道子と涼さんの事業

増田朋美

道子と涼さんの事業

道子と涼さんの事業

春が間近のその日、今日は、本当に春らしい日で、暖かい一日だった。ただ、前日に冷たい雨が降って、寒い日が続いていたため、皆寒さと暖かさについていけないという日々を送っていた。

若しかして、散々続いている、発疹熱の流行も、このせいではないかと評論家の人たちは散々言っていたが、そんな評論家の人がいう事なんて、大して効力も発揮しないのだった。彼らの言う通りに行動できる人なんて、単なる富裕層で、時間のたくさんある人でないとできやしないのだ。そういうことを知らないで、テレビは報道ばかりするから、多くの人は、恐怖に煽られて、疲れてしまうばかりなのだ。

さすがに、日本であったから、道路で弱い立場の人が斃死するという可能性は少ないが、他の国家であったなら、そういう事も起こる可能性もあるほど、発疹熱が流行っていた。政府は、こういう時こそ役に立つもの、のはずだったが、まるで役に立たないのだった。学校を休校にするとか、スーパーマーケットの営業時間を短くするとか、そういうことををしたって、なにも解決にはなりはしないのだ。政府のする事、というのはどこかずれていて、国民目線で考えられる人がどこにもいないから、そういう事になるんだろう。

いずれにしても、無能な政府と、悪いことばかり報道するテレビのせいで、日本人は相次いで悲しみに沈んでいた。時には、贅沢は敵だとか、そういうむかしの言葉を平気で発言する年寄りも現れていた。とにかく、日本中が、無意味な情報であふれていて、本当に欲しいものは全く手に入らないというのが、現状であるかもしれない。

そういう風に、おかしな世の中になっているせいで、時に精神不安定になるものが爆発的に増えていた。精神科のクリニックにはストレスのせいで体の不調を訴えるものが押し込み、長い行列を作っていた。何処のクリニックも病院も、満杯で、完全に飽和状態であった。こういう時は、いつも変なやつが行くといわれる精神科が、必要な科として認められる時世でもあった。

かといって、本当に精神科が必要な人というのは、まれな話だった。というのは、患者さんたちは、話を単に聞いてほしい、この不安な気持ちを誰かにわかってほしくて来院するだけ、という人が、八割近くを占めているからであった。ほかの国では、そういうことを隣近所同士で話し合うという文化が残っている国家もあるが、日本というのはそうはいかない。そういうのを補ってくれるシステムもある国家もある事はあるのだが、それは、西洋の先進国の話。日本は、見かけはきれいで西洋に近づいているが、そういう文化は遅れている。変なところが偉く進んでいて、変なところが偉く遅れているのが、日本という所である。

まあ、そういう訳で、今日も、製鉄所では、発疹熱の話題が時々飛び交うこともあるが、みんな、日本のおかしなところで傷ついている人たちばかりなので、そういう事は口にすることはあまりなく、建物の中で勉強したり、仕事したりして過ごしていた。

その日は、涼さんが来訪していた。四畳半では、水穂さんが、涼さんと何か話していた。時々こういう風に、涼さんに話を聞いてもらうために来てもらうことがある。いわゆるカウンセリングというモノにあたるのだが、涼さんは、そういう言い方が嫌いだった。単に傾聴と呼んでくださいと、水穂さんにも、製鉄所のほかのみんなにも頼んでいた。その施術中は、邪魔にならないよう、みんな四畳半には立ち入らなかったため、四畳半には、水穂さんと涼さんしかいなかった。涼さんは、弱ってしまった水穂さんに、布団に寝たまま話してくれて結構ですと言ったが、水穂さんは、無理して布団に座っていた。そういう無理をしてしまうのが水穂さんなんだろう。

二人は、そうやって、過去に在ったこととか、現在でも辛い思いをしている事とか、そういうことを、話していたが、涼さんには、出来ないこともあった。それは、水穂さんの顔を見て話を聞くことだった。

「すみません、先生。申し訳ないのですが。」

と、水穂さんは涼さんに言った。

「どうしたんですか?」

涼さんは、みえない目を、少し動かした。

「すみません。」

水穂さんは、やっとそれだけ言った。

「どうしたんです?」

涼さんがもう一回聞くと、

「吐き気が。」

とだけ水穂さんは答える。涼さんが、そういう事なら中座してもいいというより前に、水穂さんは、酷く咳き込んだ。たちまち、口から、朱い液体が噴出したが、涼さんにはそれを処理することもできないのだった。表情で、なんとかしなければならないという顔をしているが、どうしようもない。

「何をやってるの!」

いきなりふすまが開いて、道子が飛び込んできた。すぐに水穂さんの口元をタオルで拭いて、急いで枕元にあった薬を飲ませてやる。暫く背中をさすってやって、やっと静かになってくれたので、道子は、水穂さんを静かに布団にねかせてやった。

