第6話

 十二月に、新潟県上空に侵入した航空自衛隊イーグル十八機との間で戦闘が起こった。

 新潟空軍は俺たち四人を含むF―2二十五機の全力出撃で迎撃したが、数で劣る空自機は果敢に空戦を挑んできた。

 戦闘機四十三機による乱戦。そのさなか、デルタ29、延岡の絶叫が無線に響き渡った。

『デルタ28が食われた! 畜生!』

 俺は背骨が氷柱に変わった。蒔絵。

『デルタ28、ベイルアウト!』

 再度延岡の声が聞こえて、俺はほんの少しだけ背中の氷が溶けた。

『陸軍に連絡! パイロットの救出を要請!』

 浅川大尉が管制に連絡した。大丈夫だ。

 パラシュート降下した蒔絵は陸軍に回収された。

 だが。地上に降りた蒔絵の体には、下半身がなかった。

 俺は新潟空港の遺体安置室で、変わり果てた姿の蒔絵と対面した。他二機の味方が撃墜されたが、まだ遺体は収容されていない。

 俺は蒔絵の遺体に近づくのを許された。

 蒔絵の体にかけられた白布のふくらみは、普通の人間の半分しかない。蒔絵の下半身はまだ見つかっていない。

 みちるの泣き叫ぶ声が遠くに聞こえた。

 蒔絵の下半身が失われたのは、イーグルの二十ミリバルカン砲を受けたものと推測されている。二十ミリの砲弾は人体には完全なオーバーキルだ。たった一発の砲弾で、蒔絵の細い腰など吹き飛ばされただろう。

 普通、戦闘機パイロットはベイルアウトした敵パイロットを撃つようなことはしない。俺たちは軍隊と認められていないとは言え、各種協定に抵触するだけでなく、日本人の自衛官がやることとは思えない。

