最終話

 八月。みちるの誕生日の翌日に、延岡が死んだ。

 新潟空軍の残存F―2A十二機は、次の作戦に備えて徹底的な地形追随飛行NOEの訓練をしていた。

 越後山脈を訓練空域として使い、航空自衛隊のベテランパイロットでさえ震え上がるほどの超低高度飛行をした。

 この過程で、TACタックネームを採用していない新潟空軍において、初めて二つ名を与えられるパイロットが現れた。あるいはワルキューレに続く二番目と言えたかもしれないが。

 延岡だった。その名はスネイク。サイドワインダーも響き的に捨てがたかったが、すでに赤外線ミサイルの愛称に使われているため、単に蛇と呼ばれるようになった。

 整備員の有志が、デルタ29のコクピット下にキングコブラのエンブレムを描いた。

 NOEでは地表数十メートルと言う恐るべき低高度で地形に沿って飛行するが、延岡機の高度は他より明らかに一段下回り、二十メートルを切っていた。本当に、地を這う蛇のようだった。

 だが。そんなスネイクに、あっさりとした死が訪れた。

「エマージェンシー! エマージェンシー! デルタ29が墜落した!」

 コールをしたのは俺だった。俺は十二機編隊の最後尾で、延岡機が小さな峰を航過する際に地表に接触、墜落して地面に激突、爆発炎上するのを見た。

 地上十メートルそこそこで、ベイルアウトできるはずがなかった。墜落地点が山岳部のために救助が遅れ、延岡の遺体はジェット燃料の強力な火炎に晒されて、ほとんどなにも残らなかった。

「……泣いた?」

 四階デッキに座っていると、みちるがやってきた。あの時と同じか、と俺は思った。

「ああ」

 みちるは俺の隣に立った。

「……延岡は、あの峰にぶつかってなんかない」

 みちるがぽつりと言った。

「なに?」

「見えたの。あたしは延岡のすぐ後ろだったから。墜落するより先にエンジンが吹き飛んでた。……たぶん、エアインテークから木を吸い込んだんだと思う」

「あいつ……地表数メートルの、木に触れるような高度を狙って飛んでいたのか?」

 滑走路上の異物ならともかく、飛行中のジェット戦闘機が地上の物を吸い込んでエンジンを破壊されるなんて、聞いたことがない。

「たぶん」

「まったく……その延岡の力が、次の作戦にこそ必要だったのに」

 無茶しやがって。先に死ななければいけないのは、俺だって言うのに。

 なぜ技量に劣る俺が生き残って、蒔絵と延岡が死ななくちゃならないんだ?