「本当は、着物も、布団も変えてやらなきゃいけないんだけど、今は、お客さんが来ているから、後にするわ。」

道子は、一つため息をついたが、水穂さんの隣にいる涼さんを、憎たらしいと思う気にはならなかった。それよりも涼さんが悲しそうな顔をしているのが、なんだかかわいそうだなと思う気が下のであった。

「気にしないでいいのよ。今度、こういうことがあったら、そうだなあ、ブザーを鳴らすとか、そういうことをすればいいわ。そうやって工夫すればいい。とにかく、水穂さんにとって、涼さんは大事な人なんだから。」

いつの間に、自分はそういうセリフをいう様になったんだろう。今までの自分であったら、早く止血剤がどうのとか、そういうことを言って、涼さんや周りの人に文句ばかり言っていたはずだ。それがいつの間にか、こんなに穏やかな感じになって、道子は、自分の変わりぶりに驚いてしまった。

「本当に、気にしなくていいわ。だって、涼さんは、仕方ないじゃないの。それを責めてもしょうがないってことは、あたしだって、わかっているわよ。」

道子は、そういって、涼さんの方へ手を伸ばしたが、涼さんの目に涙が浮かんでいるのを見て、それ以上の事は、いうべきじゃないと思った。

本当は、気にしないとしか、答えは出ていないはずなのに、なぜか、それに、たどり着くのには、長く時間がかかりすぎるような気がする。

道子は水穂さんの掛布団をきれいに直してやりながら、黙ってその時間を過ごした。

唯、涼さん一緒に帰りましょうか、それだけ言った。涼さんもそれは分かってくれたようだ。

とりあえず、水穂さんの事は、後に残った利用者にお願いして、道子は、涼さんと製鉄所を出る。駅からは、一人で帰ると涼さんは言っていたが、道子は、それでは心配であった。だから、今日は一緒に、タクシーに乗っていくことにした。道子がタクシー会社に電話すると、タクシーはすぐに来てくれた。運転手さんにも手伝ってもらって、道子は涼さんとタクシーに乗る。

「ねえ、涼さん。」

道子は、黙っているだけの涼さんに、そう話しかけた。

「今日の事は、気にしないでいいのよ。次回も水穂さんにお話してあげてね。」

「そうですね。」

涼さんは、静かに言った。

「でも、自分にできない事があるっていうのは、やっぱりつらいですね。」

確かに、障害があるというのはそういう事かも知れない。

「だって、人間だもの、誰だって、失敗はするわよ。それだけの事よ。」

そう考えられたらいいと思う。普通の人であれば、そういう風に、失敗はすることがあっても、気にしないで平気な顔していられるのだが、なぜか、そういうことは、障害があると苦手になってしまうようである。

「いいじゃないの。それだけの事じゃないの。みんな誰でもそういう気持ちは持ってるわよ。完全無欠な人など、いないわよ。みんな失敗して、それを、気にしないって、自分に言い聞かせながら生きているんじゃないの。」

「道子さん、変わりましたね。」

不意に涼さんは言った。

「まあ、そうかしら。」

道子が思わず言うと、

「ええ、なんだか柔らかくなったというか、前にはそういう言葉が出なかったのに。」

と、心理療法家らしく涼さんは答えた。

「そういう涼さんも、ヤッパリ涼さんだわ。やっぱり、そういうところは、涼さんの天職っていうのが、出ている気がする。」

道子は、そういうことを言って、涼さんをほめたが、まだ自信を無くしているようなところがあった。

同時に、運転手が、富士駅へ着いたとアナウンスしてくれたので、二人はまた運転手に手伝ってもらいながら、タクシーを降りる。

「それでは、僕はここで帰ります。あとは、点字ブロックを歩いていけば、なんとか帰れますから。」

と、涼さんは言うが、道子は、一緒に静岡まで行くと申し出た。どうせ静岡まで、三十分電車に乗るだけだから、と、道子はそういった。

「それでは、行きましょうか。」

と、涼さんを連れて、道子はホームにいった。先ほどの発疹熱の流行のためか、電車に乗ろうとする人も非常に少ない。もう帰宅ラッシュの時間だというのに、やってきた電車はがら空きで、余裕で座ることができた。

「ねえ、涼さん。正直なところ、こういう風に相手をしている患者さん、あ、今の言葉ではクライエントさんというのかしら、正直何人いるのかしら?」

道子は、涼さんに尋ねる。涼さんの見えない目は、またこまった顔になった。

「具体的な数値は言わなくていいから、一日、何人くらい相手にしているかだけでも教えてよ。」

道子がまたそう聞き直すと、

「一人か、多くても二人ですけどね。」

と涼さんは答える。

「そうなのね。でも、資格はちゃんと持っているんでしょ。確か、盲学校で勉強させてもらったとか。」

道子は以前涼さんに教えてもらったことを聞いてみた。

「まあ、こういう資格には、これという一番効力的なものがなくて、民間資格ばっかりになってしまうんですけどね。そういうモノで、やっていけるかは、よくわからないんですが、、、。」