 だが、新潟空軍によほどの恨みがあるパイロットだったんだろう。身近な人間を、新潟空軍に殺されたのかもしれない。

 俺は蒔絵の顔の脇に立って見下ろした。

 美しかった。俺の愛した蒔絵は、死んでなお美しかった。

 俺は腰を屈めて蒔絵にキスした。冷たく、硬い唇だった。俺は唇を離した。

「……さよなら、蒔絵。俺もいつかそっちに行くよ。愛している。永遠に」

 俺は体を起こして蒔絵に敬礼した。俺の人生で最高の敬礼だったはずだ。腕を下ろすと、一人で遺体安置室を出た。

 四階デッキには人っ子一人いなかった。ちょうどいい。誰かがいたら、また別の場所を探す必要がある。

 どれくらい一人で座り込んでいたのかわからない。誰かが階段を上がってきた。俺もそうだったが、なぜかエレベーターを使う気にならなかったらしい。

「……海彦」

 みちるだった。俺の真後ろに立っている。泣き顔を見られたくないんだろう。

「……泣いてないの?」

「俺は親父が死んだ時もお袋が死んだ時も、人前では泣かなかった」

「……人前じゃなかったら?」

「三分間だけ泣く」

「……たったそれだけ?」

「俺は泉だ。好きなだけ泣く自由なんかない」

 みちるが膝を落として俺の背中に抱きついてきた。

「じゃあ、もう泣いたの?」

「ああ」

「もう二度と、蒔ちゃんのために泣いてあげないの?」

「そうだ。涙ぐむくらいのことはあるかもしれないが」

「……じゃあ、あたしが代わりに泣いてあげたら?」

「頼む。お願いだ。どうか、俺の代わりに蒔絵に涙を捧げてくれ」

 みちるは大泣きに泣いた。嬉しかった。蒔絵の死は、涙を流してもらえるだけの価値がある。俺には、そんな価値なんかないって言うのに。 

「……ねえ、海彦」

 ようやく泣き止んだみちるが言った。

「ああ」

「蒔ちゃんと暮らした三ヶ月、どうだった?」

「幸せだった。俺にあんな幸せが許されるとは信じられないくらいに」

 たぶん俺と蒔絵の同棲はおままごとのようなものだっただろう。それでも、俺は本当に幸せだった。蒔絵も同じだったと確信している。

 俺たちは、命がけで愛し合った。一瞬先には死ぬかもしれない戦闘機パイロット同士。いついかなる時に死が二人を分かつとも、悔いのないように愛し合った。

「そう……よかった」

 みちるが俺の背中から離れて立ち上がった。

「あたしも、泣くのはこれで終わりにする。これからは蒔ちゃんの代わりに、頑張る」

「ああ。そうだな」

「じゃあ、海彦。またあとで」

「ああ」

 みちるは四階デッキから下りていった。

 みちると入れ替わるように、延岡がきた。実際、みちるが出ていくまで待っていたのかもしれない。

 延岡は俺の隣に腰を下ろした。

「……泣いてねえんだな」

「みちるにも同じことを言われたよ」

「そうか……」

 延岡は黙り込んだ。

「蒔絵の最後は、どんなだったんだ? 延岡からは見えたんだろう?」

 俺から聞いた。

「インメルマンの連続で、どんどん高度を上げていった。俺は、ついていけなかった。……すまない」

「あいつ……ウィングマンを振り切るなんて、どう言うつもりだ」

 俺は苦々しく言った。援護もなく単機で行動することがどれほど危険か、わかっていたはずなのに。

「敵機のどれかに対応した動きだったんだろうけど、混戦でそれがどの機なのか俺にはわからなかった。それで……いきなりデルタ28の機尾でミサイルが爆発した。どこから飛んできたのかわからなかった」

「データリンクによる長距離ミサイル狙撃だろう。ホークアイE―2Cかなにか、早期警戒機が飛んでいたな」

「浅川大尉たちもそうだろうと言っていた。どうしてわかった?」

「蒔絵が空自機とのドッグファイトで負けるはずがない。あいつは空戦の天才だった」

 俺はただ、事実を言った。蒔絵はこれまでに三機の空自機を撃墜している。五機撃墜エースは確実だとさえ言われていた。

「そうか……なるほどな。だけど、ホークアイは開戦当初に一機撃墜されて、それからは使用されてなかっただろ?」

 ホークアイの乗員は五名。撃墜された機の乗員は全員死亡したと考えられている。そして早期警戒機の数は少ない。それで、空自と言うより日本政府が及び腰になって、以後飛行は確認されていなかった。

「だが、そうとしか考えられない」

「しかし、ホークアイが上がったなんて報告はなかったんだぜ? 全国すべての自衛隊基地駐屯地を、工作員が監視してるんだぞ」

「見逃した可能性がある。訓練と区別もつかないしな。工作員が捕らえられたのかもしれない。日本政府は、アメリカからの圧力で戦果を上げたいんだろう。だから、危険を承知で早期警戒機を再び飛ばしてきた。蒔絵は高度を上げすぎた。油断したな。蒔絵のミスだ」

「……ずいぶん、冷静に分析するもんだな」

 延岡が気の抜けた声を出した。腹を立てているらしい。

「俺はもう、蒔絵のための涙は流し尽くした。あとは、弔い合戦だ」

「弔い合戦……」

「何機墜としたら、許してくれるかわからないけどな」

「……その数に、俺の撃墜数スコアも入れてくれ」

 延岡の声はいつもどおりに戻っていた。

「ありがとう。ああ、そうだ……今夜は延岡の部屋に泊めさせてもらえないか」

「……どうした?」

「蒔絵のいないあの部屋じゃ、眠れない」

「……おう。布団持ってこい。じゃあ、またあとでな」

 最後の言葉もみちると同じだった。

 また一人っきりになった。

 俺は、みちると延岡に嘘をついた。俺は、もう一度蒔絵を想って涙を流した。三分間だけ。


 年が明けると、航空自衛隊の攻勢が本格化してきた。いや、陸上自衛隊もだ。

 九機編隊程度の空自機が昼夜問わず飛来して、新潟空軍のパイロットはすぐに消耗して全力出撃を維持できなくなった。二十四機を六機四編隊にわけて、ローテーションを組むことになった。数の優位を失うことになるが、やむをえなかった。