「……あたしね」

 またみちるがぽつりと言った。

「延岡に……告白されてたの」

 その言い方は。まだ返事をしていなかったと言うことだろう。

「いつだ?」

「昨日」

 そう言えば、昨日のみちるの部屋での誕生日パーティのあと、延岡は部屋を出てくるのが遅かった。

「あたし……延岡に、返事は一日だけ待って、って言っちゃって……」

「俺たち戦闘機パイロットは、一瞬一瞬が最後だって言うことを忘れたな、みちる」

 俺は冷たく言った。みちるの目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。

 俺は立ち上がって、みちるの体を抱き締めた。みちるの方が背が高いので、若干締まらなかったが。

「だが心配するな。延岡は悔いなく逝った」

「え……」

「告白できていなかったら、無念だっただろう。だが延岡はみちるに想いを伝えた。それだけでいい」

「でも……」

「延岡が、たとえみちるに振られていたとしても。あいつはそれを悔いて、言わなければよかったと、みちるを恨んだりするような男だと思うか?」

「……違う。延岡は、そんなやつじゃない」

「俺なら、みちるにそう言ってもらえただけで十分だ」

 みちるがわんわん泣いて俺に抱きついてきた。大きな胸が当たるので、俺は少し上体を反らした。

「海彦……死なないで……お願い……」

「ああ。みちるこそ死ぬなよな。俺はもうこれ以上、仲間を見送るのはごめんだ」

「うん……」

 だが。俺は絶対にみちるよりあとに死ぬことはないと、心に決めていた。


 延岡や他の戦死したパイロットの喪が明けないうちに、新潟空軍、いや新潟全軍を通して初めての、そしておそらくは最後の積極的攻勢作戦が発令された。

 作戦名は、神々の黄昏ラグナロク。だろうと思ったよ、と俺は苦笑した。

 ついに俺には、北欧神話から引用した二つ名は与えられなかった。まったくありがたい。まあ、『あの』泉と言うことで十分だったと言うことだろう。

 残存F―2A型十一機による日本国首都東京の中枢への爆撃。延岡が死んだ地形追随飛行NOEの訓練は、このためのものだ。

「……皆さん」

 作戦説明を終えた浅川少佐が、沈痛な表情を浮かべた。

「もう言葉を飾ることはしません。皆さんの命は、私たちが預かります。そんなことをする権利が、私たちにあるとも思えませんけれど。作戦は、明朝〇九〇〇に開始されます。各人思い残すことのないように」

 どこかで聞いたようなセリフだな、と俺は思った。

 まあ、俺にはもう悔いもなにもない。深夜のアラート待機に備えるだけだ。こちらは大規模作戦が控えているとは言え、向こうには関係ない。俺は昼寝でもするか。

「浅川少佐。今夜は俺と過ごしませんか?」

 三木中尉が堂々と浅川少佐を口説いた。浅川少佐と三木中尉は、今夜はスクランブル要員に指定されていない。

 おお、とパイロットたちの間でどよめきが起こった。

「……三木中尉。私は三十歳のおばさんですよ? あなたは若い子が好きだったんじゃなかったかしら?」

「誰がそんなことを言ったんですか? それに、三十でおばさんとか言ったら、世の女性に怒られますよ」

 三木中尉が苦笑した。だが、その目が、声が、本気だった。

「……あの……二股をかけられるのは……」

 みちると同じことを言われていた。三木中尉も信用がないな。

「大丈夫です。今はちゃんときれいな身の上ですよ。信じてください」

 浅川少佐が、じっと三木中尉を見つめていた。三木中尉は、その視線をしっかりと受け止めていた。俺たちは、固唾を飲んで見守った。

「……わかりました。あなたにお付き合いしましょう、三木中尉」

 うおお、とブリーフィングルームに歓声が上がった。

「えらいこった! ワルキューレが落ちたぞ!」

「新潟全域に報道管制だ!」

「おいおい、誰が俺たちをヴァルハラに送ってくれるんだよ!?」

「三木! てめえ! このスケコマシ!」

「浅川少佐ー! 俺じゃ駄目だったんですかー!」

 大笑いが起こった。俺もみちるも笑った。

「おい、はしゃぎすぎだぞおまえら。浅川が困ってるだろうが」

 西前大尉が笑って言った。浅川少佐は、もう茹でダコみたいに真っ赤だった。男なんか慣れているだろうって感じだったのに、意外に純情なんだな。三木中尉は平然として見える。

「浅川少佐。いいんですか、三木中尉みたいなプレイボーイで」

 みちるがくすくす笑いながら言った。

「今、この時は……不問にします」

 浅川少佐は少し平静を取り戻していた。

「ひどいな、水沢」

 三木中尉が苦笑した。

「三木、おまえもなあ。とっくの昔に浅川に惚れ抜いてたくせに、よその女にばっかり手を出しやがって。半分しか本気じゃない男に付き合わされて、女の方はいい迷惑だ。とっとと浅川に言ってれば、少しの間でも一緒に暮らせたかもしれんのに」

 西前大尉が重々しく言った。

「いや、その……なにしろ、畏れ多くて……」

 三木中尉が小さくなっていた。

「蒔絵は。それをよく知っていましたよ」

 俺も口を挟んだ。

「そう言うことだ。……俺も、午後からでも休めないか聞いてくるかな。無理かもなあ……」

 西前大尉が言った。西前大尉も、俺たちと同じく夜番だ。

「……えっ!? 西前さん、恋人いらっしゃったんですか!?」

 浅川少佐が素っ頓狂な声を上げた。

「いるぞ。悪いか?」

 西前大尉がわざとらしい怒った顔をしていた。西前大尉は角張った強面だが、不思議と愛嬌がある。ただし、四月にみちるに不埒な行いをした少年パイロット候補生を説諭した時は、まさに鬼の形相だった。

