第2話 東端・犬吠埼

「暑い…」

 夏の日差しと熱風が一斉に僕の体を襲った。額の汗と無意識に呟いた言葉が、犬吠駅のプラットフォームへ零れ落ちる。


 お盆休みの真っ只中。千葉県銚子市は、今世紀の日本の夏らしい酷暑に見舞われている。気温は三十五度以上。雲一つない青空に、今にも爆発しそうな太陽。立っているだけで汗がじわりと噴き出してくる。

 野島崎を訪れてから三か月が過ぎた。大きな連休が無く、「端巡り」を進めるには夏休みを待つ必要があったのだ。「日帰りで行ける場所なら、土日に行けばいいじゃないか」と言う人もいるだろう。しかし、土曜は仕事の疲労で出掛ける気力が起きないし、日曜に遠出すると月曜の仕事に支障をきたす。実際、野島崎に行った次の日は酷い筋肉痛の餌食になった。やはり連休以外の遠出は無理だと再認識させられた。

 二番目のターゲットは東端・犬吠埼いぬぼうさき。「日本一早く初日の出を拝めるスポット」として全国的にも知名度は高いだろう。野島崎と同様、灯台があることでも有名な場所だ。

 調べによると、東端は灯台から少し離れた「君ヶ浜」という海岸にあるらしい。僕はこの日、先に名所の灯台を訪れ、その後東端の地点に向かう計画を立てた。

 午前十時過ぎに銚子駅着。折角だから海鮮でも食べようと、利根川沿いの食事処で早めの昼食を取った。海鮮丼を堪能し、利根川の流れを眺めていたら、思いのほか時間を潰してしまった。

 十二時過ぎにようやく銚子電鉄に乗った。年季の入った短い車両。全て手書きの路線図。切符は車掌さんに見せる方式だ。何ともレトロな列車だったが、ICカードで電車に乗るのに慣れ切っている僕にとってはむしろ新鮮だった。記憶の限りでは、単線の列車に乗るのだって今日が初めてだ。


 犬吠駅の駅舎を出て、事前に買ったペットボトルの水をグイと喉に流し込む。ふうと深く息を吐き、気合を充填する。

 僕は目を閉じて、二週間程前のある日を思い返した。その日僕は、大学時代の友人と久しぶりに会った。彼は東北の大学で博士課程を受けていて、たまたま千葉に用があって戻って来たのだ。二人はすかさず会う約束を取り付け、居酒屋で時間の許す限り語り合った。気の合う仲間との久々の会話が楽しくない訳がなかった。別れた後もまだしゃべり足りないくらいだった。

 僕はこの時、初めて他人に「端巡り」のことを白状した。彼は僕の旅行嫌いを知っていたから驚いていたが、「ゲームのクエストみたいで面白そうだ」と言った。野島崎は風が心地い場所だったと話すと、研究室詰めの彼は大いに羨ましがっていた。「今度会ったら続きの話も聞かせてよ」とも言ってくれた。次に彼と会う予定はまだないが、その日がたまらなく待ち遠しくなった。

 その時の会話を思い出すと、「端巡り」へのモチベーションがぐんと向上した。普段は抜け殻のように過ごす僕にしては珍しく、活力が漲っていくのを感じる。この日差しの中を歩くのは酷だが、今は前進あるのみだ。僕はいよいよ、駅を出発した。


 灯台へ続く道をずんずん進むうちに、次第に海に近づいているのがわかった。一歩足を踏み出すと、荒々しい波音がまた一歩大きくなる。

 左に水族館の廃墟が見えてきた頃、波のボリュームは最高潮に達した。そして、木々で塞がれていた右手側の景色が突然開けた。

 ついに姿を現した海を見て、僕は思わず立ち止まった。

 大洋からの容赦のない強風が、出し抜けに僕の頬を殴った。毛羽立った青黒い海から、うねりながら鎌首をもたげる巨大な白波。波は茶色い剥き出しの岸壁に容赦なく体当たりしては、轟音とともに砕け散る。その白い飛沫は煙のように舞い上がり、まるで一帯で火事が起きているようだった。

 ガードレール越しに恐る恐る眼下を覗いてみる。僕の立つ道の更に一段下に、一本の細い遊歩道があった。遊歩道は飛沫がかかる瀬戸際にあった。道の脇の潮溜まりには時折、白波の一部がザバリと入り、溢れた海水が歩道を濡らしている。

 その時、僕は出かける前にテレビで見た天気予報を思い出した。そういえば今、台風が北上中なんだっけ。予報円は日本列島からかなり離れていたはずだが、太平洋はその存在をこうして律儀に知らせているのだ。