 真夜中にアラートが鳴り、部屋で飛び起きる。俺のローテーションじゃない、と気づいても、そのまま二度寝する気にはなれなかった。結局、耐Gスーツに着替えてブリーフィングルームに行き、戦況を聞いていた。

「おまえたち寝ろよ?」

 三木中尉に言われた。

「三木中尉も同じじゃないですか」

「まあな」

 三木中尉が苦笑した。

「あの、皆さん、コーヒーはいかがですか?」

 ブリーフィングルームに眼鏡をかけた女の子が入ってきて言った。

 実は、新潟空軍学校に隠されていた三輪目の花だった。

 下屋したや典子のりこ。俺たちと同い年で徴兵された少女だった。管制官候補生。ほぼ管制室か三階ラウンジにいて、あまりパイロットには知られていなかった。

 女子同士、蒔絵たちと仲よくなっていてもおかしくなかったが、タイミングがなかったらしい。朝晩とトレーニングを続けていることもあるだろう。

「はい、どうぞ」

「ありがと、のんちゃん」

 みちるが言った。最近では、みちると下屋は急速に仲よくなっている。

「どうぞ」

「ありがとう」

 俺はコーヒーの入った紙コップを受け取った。

「下屋は管制室にいなくていいのか?」

 延岡がコーヒーを受け取りながら聞いた。

「あたしは、まだ全然見習いで……さっき管制官の皆さんにも配って、パイロットたちのところにも行ってこいと言われたんです」

 下屋ははにかみながら言った。下屋は俺たち同い年にも敬語を使う。

 えらく声のきれいな子だった。いや、きれいと言うか、聞き取りやすい。そのあたりが、管制官候補生として選ばれた理由だろう。

「み、三木中尉、どうぞ……」

「ん? ああ、ありがとう」

 三木中尉が笑顔でコーヒーを受け取った。

「じゃ、じゃあ、皆さんお疲れさまです。失礼します……」

 下屋がブリーフィングルームを出ていった。

「……怪しい」

 みちるが言い出した。

「なにが?」

「のんちゃん。三木中尉のこと、好きなんじゃないかな」

 みちるがじーっと三木中尉を見つめていた。

「……は? 俺?」

 三木中尉が眼をぱちくりさせた。

「そうですよ」

「おい、いくらなんでも十六歳は俺の女認識対象外だぞ」

 三木中尉が苦笑した。

「あら、そうだったの?」

 浅川大尉が澄ました声で言った。この人も、アラートのたびに出撃するかブリーフィングルームにいるかだ。肌に悪かったりしないんだろうか。

「ちょ、ちょっと浅川大尉、人聞きの悪いことを言わないでくださいよ」

「あらそう? でも、この前見かけた女性空軍兵士WAFは……」

「あ、浅川大尉!?」

 三木中尉があわてていた。三木中尉はかなりのハンサムだ。ずいぶんもてているだろう。俺の代わりに、浅川大尉とペアで英雄に推した方がいいくらいだ。

 西前大尉がいたら、またなにか突っ込んでいたところだろうが、今は要撃に上がっている。

『警報解除。全機帰投』

 放送が流れた。戦闘にはならなかったようだ。ほっとした空気が、ブリーフィングルームに流れた。

「ん……じゃあ寝るか」

「ああ」

 俺は結局、同じ一階の延岡の部屋に居ついている。まだ、一人で寝るのが怖かった。

「お……」

「あっ」

 ブリーフィングルームから出たところで、下屋と軽くぶつかった。管制室に戻ったんじゃなかったのか?

「悪い。大丈夫か?」

「あ、はい……」

 下屋が少し赤くなっていた。三木中尉と二人きりで話すタイミングでもうかがっていたのかな?