「門脇軍曹ですよね」

 俺が言った。

「ああ。泉、知ってたのか?」

「それは、門脇軍曹はデルタ31の機付整備員ですからね。日中の整備は、他の人に変わってもらいましょう」

「泉は、いいのか?」

「もちろん、機付の門脇軍曹を一番信頼してますけど。でも、機数が減って整備員の手は空いているはずですし。他のクルーも、超一流だと信じています」

「ありがとう、泉。ただ、本人がデルタ31……いや、11か。機付整備を手放すかだなあ……」

 西前大尉が腕を組んで天井を睨んでいた。

 俺たちのコールサインは、今作戦において再編された。F―2A型残存十一機、デルタ1からデルタ11まで。通常はこんなことはしない。つまり、本当に最後の作戦だと言うことだ。

「俺がいいと言っていた……と言うのも門脇軍曹を信頼してないみたいですよね。明日早朝、みっちり最終点検をしてください、と伝えてください」

「わかった。じゃあ、俺は早速行ってみるぞ」

 西前大尉はあっさりブリーフィングルームを出ていった。

「……おう。まさか西前大尉にまで彼女がいたとは……」

「三木もずるい」

「三木じゃないけど、おまえは年下ばっか狙い過ぎなんだよ。下心見え見え」

「うっせえなあ……ま、ここは出ようぜ? アラート待機中でも、新規誕生カップルは二人っきりにしてやらないとな」

「カフェ行くか」

「おう」

 どやどやとパイロットたちがブリーフィングルームを出ていった。

 浅川少佐と三木中尉の二人が残された。

「それじゃ、失礼します」

 俺とみちるが最後に、頭を下げて言った。

 浅川少佐がまた赤くなって、三木中尉がにっこり笑って手を上げた。

「泉少尉。水沢少尉」

 ブリーフィングルームから少し離れたところで、五人のパイロットに呼び止められた。新潟空軍学校二期最後のパイロット候補生だった五人は、全員が単独飛行を許される正規パイロットになっていた。ただし、俺とみちるはコクピットシートを譲らなかった。

「すまん。この作戦で、二人と代わってもらえるよう上申したんだが、却下された」

「いや、それは……俺たち、これでもエースパイロットですよ?」

 俺はおどけて言った。今年に入ってからの激戦で、みちるは六機、俺は五機を墜としている。

「わかっている、わかっているんだが……」

 最年長三十一歳のパイロットが歯噛みした。

「せめて俺たちをB型に乗せてくれ、と頼んだんだがそれも駄目だった。ミサイルはともかく、爆弾はあるんだから飛ばせてくれてもいいのに……」

 二十台半ばのパイロットが悔しそうに言った。

「B型で実戦に出るのは無理ですよ。俺たちは、あれを練習機としてしか使ってませんでしたから。複座を乗りこなせるのは浅川少佐と三木中尉のコンビだけです。あの二人を同じ機に乗せるのは、戦力ダウンになりますし」

「ああ、まったく同じことを言われたよ……」

 パイロットたちががっくりと肩を落とした。

「なあ。田中少尉と延岡少尉は亡くなってしまった。一番仲のよかった二人が一番つらいだろうと思う。だが、俺たちも苦しいんだ。どうか、もう死なないでくれ。子供の葬式はたくさんだ。危なくなったら、すぐにベイルアウトするんだぞ。いくらなんでも、田中少尉の時のような惨劇は、そうそう起こらないはずだ」

 この人たちが、心の底から俺たちのことを心配してくれていることがよくわかった。

「はい。俺も、死のうと思って戦闘機に乗っていません。どこまでも、生き残る道を探します。この作戦は、必ず成功させて帰ってきます。皆さんのお心遣いは、決して忘れません」