 台風が無ければ、この海はもっと穏やかなのだろうか。或いはこの海はいつもこうなのだろうか。どちらにせよ、今日この岬にいるのは「吠える犬」なんて可愛らしいものではないことは明白だった。こんなの「暴れる怪物」だ。僕はぶるると身を震わせながら後ずさった。

 額の汗をシャツの袖で拭い、気を取り直して移動を再開した。前方をよく見ると、灯台の先端部分が既に頭を出しているではないか。第一の目的地は近いようだ。「怪物」の殺気と咆哮に戦々恐々としながらも、僕は少しだけ歩みを早めた。


 程なくして犬吠埼灯台に辿り着いた。麓には「犬吠テラステラス」という、大きな商業施設がある。僕はまずそこに入った。エアコンの効いた涼しい空間は、灼熱の道を歩いてきた僕にとって非常にありがたい存在だった。

 施設の中は家族連れで賑わっていた。子供達をずっと炎天下の外に出しておく訳にもいかないのだろう。子供を室内遊具で遊ばせつつ、近くのテーブルでママ友会を開く母親達の姿も多かった。

 ベンチに座って水のペットボトルを空にした後、僕はいよいよ灯台に向かった。高さも形も色も、野島崎灯台とそっくりだった。灯台とはどれも似通ったものなのかもしれないと思いながら、僕は犬吠埼灯台の小さな入り口をくぐった。

 内部も野島崎灯台と同様に、狭い螺旋階段になっていた。前回の旅で灯台には少し慣れたつもりだ。僕はまた肩をすぼめ、降りてくる人とぶつからないよう注意しながら階段を上った。

 密閉状態の螺旋階段は気温も湿度も高く、階段の壁は少し濡れていた。そんなサウナのような場所で階段を登るのはかなり厳しい運動だった。体を動かす旅に体内で熱が生まれ、そのせいで余計に暑く感じた。シャツを汗でびっしょり濡らしながら、やっとの思いで頂上の展望台に辿り着いた。

 展望台からの景色は、野島崎のものとは丸きり違っていた。野島崎灯台は岬が広かった分、上から見える陸地の面積が広かった。しかし犬吠埼灯台は岬の断崖の上に立っており、見える陸地が格段に狭かった。景色は確かに開放的だったが、崖の峻厳な岩肌と大時化の波の怒号と、体が吹き飛びそうな程の海風で、野島崎灯台より圧倒的に怖く感じた。

 大勢の他の観光客を避けながら、へっぴり腰でゆっくり展望台を移動した。その間に海風はポリエステルのシャツをすっかり乾かしてくれた。一周して展望台の出入口に戻って来ると、僕は灯台を降りる決心をした。またあの暑苦しい螺旋階段を通るのは気が遅れるが、いつまでも灯台の上にはいられない。これは試練なのだ。深呼吸をして、意を決して展望台につながる梯子階段を下りた。

 しかし、試練は想定していたものよりはるかに過酷だった。

 展望台に繋がる梯子階段を降りると、すぐ下の小さな踊り場が大勢の小学生で埋めつくされていた。学校の行事か林間学校の類だろうか。子供達は確認できるだけでも十人以上。全員同じ黄色の帽子を身につけている。彼らはガヤガヤと騒ぎながら、「順番に降りて下さ~い」と声をかける半袖短パンの中年男の声に従って、列をなして先の螺旋階段を降りていく。

 きっと心の優しい人なら、近くの子供ににこやかに声でもかけてやるのだろう。だが僕にはそんな心の余裕はなかった。むしろ鬼のような顔を見せまいと必死だった。子供達が全員通り過ぎるまで、僕は一歩も前に進めないのだ。彼らのやかましい話し声と、群がって階段を占拠し遅々として進まない様子は、このサウナからいち早く出たいと逸る僕の心を逆なでにした。

 数分後、指示を出していた先生らしき男が子供たちの最後尾に付いて螺旋階段を降りはじめ、ようやく僕は踊り場から先に進めた。しかし、前の小学生の列は中々進まない。一歩降りては立ち止まり、また一歩降りてはまた立ち止まる。彼らはまるで、暑さなど微塵も気にならないかのように、賑やかにじゃれ合っていた。先生は時折、階段を登る人の邪魔にならないよう子供たちに注意しつつも、列の後ろの子供と会話を楽しんでいる。

 時間と目の前の隊列は、嫌がらせのようにのろく進んだ。熱と湿気はその間、じっくりと僕の体を容赦なく蒸らしてくる。釜で茹でられるタコになった気分だった。シャツは再び汗でドロドロ。顔は真っ赤っか。呼吸はどんどん浅くなり、視界もだんだんぼやけて来る。頭の中が「早く外に出たい」で埋め尽くされた。しかし、の進む速度は一向に速まる兆しがない。もはや先生の後頭部をギラギラと睨みつけなくては、どうしても気が済まなかった。