「下屋か……完全に見逃してたな」

 部屋に戻りながら、延岡が言った。

「そうだな。俺は年が明けるまで全然知らなかった。好みなのか?」

「いや、別にそう言うのでもねえけどな」

「延岡は、見かけによらずストイックだよな」

「どう言う意味だよ?」

「そう言う意味さ」

 俺は笑った。


 航空自衛隊の波状攻撃は厳しさを増してきた。ただし、一月中は戦闘は一度も起こらなかった。新潟空軍の対応を確認して、こちらのパイロットを疲弊させるのが目的だろう。

 俺は、日中アラート待機でない時は、雪が降っていなければ四階デッキにいることが多くなった。

 なにをするでもなく、空港の様子と日本海の荒波を眺めている。ローテーションでなくても一階にいるべきだっただろうが、誰にも咎められなかった。

 俺は、蒔絵のことを思い出す。もう泣いたりはしない。蒔絵の思い出は、悲しいものじゃない。幸せなものしかなかった。

 本当に。蒔絵は、俺に分不相応の幸せを与えてくれた。

 誰かがエレベーターに乗って四階デッキにきた。俺は一階カフェに戻るかと思って立ち上がった。

 下屋だった。この子は最近ちょくちょく色んなところで見かけるが、管制官候補生としての訓練は大丈夫なんだろうか。まあ、管制官が許可しているならかまわないが。

「あの、泉さん!」

 下屋とすれ違おうとしたところで、呼ばれた。

「ああ。『さん』はいらない」

 俺は足を止めた。

「あの……泉……」

 下屋が赤くなっていた。なんだいったい。

 下屋が全然話をしようとしないので、カフェに行こうかと思った。

「い、泉! 好きです、付き合ってください!」

 俺はのけ反った。

「はあ? 下屋は三木中尉が好きなんじゃないのか?」

「ち、違います!」

 下屋が真っ赤になっていた。どうも、悪い冗談じゃないようだった。

 だが、三分間も考える必要はなかった。

「俺はもう、女の子と付き合うつもりはないんだ。悪い」

 それだけ言って、俺は階段を使って一階カフェに下りた。

 下屋はブリーフィングルームにこなくなった。


 航空自衛隊の波状攻撃になんとか対応できるようになってきた二月。吹雪の中、新潟県上空に侵入したイーグル九機編隊のうち、一機を新潟空軍が撃墜した。

 空自パイロットはベイルアウト。パラシュート降下したあと陸軍に捕らえられて捕虜となり、新潟空港に送られてきた。空軍が捕虜を尋問する。

「捕虜の話、聞いてきた」

 一階カフェで待っていた俺と延岡のところに、みちるが戻ってきた。

 蒔絵にしかできないだろうと思っていたが、今はみちるがかなり色々なところまで入り込んで話を聞いてきたりしている。みちるも蒔絵とはまた違うタイプの美少女ではある。

「よくもまあ、捕虜尋問にまで潜り込めるな」

 延岡が感心したような呆れたような声で言った。

「直接顔を見るのまでは無理だけど。廊下にいっぱい人がいて、中で話してることを繰り返してたから」

「大したもんだ」

 俺たちの脇に立っていた三木中尉が笑った。

「それで、なにかわかったか?」

 俺はみちるに聞いた。

「それが……」

 みちるは少し困ったように言った。

「なんか、米軍はモアブ、とかって言うのを使うつもりだって」

「MOABか」

 三木中尉の顔色が変わった。

「なんです?」

 延岡も知らないようだ。俺が答えた。

「9トンもあるアメリカ最大の通常爆弾だ。キロトン単位の戦術核には及ばないにしても、キノコ雲が発生するほどの爆発力がある」

「ベトナム戦争で開発されたデイジーカッターの発展系だが、こいつにはGPS誘導が付いている。高高度からの精密爆撃が可能だな。もっとも、でかすぎて普通の爆撃機には積めない。C―130あたりに積んで落とすしかないが」