「ありがとうございます」

 俺とみちるは、頭を下げた。

「デルタ10にデルタ11か……」

 廊下を歩きながら、みちるが言った。

「ん? ああ、なんだか変な感じだな」

「……二十人も、死んじゃったんだね……」

 みちるが悲しそうに言った。

「ああ……そして、俺たちは百機以上の空自機を撃墜した。……まさに、戦争だな」

 新潟空軍が撃墜した航空自衛隊機は、なんと空自が保有する戦闘機総数の三分の一近くにものぼる。新潟空軍と合わせて六個飛行隊以上。いったい何人の遺族が涙を流しただろう。

「ねえ、これからどうする?」

 みちるが聞いてきた。

「天気はいいし、デッキで昼寝でもしてるかな」

「いや、暑すぎでしょ」

「ああ……確かに」

 まだまだ日差しは強かった。

「部屋で寝る?」

「いや、やめておく。まあ、カフェで休むか」

 延岡が死んで一人部屋になってから、俺はあまり眠れなくなっていた。

 空港一階カフェでアイスコーヒーを飲んだ。

「浅川少佐が三木中尉とくっついちゃうなんてねえ……」

 みちるが難しそうな顔をして言った。

「まあ、ないことはないかな、とは思っていたが、まさか全パイロットの前で告白するとは」

 俺は笑った。

「あたしさ。浅川少佐って、西前大尉のことが好きなんじゃないかなって、秘かに思ってたんだけどなー」

「あー……それ、にぶい俺でも思ってたかもしれない」

「でしょ!? でも、門脇軍曹も素敵な人だよね」

「ああ。西前大尉、口説くのにだいぶ苦労してたな」

「苦労? なんでそんなこと知ってるの?」

「門脇軍曹に言われてたんだよ。西前大尉があたしをからかうんだって。西前大尉は本気で好きになって口説いてたんだが、西前大尉があたしを好きだなんてありえない、って感じで。いや、元々嫌ってたとかそう言うことはなかったんだけどな」

