夜を泳ぐ
音崎 琳
夜を泳ぐ
細く射しこんできたオレンジ色の陽の光が、暗い部屋を二つに分割する。わたしはそれを、ベッドのなかから寝ぼけまなこで眺めていた。
近頃あまり眠れなくて、昨日も、空が白んでずいぶん経ってからようやくまどろんだ。眠りと覚醒の間をふらふらとさまよって、どちらの岸にも辿りつけずにいる。原因に心当たりは……まあ、ないでもない。
横たわったまま目を閉じて、このベッドが小舟だったらと想像する。モーターどころか櫂もない、波にたゆたうだけのボート。まわりは完璧なまっくらやみ。ちゃぷちゃぷと舟にぶつかってくるのも、目に見えない黒い水。
それだと舟自体も見えなくなってしまうから、船首に灯りを下げよう。ゆらゆら小さな炎が揺れるランタンを。うす橙のまるい空間が生まれて、舟の
風はないが、空気はつめたい。舟のなかにはふかふかのクッションが敷きつめてあって、わたしはやわらかい毛布をかぶってぬくぬくしている。櫂がないのだから当然、漕いだりしない。河を流れ下っていく狂女のように、ただ波に身を任せる。そうやって頭をからっぽにして、美味しくなかった昨晩の食事や、ひとりで迎える朝のことも、黒い水に解かしてしまうのだ。
どんなに親しく言葉を交わしても、東の空に朝の気配が兆す頃にはもう、わたしはひとりだ。人は誰も、わたしの名前さえ知らない。
それでも、本当に久しぶりに、しばらく関係を保っていられた人がいたのだ。けれど結局わたしは、そのつながりを自分で噛み切ってしまって、また夜にひとりで取り残されている。そんなことのせいで眠れなくなっただなんて、今さら思いたくはないけれど、久しぶりに味わう失意はあざやかに苦い。
右手の爪を目の前にかざしてみる。今度こそ上手くいくと、わたしは本気で思っていたんだろうか。生き方は、そんなに簡単に変えられないのに。
ともあれ、それ以来あんまり食事が美味しく感じられなくなってしまったのは確かだった。それでもう、食事をとること自体が少し億劫になってしまって、ここ数日、どことなく身体から力が抜けていくような感じがする。
部屋に落ちていたオレンジの線は、だんだん輝きを失っていき、とうとうすっかり消えてしまった。わたしはしぶしぶ重い身体を起こして、常夜灯を点ける。部屋全体が、ぼんやりした人工のオレンジの光に浮かび上がる。わたしの目には、これでじゅうぶん。
吸血鬼は、夜目が利くいきものだから。
「
ひとりごちながら、カーテンと窓を開ける。細い月が、まだ幽かに赤みを残した西の空に低くかかっている。
裸足で窓の桟を蹴る。宙に躍る身体はもう、人ではなく蝙蝠のそれに変じていた。ただでさえまっすぐには飛べない翼が、ちょっとの風にも煽られてバランスを崩す。このままばらばらの破片になって、夜に紛れてしまうかも、なんて。
空腹で頭がぼんやりする。眼下の街明かりが、見慣れた配列で迫ってくる。
わたしが食べてしまったきみは、もうわたしを知らないのに。わたしを忘れてしまったきみは、もう美味しくないのに。
どうしても、あの甘い味が、忘れられない。
夜を泳ぐ 音崎 琳 @otosakilin
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