 足元はふらふら、頭はくらくら。意識が朦朧とする寸前、僕はやっと螺旋階段の出口にたどり着いた。外に出ると、僕は一目散に灯台の敷地を出た。敷地内には灯台の資料館もあったが、もはや足を運ぶ余裕はない。

 外の自動販売機で乱暴に水を買って、飛び込むように先程の商業施設に入る。空席のベンチにどっかり座りこむと、買ったばかりの水を飲んだ。がぶり、がぶり、がぶりと飲んだ。無心で飲んだ。五百ミリリットルのペットボトルは、気付いた時にはもう空になっていた。ふうと溜息をつくと、僕は椅子の上でガクリと項垂れた。

 肩で息をしながら、僕は先のことを考える。意気揚々と進み出したは良いものの、荒れた海と灼熱の螺旋階段からダメージを食らい、心身共に満身創痍だった。足の痛みも強くなって来ている。この後はいよいよ東端を攻める手筈だったが、心は折れかけていた。正直に言って、もう帰ってゆっくり休みたかった。

 しかし、直ぐに思い直した。最東端の地を訪れなければ、苦労してここまで来た意味が無くなってしまうじゃないか。友人にも良い報告をしたい。東端にはどうしても行かなくては!僕はまた目を閉じ、二週間前の友人との会話を反芻した。


 数十分後。息も心もすっかり落ち着いた。体をしっかり冷し、足もしっかり休ませた。僕はいよいよベンチから立ち上がり、施設を出た。さっきの自販機でもう一本水を買って、いよいよ第二幕の開幕だ。

 灯台に向かう道の途中で左に曲がると、細長い階段がある。そこを降りて道なりに進むと、やがて君ヶ浜の海岸が見えて来た。

 午後の半ば傾いた日差しが、じりじりと体を突き刺す。平たい海岸には遮るものが一切ない。日差しはさっきよりも強く感じ、肌には焼かれるような痛みすら覚えた。今度は金網の上で丸焼きにされるイセエビの気分だった。

 右手に広がる太平洋からは、相変わらず大波が押し寄せていた。砂浜はほとんど波に覆いつくされていた。大波の飛沫が、浜の外側のコンクリートの階段の上部まで到達することもあった。

 今まで高台から眺めるだけだった波が、今は間近にある。「怪物」の殺気を肌で感じる。僕は泳ぎに来た訳ではないから、靴はスニーカーだし、着替えや水着の用意もない。僕は波に濡れないよう、浜辺から遠い場所を恐る恐る歩いた。

 こんな荒波の中でも、浜辺には海水浴客がいた。大盛況と言う程ではなかったが、カップルや若い男性のグループ、そして家族連れ…様々な人たちが水着に着替え、海につかっている。彼らは大波に打たれながらも、水浴びやボール遊びを思い切り楽しんでいた。彼らの楽しげな声は、波の轟音にも負けず周囲に響いている。

 トボトボ歩きながら、僕は彼らを怪訝な顔で眺めた。彼らは荒波が怖くないのだろうか?自分の命を危険に晒してまで「夏を満喫」したいのだろうか?この海を見て「怖い」以外の感想を持てない僕は、彼らとは永遠に分かり合えない気がした。

 釈然としないまま海岸を歩き続けること数十分。ついに東端の地と思わしい砂浜に辿り着いた。「思わしい」というのは、地図アプリではまだ先に陸地があるのに、その場所を波が占領していたからだ。

 流木の散らばる黄色い砂浜をそろりそろりと歩き、波が届かないギリギリの所で立ち止まった。そして携帯のカメラを海に向け、白い牙をむく荒波をパシャリと撮った。僕は逃げるように砂浜を後にした。肩の荷がすっと下りるのを感じた。

 東端は犬吠駅からすっかり離れた場所にある。最寄は同じ銚子電鉄の海鹿島あしかじまという駅だ。帰りはその駅を目指すことにした。

 海岸沿いの帰路を歩く僕の心は浮足立っていた。駅までまだまだ歩く必要はあるが、もう一息だ。あともう少し辛抱すれば、こんな化け物の海とも、狂った海水浴客とも、暑苦しい太陽ともオサラバできる。さっさと電車に乗って家に帰って、冷凍庫で眠っているモナカアイスをガリっと齧ってやるんだ。足はビリビリと痛んでいるが、足取りは自然と速くなった。