「それって……表舞台のパイロットが、裏方の整備員を好きになるわけがない、みたいな?」

「ああ、そうそう。まさにそんな感じだった。想いが通じ合った時は、門脇軍曹の方も本当に幸せそうで……見ているこっちも嬉しくなったな」

「そんな、立場なんて関係ないのにね」

「ああ。まあ、だから、よかったよ」

 俺は笑った。

 みちるがアイスコーヒーにミルクを入れて、ストローでかき混ぜた。

「でも……海彦って、自分がニブチンだって気づいてたんだ」

「え? ああ……まあ、蒔絵の時も、下屋の時も、まるで気づかなかったからな」

「じゃあ……あたしが海彦のこと好きだって言うのは?」

 みちるが、まっすぐ俺の目を見つめて言った。

「全然気づかなかった」

 俺もみちるの目を見つめ返した。本気か、とは言わなかった。それくらいはわかる。

「海彦、一瞬一瞬を最後だと思って大切にしろ、って言ったよね」

「ああ。元々は、蒔絵に言われたことだ」

「だから、言うことにしたの。延岡もそうしたみたいに。でも、あたしは……返事が聞きたい」

 三分間考えようかと思ったが、やめた。ただし、理由は下屋の時とは違う。

「悪い。俺は蒔絵を忘れられない」

「そっか……」

 みちるはため息をついた。

「蒔ちゃんも幸せだよね。死んだあとも、ずっとずっと想い続けてもらえるなんて」

「俺は、全身全霊を込めて蒔絵を愛して、愛された。俺にはもう、それだけだ」

「……ほんと……蒔ちゃんがうらやましい……」

 みちるがつぶやいた。

「ねえ、どうする? やっぱり寝る?」

 みちるが明るく言った。

「いや。どうせ最近寝付けないしな……ここで休んでいるくらいなら、徹夜でアラート待機していても、明日の作戦に支障は出ない」

「じゃあ、あたしと一晩中お喋りしてよう?」

「ああ。いいぞ」

 俺とみちるは、夜っぴて話し続けた。時々、他のパイロットもきて話したりした。

 生まれてから今日この日まで。自分のことを話していても、けっこう色んなことがあったものだな、と思った。


 翌〇九〇〇。俺たちは飛び立つ。

 滑走路端には、空港中の人間が集まっていた。

 五人のパイロット。パイロット候補生。整備員。その他クルー。新潟空軍基地司令官もいた。陸軍の空港守備隊も。

 みんな、手を振っていた。帽子があれば、それを振っていた。

 俺たちは、うなずき、拳を上げて親指を立てた。

 テイクオフ。俺たちは最後の空へと飛び立った。

 離陸直後から地形追随飛行NOE。今では、どこを早期警戒機が飛んでいるかわからない。

 越後山脈を越え、関東圏へ。そして首都東京へ。俺たちは、日本の首都東京上空に侵入した。


 まだか? まだなのか、デルタ10? 東京都庁はもう目の前だ。トリガーを引けば、あとはコンピュータが自動的に投下タイミングを計算してMk82・五百ポンド爆弾を東京都庁に叩き込む。まだか、みちる。

作戦中止ミッション・アボート! 作戦中止ミッション・アボート! 全機反転!』

 俺は危うくトリガーを引きかけた。デルタ10の声じゃない。デルタ1? 浅川少佐か? いったい、なにがあった?

 だが俺は命令どおり操縦桿を引いて宙返り、機首を反転させた。

『司令部から連絡があった。日本政府は、新潟に対して停戦を申し入れてきた。新潟県副知事がこれを受諾した。和平交渉が始まるだろう。戦争が終わる。私たちの仕事は、終わるんだ』

 うおお、と言う歓声が無線から聞こえてきた。

 停戦? 戦争が終わる? なんだ、どう言うことだ?

