俺の話 1
ようやく単調だった現実が刺激的になってきた。
しかつめらしい顔をしながらも、俺は心のなかで笑っていた。
ダークブラウンのコートを羽織った「甲」の姿は、ホームの人混みでもかなり目立つ。
なにしろ身長が一八七センチもあるのだ。
学生時代にラグビー部で鍛えたというがっちりとした肉体は、俺のような尾行者からみれば目印として非常に有り難い。
甲の履歴は頭にしっかりとたたき込んである。
年齢は今年で三六歳。
二つ下の妻がおり、子供は娘が二人。
長女は小学三年生で、次女は今年、小学校に入学している。
依頼人は妻だった。
この商売でもっともよくある依頼、つまりは浮気調査である。
最近、夫は帰りが遅く、あまり話をしてくれないという。
かつては家族でキャンプやバーベキューなどによく出かけたというのに、最近の夫は行き先も告げずに休日には一人で外出する。
その他にもいろいろと理由はあるが、とにかく女の直観が、自分以外の女性の存在を夫の周囲に感じ取ったらしい。
とはいえ、実際に俺が依頼人と会ったこうした話を聞いたわけではない。
大手とは決していえない規模ではあるが、俺が勤めている調査会社では相談員と調査員は完全に仕事が分かれている。
契約は小型で七日契約。
まあ、浮気調査としては妥当な線だろう。
実際、七日あればたいていは、実際に浮気をしている場合は浮気相手を「発見」できる。
だが、調査初日からビンゴを掴むのは、調査員としても滅多にある経験ではない。
甲が勤務先である大手電気会社から最寄りのJR浜松町駅に向かうところまでは、ルーチン通りの行動といえた。
もし甲がこれから電車を乗り継いで千葉県八千代市にある自宅までおとなしく戻れば、調査員としての俺の今日の仕事は終わる。
だが、浜松町駅で、甲は切符を買った。
どこかか妙だった。
自宅と通勤先の間を移動するだけなら、普通は定期券を使うものだ。
それなのに、わざわざ切符を購入したということは、自宅以外の目的地があると考えるのが自然だろう。
むろん、甲が浮気などしておらず、なにか所用があるということも考えられる。
だが、甲が帰宅する場合とは反対回りの山手線に乗り、渋谷で降りたあたりで、俺の調査員のアンテナが反応を始めていた。
むろん予断は危険である。
あくまでもこの稼業は、客観的に物事を観察してはじめて成立しうるのだ。
調査員の主観が報告書に影響を与えることなどあってはならない。
だが、甲のあの落ち着きのない様子はなんだろうか?
気分が浮き立っているのか、あるいはなにか不安でもあるのか?
知人と飲みに行くという線も考えづらい。
今日は月曜日なのだ。
甲は、改札を通ってハチ公口に出た。
すでに日は暮れている。夕暮れから夜へと移り変わる薄闇のなか、さまざまな色合いのネオンや広告照明が渋谷駅の周囲で輝いていた。
渋谷といえば、若者の街というイメージがある。
実際、いまハチ公口でたむろしているのも若い連中が多かった。
俺も中年と呼ばれるにはまだ早い年代だが、この街で遊んでいる連中からみれば、すでに「おっさん」の部類に入るのかもしれない。
もう十二月ということもあり、さすがにみな冬物の上にコートやジャンパー、ダウンジャケットなどをまとっている。
闇の中で、携帯の画面が幾つも発光していた。
あちこちで携帯の着メロが鳴っている。
公衆電話のボックスのなかで携帯をかけている者もいた。
このままでは、日本中から公衆電話がなくなるのも時間の問題かもしれない。
ナンパをしているのか、金髪を逆立てた職業不詳の少年たちが、制服姿の女子高生に声をかけている。
女子高生たちの嬌声が聞こえてきた。
太股はむきだしだが、よく寒くないものだ。
甲もそうした少女たちにちらりと目をやりながら、ときおり腕時計に目を落としていた。
むろん渋谷で遊ぶのは若者だけではない。
ちらほらとサラリーマンらしい男たちの姿も見える。
甲の姿は、あたりの様子にごく自然にとけ込んでいた。
ただ、やはり挙動に落ち着きがない。
もともと髭が濃いたちなのだろう。
朝見たときは綺麗にそり落とされていたはずの頬や顎のあたりの髭が、照明に照らされ青々として見えた。
幸いにして、俺の存在に気づいた様子はない。
これだけの人が待ち合わせをしている状況では、俺としてもやりやすかった。
なにげない様子で携帯で時刻を確認するふりをしながら、視界の隅の甲を観察し続ける。
さりげなく移動してセカンドバッグから小型カメラを取り出し、三度、甲の撮影を行った。
甲が退社する前に、カメラのフィルムは日中によく使うISO感度四00のものから、夜間撮影用の八00のフィルムに替えている。
甲は照明の下にいるためこれで不自由はないだろう。
三十分ほど経過したが、甲に変化は見られない。
むろん、この程度の待機は特に苦にもならなかった。
張り込みは、調査員の仕事のほとんどを占めるといっても過言ではない。
この仕事の基本は、とにかく待ち続けることなのだ。
探偵という仕事に妙な憧れを抱いた新入りがすぐに辞めることが多いのは、たいていが長時間の退屈さとの戦いに耐えられないからだ。
なにしろエンジンをきった車の中で十時間以上、黙々と張り込むなんてのは日常茶飯事の稼業である。
もちろん、張り込み中は甲に動きがあったら即座に対応しなければならないのだから、携帯ゲーム機などで単調な時間をつぶすことも出来ない。
ある程度の緊張感を維持しつつ、ひたすら張り込みを続けるのには、とてつもない忍耐力が必要とされる。
長時間、なにもせずにいるというのは一種の才能だといってもいい。
さらに時間が流れたが、甲に動きはなかった。
周囲の連中の顔ぶれも、すでにだいぶ入れ替わっている。
煙草を吸って路上に捨てる者、携帯で会話をする者、あるいはいまの甲のようにせわしなく時間を確認する者など、待ち人でハチ公口前は溢れかえっていた。
いつのまにかあたりはすっかり暗くなり、完全に渋谷の街は夜の姿になっている。
渋谷。
いま考えれば、俺の運命が変わったのはこの街での事件がきっかけだった。
もしあの事件がなければ、俺はまったく別の人生を送っていただろう。
ふと、昨日のことを思い出す。
ナイフが肉をえぐり、脂肪層を切り開き、血管を切断する感触が蘇る。
むろん、彼女に罪はない。
ある意味では運が悪かったとしかいいようがない。
俺は自分が笑みを浮かべていることに気づいた。
もはや最近では、自分の行為に罪悪感などかけらも抱いていない。
俺は一種の確信犯だ。
殺人は目標を達成するための手段にすぎない。
俺の目論見が達成されたとき、世間はどう反応するのだろうか?
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