 道をさらに進むと、左の方へひょろりと伸びる坂道が見えた。地図によると、その坂を登って真っ直ぐ進めば海鹿島駅に到着できるようだ。

 こんな坂、思い切り駆け上がってやろうか。坂の真下に差し掛かった時、僕は上を見上げた。


 その瞬間。


 僕の足はその場でピタリと止まった。心も止まった。おまけに思考も止まった。

 波のざあざあとした音も、蝉のじいじいと鳴く声も、キンキンのモナカアイスも、すべてが遠ざかって消えた。

 西向きの坂の頂上から、太陽が斜め四十五度の角度から光と熱の矢を照射する。矢は熱気と蒸気で靄がかった大気で乱反射して、坂全体がぼうっとくらんで見えた。熱という熱が、この一本の坂に凝縮されて充満しているようだった。

 坂道の脇には丸いプールのような場所があった。そのプールの前で、一匹の黒猫が横たわっている。猫はぐったりと体を伸ばし、ピクリとも動かない。それがただ眠っているだけなのか、或いは死んでいるのか、見ているだけでは全く判別がつかない。


 僕はしばらくの間、口を半開きにして坂を見つめる以外、何もできなかった。体内の疲れと痛みがどっと押し寄せた。

 「死」の一文字が頭を支配した。この坂の先に本当に駅があるとして、駅に辿り着く前に灼熱地獄に辿り着く未来が目に見えた。しかし帰路への近道は他にはない。今まで歩いた道を引き返し、犬吠駅から電車に乗るという手もある。しかし、あの長い道程を引き返す体力はもう残っていない。前にも地獄、後ろにも地獄。まさに前門の虎、後門の狼だ。どちらにせよ僕には、そこの黒猫のように行倒れる運命が待っているのだ。

 暑さによる汗と暑さのためではない汗が、皮膚の上で混ざった。

 途方に暮れているうちに、体の芯から得体の知れない不思議な怒りが沸々とこみ上げて来た。

 待ってくれ。おかしくないか?僕は千葉の東端に来ただけなのに、どうしてこんな酷い目に遭わなきゃいけないんだ?地獄に辿り着く?僕がどんな罪を犯したっていうんだ?身の丈に合う生き方を愚直にやって来ただけじゃないか!なのに、こんな暑くて息苦しい所で死ぬだって?僕は何を考えているんだ!

 死んでたまるかと思った。端巡りを全うするまで、こうして生きてきた見返りをしっかり受け取るまで、絶対に死んでたまるか!

 乱暴にバッグを漁る。結露で濡れたペットボトルを取り出し、とうにぬるくなった水を大きく呷った。そしてギッと坂を睨むと、重い脚を無理やり持ち上げた。


 霞む坂を、地団駄を踏むように登る。靴音がどしどしと蝉の声に混じって辺りに響く。汗が顎から垂れ落ちたってもうお構い無しだ。

 とはいえ、やはり駅までの道は長く苦しかった。踏み出し始めの勢いは直ぐに萎んだ。カンカンと照る太陽とアスファルトの照り返しが、足取りをふらつかせてくる。熱さで体が爆発しそうだった。目がチカチカして、視界が歪んだ。

 それでも僕は前に進み続けた。歯を食いしばって、足を前に出す。体が限界を訴えても、踏ん張って耐える。これを延々と繰り返した。兎に角今はそうするしかない。止まってたまるか!死んでたまるか!強気な言葉で頭をいっぱいにした。


 地獄に挑んでから、どれくらいの時間が経っただろうか。ついに左手に線路と海鹿島の駅が見えた。駅に着いた時、僕は思わず「うおお!」と雄叫びを上げた。周りに人がいたら間違いなく狂人だと思われただろうが、叫ばずにはいられなかった。幸い駅の周りには誰もおらず、待合所もプラットフォームも無人だった。

 本日二度目の銚子電鉄の座席に、僕は黒焦げで座った。東端アタックを何とか達成できたのは良かった。だが、想像以上に酷い目に遭ってしまった。汗で三分の二が変色したシャツ、ジンジンと痛む棒になった足、そして日焼けでヒリヒリ痛む顔と腕。意気込んで臨んだものの、途中で何度も心が折れそうになった。

 銚子駅から千葉方面への電車では、座りながら寝てしまいほとんど記憶がない。千葉駅に着くと酷い頭痛が襲い掛かってきた。軽いめまいと吐き気もあった。ひょっとすると軽い熱中症かもしれない。やむなく駅構内のコンビニでスポーツドリンクを買った。味が苦手で普段は口にしないが、こういう時ばかりは仕方ない。

 改札を出て休み休み、スポーツドリンクを無理やり喉に流し込みながら家路を進む。やっとの思いで家に着くと、空のボトルと汗くさい服を放って風呂に直行した。髪を乾かし、服を洗濯機に入れて回した後、力尽きるようにベッドに倒れこんだ。

 風呂掃除もゴミ捨ても、最中アイスも、もう全部明日でいいや…。諦めたように、僕は目を閉じた。

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