「原発に使うとどうなりますか?」

 みちるが聞いた。

「地下構造物ごと根こそぎ吹き飛ぶだろうな」

「でも、やっぱりメルトダウンが……」

「おそらく核燃料も粉々になる。最小臨界量を下回って、核分裂反応が持続しなくなるだろう。放射能は漏れるにしても、メルトダウンは起こらない可能性がある」

「そう、可能性だ。メルトダウンが起こる可能性もある。さて……アメリカさんは本気かな? しかし、空自のやつもぺらぺら喋るな」

「なんか、元々潜在的義勇兵みたいなところのあるパイロットみたいですね」

「妻子持ちかな。しかし、日本政府の連中は、まだそう言う人間を見分けることもできないのか」

「お国が号令をかければ、みんな喜んで死ぬと思ってるんでしょう」

「自衛隊ってのはそう言うもんだけどな。俺にもその覚悟はあったし。しかし、士気ってものがどれだけ戦局に影響を与えるのか、まだわからないとは驚きだ」

 寡兵の新潟軍が二年以上も戦線を維持できている最も大きな理由は、自衛隊との士気の差だ。

 最初の関越トンネル戦で、圧倒的優位な戦力を投入した自衛隊が惨敗したのは、渓谷地帯で地上戦力が横に展開できなかったのと、対戦車ヘリコプターAH―1SをF―2があらかた撃破したからでもあるが、攻守における粘りに雲泥の差があったことが最大の原因だ。

 新潟軍にはたとえ死んでもここを通すかと言う気迫があった。それに比べて、自衛隊は及び腰だった。同じ日本人、同じ自衛隊に武器を向けるのにためらいがあった。当然のことだが、日本政府と自衛隊幕僚はそこのところをまったく考えていなかった。

「ま、向こうじゃJアラート並にたまーにお茶の間を騒がせるニュース程度らしいしな。戦死者も公表しない。国民を騙しているうちに、自分たちまでその嘘を信じ込んじまったのかもな」

