僕の物語 2

 今頃、三沢優子という女子大生の遺族が置かれているであろう状況を想像して、暗澹たる気分になった。

 身元が判明しているということは、すでに遺族は遺体との対面を果たしているのだろう。

 刑事たちからもいろいろと事情を聞かれているはずだ。

 そして、マスコミも殺到しているに違いない。

 マスコミ。

 過去の苦い思い出や恐怖が喉元までこみ上げてくる。

 彼らは事件があるところに必ずやってくる。

 まるで屍をついばむハゲタカのように。あるいはハイエナのように。

 腐肉漁り。

 屍喰らい。

 だが、マスコミは美食家だ。

 平穏な死には、彼らは無関心である。

 たとえば平凡だが充実した人生を送った無名の老人が天寿を全うしても、その死が彼らの興味をひくことはない。

 だが、ただの一市民でも、死亡原因が異常であった場合、マスコミは死体に凄まじい勢いで食らいつくのだ。

 殺人事件などは、彼らにとって最高のディナーといっていいだろう。

 マイクを持ったリポーター。

 腕章を巻いた新聞記者。

 小型だが高性能を誇るカメラを持ったテレビ局のカメラマン。

 そしてなにもかもを暴き立て、照らし出す強烈なライトの輝き。

 半年前の記憶が蘇ってくる。

 あんなことがあったのだから、むろん僕は警察に対しても良い感情など抱いていない。

 だが、少なくとも警察の行いは理解できる。

 彼らの疑念も、いま考えてみればむしろ当然のことだ。

 だが、マスコミは違う。

 御厨美優の名前は、日本中に知れ渡った。

 中学のときの卒業写真も、連日のようにテレビで流れた。

 まるで晒し者のように。

 報道の自由、と彼らは言うだろう。

 あるいは国民の知る権利、とでも。

 そんなものはくそくらえだ。

 ご大層な大義名分でいくら飾り立てても、連中の本質は変わらない。

 レポーターがマイクを突きつけてきたときの科白は、いまでもはっきりと僕の意識に焼きついている。


 いま、どんなお気持ちですか?


 十七年間、一緒に育ってきた妹を殺されたとき、僕はなんと答えるべきだったのだろうか?

 頭の中が真っ白になり、なにか怒鳴ったことだけは覚えている。

 音声を拾うためのマイクが槍のように突き出され、こちらに向けられた幾つものカメラのレンズが覗きを行う変質者の目のように思えたことも覚えている。

 執拗にインターフォンが鳴らされ、母さんはそのたびに律儀にマスコミの「取材」に対して返事をしていた。

 しばらくの間、もともと神経症だった僕にくわえ、両親とも似たような状態になったのは、決して美優を失った哀しみのせいだけではあるまい。

 もともと苦手だった僕の外出の回数がさらに減ったのも、いつどこにマスコミの人間が潜んでいるのかわからず、恐かったからだ。

 だが、最悪なのは、僕に美優殺しの容疑をかけられたときだ。

 なぜ僕は警察にあんな証言をしてしまったのだろう。

 冷静に考えれば、彼らがたとえ一時的なこととはいえ僕を疑ったのも当然のことだ。

 だが、確かに僕は見たのだ。

 美優が、「あの男」とともに車に乗っているところを。

 いや、やはりあれは病んだ僕の精神が見た幻だと考えるべきだ。

 ひどくあたりは薄暗かったし、美優と一緒にいたのが「あの男」の顔に見えたのも、ただの錯覚だったのかもしれない。

 そもそも、車に乗っていたのも本当に美優だったのか?