『やったよ、海彦! 戦争、終わるんだって!』

 反転したあと、ぴったり俺の真横につけていたデルタ10の声が聞こえた。

「この戦争が……終わる、のか……」

 俺は呆然とつぶやいた。みちるの言葉で、ようやく実感が湧いてきた。

 だが。俺は、死に損なったと言う思いが強かった。

 蒔絵……延岡……俺は……。

『なんとまあ、生きてまたあいつの顔を見れるとはな……』

 デルタ2、西前大尉がつぶやいていた。

『デルタ5よりデルタ1』

 三木中尉が言ったが、そのあとしばらく黙っていた。

『なんだ、デルタ5』

 焦れた浅川少佐が聞き返した。

夕湖ゆうこさん。結婚してください』

 さっきのに匹敵するほどの歓声があがった。

『またか、三木! てめえ、公開告白の次は公開プロポーズってか!? たいがいにしろ!』

『うへ、ここまでくると胸焼けがしてきたぜ』

『もちろん式には俺たち全員呼んでもらえるんだろうな?』

『裸踊りやってやろうぜ。裸踊り』

『おお、鍛えに鍛えた体の見せ所だ』

 死を目前にした恐怖から解き放たれたからだろう。みんな陽気だった。

『海彦?』

「え……ああ」

 俺一人、そのテンションについていけなかった。

『おい、みんな待て待て。まだ浅川少佐が返事をしてないぞ』

『あ、そうだな』

『おっ、大逆転の三木涙があるかも!?』

『あ……』

 浅川少佐のか細い声が聞こえた。

『私は……』

 その時。西前大尉の大きく緊迫した声が無線に響き渡った。

『デルタ2よりデルタ1。後方空自機概数四十。妙だ。反転せず進路変更。我々の背後に食らいつく形だ』

 俺もレーダーで確認した。この動きは。

『……おかしい。私たちを新潟までエスコートするつもりにしては多すぎる。和平交渉が始まるなら、大多数は帰投するはずだ』

 俺は浅川少佐の言葉を聞いた瞬間、すべての爆弾と増槽を切り離した。まだ完全に首都東京上空にいるが、下にいる日本人などかまっていられない。爆弾の信管は停止させたが。

 慣性によって機体が浮き上がり、俺はその勢いに乗って上昇、宙返りして反転する。

『デルタ11、編隊を離れるな。戻れ。なんのつもりだ』

「デルタ1。新潟ははめられたんですよ。停戦なんて嘘っぱちだ。日本政府は、首都東京爆撃を回避した上に、この機に乗じて新潟空軍を殲滅するつもりです。原発も危ない」

 浅川少佐から返事はなかった。俺と同じことを考えているだろう。

「俺が後方の敵を引きつけます。その間に離脱してください」

『貴様、勝手な真似を……! もし停戦が本物だったらどうするつもりだ!?』

「独断専行は親父譲りなんですよ。俺は泉です」

 俺は笑った。俺はこの時ほど、狂人親父を尊敬したことはない。

「それに新潟に戻るまでの空域がクリアとも限らない。F―2はまだ新潟に必要です。俺たちは首都東京の防空網をかいくぐって敵中枢に肉薄した。あと一歩のところまで。一度できたことが、二度できないと言うことはないでしょう。兵力を温存してください」

『だが、なぜ貴様が……』

「それは俺がデルタ11で、泉だからです。最後のけつ持ちで、なんとなくさっぱりしない幕引きで退場する男。それが俺です」

『デルタ10も反転します』

 みちるが緊張で引きつるような声で言った。

「駄目だ、デルタ10。アクティブデコイは俺一機で十分だ」

『でも、デルタ11はあたしのウィングマン……!』

「みちるにまで死なれたら、俺は蒔絵と延岡に合わせる顔がない」

『海彦……』

 頼むから、泣くような声を出さないでくれ。似合わないにもほどがある。いや……みちるの涙は、いつも、とても、きれいだった。

「……ああそうだ。みちる。そのすごいおっぱいは俺のだからな。本当に戦争が終わる時まで、誰にも触らせるなよ?」

『海彦――!』

 俺は無線を切った。

 ついに言ってやった。最後の最後に言ってやった。

 ごめん、蒔絵。俺はとんだ浮気者だ。

 延岡。悪いな。だが、みちると付き合えないのは俺も同じだ。

 本当に。これで、何一つ思い残すことはなくなった。

 F―2のレーダーはすべての空自機を捉えている。概数四十機。すごいな。レーダーの光点ブリップがまるで花火だ。

 俺はどこまでやれる? いや、やるんだ。やり抜くんだ。弾が尽きるまで。燃料が尽きるまで。最低でも死ぬまでに五機は墜とす。新潟空軍のキルレシオを落とすわけにはいかない。

 なんとまあ、情けない退場どころかとんだ檜舞台だ。俺にはもったいないくらいだな。

 九九式空対空誘導弾AAM―4ならとっくに射程距離だが、撃ってこない。やはり、空自機には人口密集地上空での敵機撃墜許可は下りていない。

 上が阿呆だと下は苦労するな。自らが汚れることなく勝利を勝ち取れると、まだ思っているのか。

 だから。日本政府は、殺してさえ親父に勝てなかったんだ。

 高度を上げて、空自機編隊と同高度に達する。

 レーダーを睨みつける。空自機編隊の速度が速い。空対空フル装備のイーグルの最高速度を超えている。つまり、こいつらは。

 まあいい。速度からしてライトニングⅡは混じっていないが、たとえF―2のレーダーにさえ映らないステルス戦闘機がいたところで、俺のやることは変わらない。肉眼で捕捉した敵に二十ミリ砲弾を叩き込むだけだ。

 ヘッドオン。空自機編隊先頭機に向けて突っ込む。

 チキンレースだ。コンティニュアスロールはしないが、ブルーインパルスなんか目じゃないほどの至近距離でのすれ違いだぞ。わざを見せてみろ。

 空自機編隊は一糸乱れぬままに接近してくる。さすがだ。練度なら、世界随一と言われる日本の自衛隊だ。

 だが。俺のコンバットフライトはまだ一年にも満たないが。人を殺した数なら、おそらくそっちの誰よりも上だ。俺は慣れてしまった。トリガーを引く指は、一瞬たりとも躊躇しない。

