ドッペルゲンガーが笑う

梅津裕一

第一部  僕と俺

僕の物語 1

 また悪夢よりもひどい現実に戻ってきたらしい。

 布団のなかで目を醒ました瞬間、いつものようにそう思った。

 目覚めたくない。

 寝ているときに見る悪夢のほうが、虚ろな生を実感させられるより遙かにましというものだ。

 だが、僕は精神はともかくとして、肉体的には健康な身である。

 永久に眠り続けることなどできるはずもない。

 一日十時間以上の睡眠をとっていても、結局はこうして鉛のように重い目覚めを迎えることになる。

 三年近く閉め切ったままの雨戸の隙間から、弱々しい赤い光が部屋のなかに差し込んでいた。

 ベッドの傍らの時計を引き寄せて時刻を確認する。

 午後四時五十七分。

 見事なまでの昼夜逆転だ。

 起きあがる気力がわいてこない。

 混乱した夢の残滓を引きずりつつ、布団のぬくもりにくるまったまま、しばらくの間、僕はぼうっとしていた。

 ふと、美優のことを思い出しそうになる。

 だが、美優の記憶はさまざまなおぞましい事柄につながっているのだ。

 このままでは、さらに鬱状態が悪化しそうだった。

 たとえ人生が死ぬまで続く悪夢であっても、美優の運命について思いをはせるよりはいい。

 覚悟を決めると、僕は布団から起きあがった。

 パジャマを来たまま、ラックの上に置かれているパソコンのディスプレイを確認する。

 インターネットに常時接続されたパソコンのハードディスクには、一晩かけて……いや、僕が寝ているのは日中なのだからこの表現は正しいとはいえない……一ギガバイト近いファイルがネットからダウンロードされていた。

 朝、寝る前に、あらかじめ特定のキーワードに合致するファイルを自動的にダウンするようファイル共有ソフトの設定をしておいたのだ。

 ダウンロードしたのは、すべて動画ファイルだった。

 さまざまなアダルト動画の扇情的なタイトルが、画面上に表示されている。

 思わず自嘲に口の端が歪んだ。

 ネット上では、膨大な量の違法なファイルが環流している。

 本来は著作権で守られているはずの映画やDVD、ゲーム、アニメ、はてはページごとに画像を取り込んだ漫画までが出回っていた。

 ファイルの共有といえば聞こえがいいが、実際にはさまざまな著作物が著作権を無視してネットでやりとりされているのだ。

 そのなかでも、特に僕はアダルト向けの動画を集めていた。

 ハードディスクのなかにはアダルト動画がたっぷりと詰まっている。

 いわゆる十八禁の代物ばかりだ。

 だが、こうした動画を実際に見ることは、ほとんどない。

 いつのまにか手段と目的が逆転してしまっていたのだ。

 始めのうちは「鑑賞目的」だったのだが、大量のファイルをダウンロードするうちに、行為そのものが目的化してしまったのである。

 動画を鑑賞するためにダウンロードするのではなく、いつしかダウンロードするためにダウンロードするという、まさに本末転倒な状態に陥っていたのだ。

 見もしないアダルト動画を、ひたすら収集する毎日。

 その滑稽さ、あるいはグロテスクさは、まさに僕の人生そのものではないか。

 すっかりおなじみとなった自虐的な気分に浸りながら、メールをチェックした。

 予想通り、四通のメールはすべて、いわゆるスパムメールだった。

 言うなればインターネット版のダイレクトメールである。

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 どこかで僕のメールアドレスを知ったかしらないが、業者がこうしたメールをよこしてくる。

 知り合いからのメールなど一通もなかった。

 もともと友達が少ない上、最近では昔との知人との連絡もほとんどない。

 正確に言えば、僕のほうから他者との関係をすべて、断ってしまったのだ。

 最近では、両親ともほとんど口をきいていない。

 僕がいまのような状態になっても、美優がいたころはまだ家庭内には明るさがあった。

 だが、いまはもう、美優はいない。

 美優。

 哀しみや怒り、そして恐怖の記憶が蘇りそうになる。

 そこで僕の心はストップをかける。

 なにも考えたくない。

 もう生きていたくない。

 この世界から消えてしまいたい。

 生きていても辛いことばかりだ。

 そこでふと、我に返る。

 これは鬱だ。

 薬を飲めば少しは楽になるはずだ。

 そう考えながら自室のドアを開けて部屋を出た。

 階段を下りたが、夕方でかなり暗くなっているというのに、一階の明かりはついていない。

 リビングのあたりから、クラシック音楽が聞こえてきた。

 シューベルトかモーツァルトか、あるいはハイドンか。

 いつものように、母さんが音楽を聴いているのだろう。

 クラシック鑑賞は、言うなれば母さんの趣味だ。

 いや、趣味だった、というべきか。

 実際には、今の母さんは音楽など聴いていない。

 CDを連続再生して、終わることのない楽曲を耳にしながら母さんは過去を追想をしている。

 我が家が幸せだった日々の思い出に浸っているのだ。

 いまの御厨家は、まるで過去の思い出が宿る廃墟のようだ。

 住人はみな、追憶に浸る母さんや、僕みたいに生きる希望を失った亡霊ばかり。

 そんな暗鬱なことを考えながら居間のそばを通って、台所へと向かう。

 照明のスイッチを入れて、石田先生から処方された薬をしまってある食器タンスの戸棚を開けた。

 ビニール袋のなかから五×二の薬のシートを取り出す。

 ワイパックスが二錠。

 アビリットが四錠。

 水道のコックをひねり、コップに水を入れると、薬を飲み下した。

 神経科医が処方したこの薬物には精神をリラックスさせ、気分を明るくする効果がある。

 階段を昇って二階の自室に戻った。

 さて、これからどうするか。

 やるべきことはない。やりたいこともない。

 パソコンの前に座り、いつのまにか起動したスクリーンセーバーの幾何学的な模様が姿を変えていくのをしばし見つめていた。

 なぜ僕はまだ生きているのだろう?

 意味のない人生が続いている。

 僕のような人間が生きていても、それこそまったくの無駄だというのに。

 僕が呼吸をするだけで、大気中の酸素が消費される。

 地球上の森林資源は破壊され、木々から生み出される酸素量は年々、減少しているというのに僕は無意味に酸素を減らしている。

 だが、スクリーンセーバーの描く模様を十分ほど見つめているうちに、少しずつ気分が良くなってきた。

 実際には、薬物が効果を現すにはもっと時間がかかるはずである。

 つまり、これは薬を飲んだことによって調子がよくなるはずだ、という心理的な作用だろう。

 マウスを操作して、ブラウザを立ち上げた。

 ホームに設定してある大手検索サイトがディスプレイに表示される。

 画面の端の「今日のニュース」を見るともなしに眺めた。

 中東の紛争。

 進行中の円高ドル安。

 株価の下落。

 僕には関わりのないニュースばかりだ。

 だが、羅列された記事の一つを見た途端、心臓が激しく鼓動するのがわかった。

 

 埼玉で女子大生、殺害される。

 

 殺害。

 いまだにこの言葉は、僕の精神に暗い影を落としている。

 いや、我が家の人間はみな、こうしたニュースに過剰な反応をしめす。

 ひところは、たとえばテレビのニュースで人が殺された、と聞くだけで反射的にチャンネルを替えた。

 いまはだいぶましになり、ある程度の冷静さをもってこうした事件と接することが出来るようになったが、それでも平静ではいられない。

 いささか速まった呼吸を整えると、僕は記事を読んだ。

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