 すべては僕の思いこみと考えるほうが自然だ。

 実際、結局は警察もそう判断した。

 もともと僕が神経内科に通院していたことも効いたかもしれないが、さまざまな状況から判断して、「僕が」美優殺害の犯人ではありえないことを警察も最終的に確認している。

 だが、この情報をろくに裏もとらずに記事にした週刊誌があった。

 かりにも大手新聞社が発行しているこの週刊誌で、僕はまるで有力な容疑者のように書き立てられたのだ。

 とんでもない誤報だが、週刊誌の編集部からは謝罪の言葉はいまだにない。

 そろそろ薬が効いてきて気分が楽になるはずだというのに、かえって精神状態は悪くなるばかりだ。

 再び布団の上に寝そべる。

 生きる意味などとうに失った肉体を横たえる。

 一体、何度、繰り返したかわからない言葉が僕の脳裏に蘇った。

 なぜ「僕が」生きのこっているのだろう。

 本来であれば、死ぬべきは美優ではなく、この僕だったのではないか。

 神経を病み、生きる気力もない僕が死んだほうがよっぽど理にかなうはずだ。

 少なくとも美優があんな無惨な殺されかたをするよりは、僕が死んだほうが世の中のためにもよかったはずだ。

 布団の傍らに置かれていた携帯電話に自然と視線が向かう。

 通信業界は、ものすごい勢いで進化していく。

 僕の携帯は、いまではもう時代遅れになった機種だった。

 だが、僕にとっては大事な品だ。

 この携帯こそが、かつての僕と美優とを繋げていたのだから。

 後悔先に立たずとはいうが、なぜあのころ、僕は美優と直接、会話をしなかったのだろう。

 四つ下の妹というのは、僕にとって妙に気恥ずかしいというか、うっとうしい存在に思えた。本当に馬鹿な話だが、昔は美優と面と向かって話し合うのもいやだったのだ。

 美優は僕と違って優等生だった。

 快活で、友達も多く、人前でも物怖じしなかった。

 僕が持っていなかったものをすべて美優は持っていた。

 少なくとも昔はそう思いこんでいた。

 僕にとって、美優と会話するのは自分の劣等感を刺激させられること以外の何物でもなかったのだ。

 大学に入学したのはいいが、しだいにさぼりがちになり、あげくに見事に引きこもりになった僕にとって、美優に会うことすらも苦痛だった。

 僕は、一人になりたかった。

 だが、美優は執拗に僕をまともで健全な社会に引きずり出そうとしたのだ。

 美優からの電話が、モーニングコールだった替わりだったときもあった。

 僕が布団で寝ていると、携帯から目覚めの音楽が聞こえてくる。

 どういうわけか、当時、僕は着信のメロディーを生命を賛美する歌に設定していた。

 子供の頃に誰もが習う「ぼくらはみんな」でおなじみのあの歌だ。

 ぼくらはみんな、のあたりで、意識が急激に覚醒する。

 ああ、また美優の奴だ、うぜえな本当に、と思いながら携帯に手を伸ばす。

 いきているー、のあたりで手が携帯へとたどり着く。

 再び、ぼくらはみんなの、あたりがリフレインするところで、ようやく目が完全に醒める。

 「てーのひらーをー」のフレーズでようやくキーを押す。

 耳にあてた携帯から、美優の声が聞こえてくる。


(おはよー、お兄ちゃん。って、もう夕方だけどねー)


 だが、すべては昔の話だ。

 僕らはみんな生きている。

 そのはずだったのに、美優は死んだ。

 殺された。

 いまだに警察は被疑者を見つけだすことはできない。

 美優が死んでからというもの、携帯電話が鳴ることはない。

 着信履歴は、すべて「ミユ」で占められている。

 どこまでいってもミユ。ミユ。ミユ。ミユ。

 鳴らない電話。

 美優が僕に向かって電話をかけてくることは二度とない。

 ふいに、心の奥底が揺さぶられる。

 涙などとうに枯れ果てたはずだ。

 美優は死んだ。

 殺された。

 あんなむごい姿になって。

 美優は死んだのだ。

 死者は電話をしない。

 だからこの電話が鳴ることもない。

 かつて僕は、世界に対して壁を作っていた。

 家族にさえその壁を越えることは許さなかった。

 だが、それでも美優はこの携帯電話を通して僕に接触しようとしてきたのだ。

 馬鹿な美優。

 もしその命が限られているのなら、こんな不出来な兄になど関わらず青春を謳歌すべきだったのに。

 わけのわからない怒りにかられたそのときだった。

 決して鳴らないはずの携帯電話から、あの命を讃えるメロディが聞こえてきたのは。

 こんなことはありえない。

 あるはずがない。

 だって、美優は死んだのだ。

 もう生きてはいないのだ。

 それなのに携帯のランプは点滅を繰り返している。

 深呼吸をすると、僕は電話に出た。

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