 空自機編隊先頭機を視認。やはり、F―2か。二年半、首都防衛のために温存していたと言うわけか。

 ――デルタ11、エンゲージ。

 俺は誰もいない味方に向けて、胸の内でコールした。俺の最後の戦いが始まった。

 空自F―2の機首がわずかに上がった。馬鹿め。逃げるなら下だ。だが戦闘機パイロットは本能的にマイナスGマニューバを嫌う。レッドアウトを防ぐ手段はないからだ。

 俺の指はとっくにトリガーにかかり、狙いを定めている。

 蒔絵も。延岡も。レッドアウトも超低高度も、まったく恐れはしなかったぞ。

 上昇機動は速度が落ちる。俺は無慈悲にトリガーを一瞬だけ引いた。

 ――デルタ11、FOX3。

 直後に被弾機とすれ違う。距離は二十メートルもなかっただろう。手応えがあった。おそらくコクピットを直撃しただろう。

 もう一機、俺の目の前に腹を晒しているF―2がいる。その土手っ腹に向けて撃つ。ターボファンエンジンから出火。直後に爆散した。俺は破片を回避。

 空自機編隊とすれ違い、もう一度反転。今度はスプリットSで速度を殺さずに空自機の後背に食らいつく。

 空自機編隊は千々に乱れ……とはもちろんいかない。半数はアフターバーナーを切って俺を迎撃するようなマニューバを見せるが、残りは編隊も崩さずにまっすぐ新潟空軍F―2編隊を追っている。

 追わせるわけにはいかない。俺の背後を取ろうとする空自機が複数いるが、無視する。向こうが撃てないのはもうわかった。つまり、俺からすれば鴨撃ちだ。前人未到の撃墜記録を打ち立ててやる。誰も確認はしてくれないだろうが。

 アフターバーナー全開。同じF―2でも、最高速度は空荷のこちらが上だ。追いつく。アフターバーナーを絞る。使いすぎれば即燃料切れだ。それは相手の方が厳しい。新潟空軍F―2編隊に追いつくために、全開にし続けている。

 空自機編隊を半ばほどまで追い抜き、先頭機の後ろにつける。教科書に載せてもらえるくらいの位置に占位する。撃つ。三機目が墜ちた。

 空自機編隊全機から、先頭機が撃墜されたのが見えたはずだ。ベイルアウトは確認できなかった。さあ、どうする?

 俺同様、空自機にお手本どおりの後方を占位される。今AAM―4を発射されたら、俺はほぼ一〇〇%確実に粉々に砕かれて死ぬ。俺にはデコイさえない。だが、やはり撃たない。

 本当に大したものだ。三機も撃墜されて、おそらく三人の仲間を殺されても、なお撃たない。自衛隊は、国民の安全と生命を守るためなら、たとえ自らの命を落としても忠実に命令に従う。

 俺には真似できない。しようとも思わない。俺が戦うのは新潟のためでも、名前も知らない新潟県民のためでもない。俺にはもう家族もいない。だからこれは仲間のために。

 そして、仲間であり戦友であり愛する女であるみちるのために。

 みちるたちを追尾していた空自機編隊が回避機動。アフターバーナーカット。俺も切る。

 さすがにこれ以上の損害、死者を出すわけにはいかないだろう。目の前で味方がやられたように、自分も墜とされたくはないだろう。だが、俺を撃てるか? 撃墜許可は下りるのか?

 この時点で、俺は初期の目的を達した。みちるたちは逃げ切れる。

 この空戦がどうなろうが、この戦争がどうなろうが、もう俺の知ったことじゃない。新潟が負けたってかまわない。

 だけど。どうか、みちるだけはいつまでも強く生きていけますように。

 蒔絵。延岡。みちる。俺たちは今、同じ空を飛んでいるぞ。

 死と生の充満する、このだだっ広い大空に。

 戦場の空に。

 俺たちの、空に。



                                 END

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