き交う人々とすれ違うたびに、相手が「赤い」と言うのではないかという病的な不安に駆られる。
待ち合わせ先の「喫茶ソナタ」は、大手銀行の向かいにある喫茶店だった。
アールデコ調の店の中は明るい照明に照らされ、窓を通してその光が外にまであふれ出している。
なかはわりと混んでいた。
明るい場所は苦手だ。
暗がりと違って、顔色がはっきりと相手にも見えるのだから。
だが、僕は覚悟を決めると喫茶店のドアを開けて店内へと足を踏み入れた。
途端に、ウェイトレスの女の子が近づいてくる。
「お一人様ですか?」
「あ、あの」
僕の顔は赤くない。
そう心の中で唱えて僕は反射的に言った。
「その、なんていうか……待ち合わせなんです。えっと……」
そういえば、喫茶店になどもう二年近く入っていない。
こういうときはどう対処すれば良かっただろうか。
長い間、家にこもっているとこんな日常のなんでもないことでさえパニックに陥りそうになる。
「御厨さん!」
入り口近くの席から、びっくりするくらい大きな声が聞こえてきたのはそのときだった。
驚いたのは僕だけではなかったらしく、店内の何人かの客が声の発せられたあたりにむかって振り返る。
一人の女の子が、僕に向かって手を振っていた。
「あたしです! お久しぶりです! 猪野沢です! 猪野沢真希です」
まだ若い女の子だった。
美優と同級生だったのだから、当然といえば当然だが。
美優が通っていた聖林付属の制服の上に、目にも鮮やかな真っ赤なパーカーを羽織っている。
赤。
もちろん、彼女が僕の悩みをしるはずもない。
別にいやがらせでもないだろうが、なんでよりにもよってこんな赤い服を着ているのだ。
「あ、そ、その、どうも」
全身が緊張するのがわかった。
まるでからくり人形になったみたいにぎくしゃくとした動きで、向かいの席に腰掛ける。
「あ、良かった。やっぱり御厨さんですよね、一瞬、人違いだったらどうしようかと、マジで焦りましたけど」
彼女とは、以前、あったことがある。
一度だけだが家に遊びにきたこともあったし、美優の葬儀のときにも参列してくれたのだ。
だが、そのころに比べ、別人かと思えるほどに猪野沢真希は様変わりしていた。
かつては黒かった髪が、綺麗な金髪になっている。
眉も整えられており、アイシャドウも濃かった。
客観的に見て、かなり派手な化粧といえる。
一昔前のギャルみたいに茶色に肌を焼いているわけではなかったが、いかにも今時の遊んでいる女の子、といったふうに見えた。
確か聖林付属は校則が厳しく、こんな格好は出来ないはずなのだが。
僕が覚えている猪野沢真希は、眼鏡をかけた、どちらかといえば内気で、おとなしげな少女だった。
ただ、ひどく印象的な、黒目がちの大きな瞳は昔と変わっていない。
その二つの瞳が、まっすぐに僕に向けられている。
あるいは、僕の顔は真っ赤になっているのだろうか。
そうだ。
だから彼女は僕のことをまじまじと凝視しているのだ。
汗が体中から滲みだしてくるのがわかった。
頬がひどく熱くなる。
「やっぱり」
しばしの沈黙の後、彼女は言った。
「やっぱり、間違いないです」
「え?」
僕はあわてて言った。
「そ、そんなにその、赤くなってるの?」
それを聞いて、猪野沢真希がきょとんとした。
当たり前だ。
緊張して僕はなにをわけのわからないことを僕は言っているのだ。
「赤いとかよくわかんないけど……そうじゃなくて、顔です。顔」
やっぱり顔が赤いんだ。
やはりそうなんだ。
落ち着け。
狼狽する僕にむかって、猪野沢真希が冷静に告げた。
「よく他人のそら似とかいうけど……あの男と本当によく似てます。別人だって知らなかったら絶対、本人と間違えると思うし」
そこまで聞いて、ようやく顔の赤さなど気にしている場合ではないと思い出した。
話はいきなり、本題に入っている。
ウェイトレスが水の入ったグラスをテーブルに運んできた。
うわずった声で珈琲のブレンドを注文すると、僕は訊ねた。
「えっと……それって、見間違いとかじゃなくて?」
いきなり失礼なことを聞いてしまった、と僕は後悔したが、相手はそんなことを気にした様子もなかった。
「あたし、目は悪いけどコンタクトしてるし、間違いないです。ありえないけど、やっぱり、あたしが見た奴、お兄さんと……つまり、その、御厨さんとそっくりの顔してました」
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