「それじゃあ、空自のパイロットだって嫌気が差しますよね」

 みちるが怒ったように言った。

「まったくだ。……ん?」

 三木中尉はカフェのドアの方を見た。俺もそっちを見ると、美人の女性陸軍兵士WACがいた。

「じゃ、俺は行くぜ。まああれこれ考えても仕方ない。俺たちは防空任務をきっちり果たそう」

「はい」

 三木中尉はWACと連れ立ってカフェを出ていった。

「……なあ。あの女の人、こないだと違わないか?」

「……違う。前は空軍のクルーだった」

 みちるがむすっとして言った。

「昔、パイロットはもてるとか聞いたことがあるが、三木中尉はその典型だな」

 俺は笑った。

「じゃあなんで俺はもてねえんだ?」

「顔の差か?」

「パイロット関係ねえじゃねえか」

「だから、そう言うことさ」

 俺はまた笑った。

「え、延岡ってけっこう人気あるよ? 女の人の方がみんな年上だから、なんか遠慮してるみたいだけど」

「えっ!? 嘘、だ、誰!?」

「……あ。やっぱ駄目かも、こいつ」

「ななななんでだよ!?」

 俺はげらげら笑った。

「同年代のWACって言うと、俺を撃った女くらいだったか」

「あれは駄目だろ」

「お勧めはしない」

 俺は笑った。そう言えば、あのWACはどうなったんだろう。殺人未遂だったわけだが。

「海彦はのんちゃんとくっついちゃうし」

 みちるが俺をジト目で見た。

「おい泉、てめえ!」

「……はあ? 待て待て。なんだその根も葉もない噂は」

「だって、のんちゃんのこと抱いたんでしょ?」

「……おい、俺は下屋と寝てなんかいない。誰が言ったんだ、そんなこと」

 俺は怒りが湧いてきた。

「え……だって、のんちゃんが……」

 みちるが戸惑っていた。

「下屋が、そう言ったのか?」

 俺はもう激怒していた。

「ち、違うの?」

「……ああ、そうだよ。泉は俺と同室だぜ。ローテーションの違いはあるにしても、俺に気づかれずに逢引するのは難しいな」

 延岡も気の抜けた声を出していた。

「下屋がね……そう言うことをするタイプには見えなかったけどな。見損なってたか」

「ご、ごめん、海彦……」

 俺はもう怒りが薄れてきた。二人の誤解が解ければ、それでいい。

「だいたい、俺が浮気なんかすると思ってたのか」

「浮気って……」

「俺には蒔絵しか見えない」

「……でも。蒔ちゃんは、死んじゃったんだよ?」

 みちるが寂しそうに言った。

「関係ない。俺の心は蒔絵に持って行かれた。体もだ」

「操を立て続けるってのか? 田中は死んじまったってのに?」

「俺はあの泉が女に惚れたと後ろ指を差されても、背中から撃ち殺されてもかまわないくらいに蒔絵が好きだ。下屋に告白されたくらいで心は動かない」

「あ、告白はされたんだ」

「先月かな。断ったよ。まさかこんな噂を流されるとは思わなかったが」

 これじゃあ、未だに管制官候補生なのは当然だ。いずれエリミネートされるだろう。管制官ではなんと言うのか知らないが。

「女怖い」

 延岡がわざとらしく体を震わせてみせた。

 アラートが鳴った。

「出番だ」

「やれやれ、女に敵機に忙しいな、まったく」

 俺たちは全速力で自機に向かって走った。


 三月。俺は生まれて初めて人を殺した。

 日中のスクランブル。新潟空軍六機、航空自衛隊九機でのドッグファイトになった。

 蒔絵が長距離ミサイル狙撃で撃墜されてから、空自の早期警戒機には注意を払うよう指示されている。

 と言ってもF―2のレーダーがいくら高性能だとは言え、早期警戒機の探知距離には及ばない。空自機を越後山脈以下の低空域に引きずり込んで迎撃する。

 早期警戒機が高度を上げて突出してくれば、ガメラレーダーで捉えられる。見つけたら、こっちも逆に突出して早期警戒機を叩く。

 だが、今の俺にはそこまでの余裕はない。イーグルの後背に食らいつこうとするデルタ30、みちるの援護で手一杯だ。

 デルタ30はいい感じでイーグルを追い込んでいる。イーグルは右に左にと不規則にブレイクするシザースで逃げようとするが、振り切れない。

 デルタ30がミサイルを発射するか、と思った時にイーグルが高G引き起こしでデルタ30の後方占位をかわしかけた。だが、デルタ30の後ろにいる俺からは丸見えだった。

 俺のF―2の火器管制レーダーがイーグルをロックオンした。俺はほとんどなにも考えることなく、九〇式対空誘導弾AAM―3を発射。

「デルタ31、FOX2」

 俺は無感情にコールした。

 イーグルがデコイをばら撒く。だが、ミサイルは誤認することなくイーグルを追尾。

 近接信管でミサイルが爆発。イーグルのエンジン一基から黒煙が上がった。一瞬後には、コクピットのあたりから火を吹いて、粉々に爆発した。

「Good Kill ! Good Kill !」

 デルタ30がなにか叫んでいた。

 俺は落ちていくイーグルの破片を見つめた。ベイルアウトはしなかった。パイロットの体も、粉々に砕けただろう。

 俺はデルタ30の位置を確認して、再度援護に回った。

「やったね、海彦!」

 戦闘が終わり帰投して、滑走路を歩きながらみちるが言った。

「ありがとう。まあ、みちるのおこぼれだけどな」

「それがペアってもんだろ?」

 延岡が笑った。延岡とみちるは、すでに二機ずつを撃墜している。

 俺は普通に食事を食べた。

 真夜中に、俺は目を覚ました。体中に、じっとりと汗をかいていた。

 俺は布団の上で体を起こして、じっと暗闇を見つめていた。

「どうした?」

 延岡が布団の中から声をかけてきた。

「悪い。起こしたか?」

「いや。……実感が、湧いてきたか」

「実感?」

「人を殺した、実感だよ」

 俺は、そのことを考えた。

「ああ……どうもそうらしい」

 俺は。蒔絵のように。一瞬で、あの顔も名前も知らないパイロットの人生を断ち切ったのだと、実感した。

「信じられるか? 慣れるんだぜ、それ」

 延岡の声も暗かった。

「今はまだ、信じられないな」

「だろうな。まあ難しいとは思うけど、寝とけ」

 それきり、延岡は黙った。

 俺はできるだけ静かに着替えを取り出して、シャワールームに向かった。

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