涼さんは、そう答える。確かに、こういう心理業界は、非営利活動法人とか、そういう団体が発行している資格ばかりが横行していて、これだと効力のある資格がないというのが現状である。お医者さんは、医師免許というのがあるのだが、こういう業界は、免許と呼ばれるようなものは、多種多様過ぎてわからないという感じだった。

「そうなのね。それなら、いいたいことがあるんだけど。」

道子は、涼さんに言った。

「その事業ね。ちゃんと、看板出して、しっかりやったらどうかしら。きっと、盲人という事で、躊躇しているんだろうけど、何でも宣伝の時代よ。インターネットを使って、宣伝したらどう?」

道子は、にこやかに笑った。涼さんにも、この顔を見てくれたらなと思った。

「でも、僕はパソコンというモノを使うことが、、、。」

「ああ、そういう事なら、あたしがやればいいわ。ただ、コンセプトと、料金と、サービスの特徴を考えればいいの。あとは、あたしが、素敵なウェブページにして、宣伝してあげる。」

それを言うと、道子は何か楽しくなってきた。

「まず、店舗名を決めましょうよ。それに、涼さんがいつも言っている、傾聴というサービス名は、一寸今は、古臭すぎるわ。それより、カウンセリングと言葉を改めて表示した方がいいわね。あ、別に、建物の店舗を持たなくたって、店舗名を持っているカウンセラーはいっぱいいるから、心配いらないわよ。」

「そうですね、そんな事今までしたことなかったからなあ。」

涼さんはまた困った顔をした。

「もう、したことないなら、今すればいいでしょう。ほら、決めましょうよ。何でもいいわよ、すきな花でも、動物の名前でも、すきな英単語でも、何でもいいの。何かすきな言葉を言ってみて。」

道子はうきうきして、空っぽの電車の周りを見渡して、

「ほら、病院の看板だって、最近は、苗字を病院名にしているところは少ないわ。山の森病院とか、子どもの心のクリニックとか、そういう可愛らしい名前を付けているところもあるわよ。」

と、周りにある看板に書かれている、名前を挙げてみた。どうして、この辺りは病院の看板ばかりなのだろうという気がしたが。

「だから、名前を付けなくっちゃ。なんでも好きな単語で良いわ。すきな動物でも、何か言ってみてよ。」

「そうですねえ。」

と、涼さんは、少し考えて言った。

「確か、小さかったころ、昭島鯨の模型を触らせてもらいに博物館に連れていってもらったことがあったんです。なので、僕の一番好きな動物は、昭島鯨なんですよ。触ってみて、鯨がどんなに大きな動物なのか、だけは、わかりましたからね。」

「昭島鯨?」

随分変なものであるが、見ることはどんなことであるかを知らない涼さんには、それが一番印象に残っているのかも知れなかった。

「そうなんですよ。補助道具として使っている、犬がどんな動物なのか、それすら、僕は知らないんです。そんな中鯨というモノがそれだけ大きいという事は知ることができましたので、、、。」

「そうなのね。それでは、店舗名は、くじらとでもしておきましょうか。カウンセリングルームくじら。それでいいわねえ。」

涼さんのその顔は生き生きとしていて、鯨が本当に好きなんだという事がわかった。なので、道子は、それを店舗名にしてもいいかと思った。

「じゃあ、あたし、パソコンで、すぐにウェブページを作れるサイトを探して、それで作ってみる。最近のホームページは、数時間でできてしまうモノも多いし、本当に簡単にできちゃうって聞いたから。」

丁度その時、静岡駅に電車が到着した。そのアナウンスが聞こえると、涼さんは、椅子から立って、白い杖で様子を探りながら、電車のドアのところまで歩いて行った。道子も涼さんと一緒に静岡駅で降りた。今日は、ここまででいいからと、涼さんは、点字ブロックの上を歩いていく。道子は、その背中を黙って見送って、折り返しの上り列車に乗り換えて帰っていった。

涼さんのホームページは、すぐに完成した。道子がいった通り、ホームページを作るサイトは、本当にたくさんあって、うまく使えばすぐにできてしまった。あとは、これを使って、うまく宣伝して、顧客を増やすことができれば成功だ。

ホームページには、問合せのメール欄も用意しておいた。その問合せの応対は、道子が、することになっていた。涼さんには電子メールというものを、使うことができなかった。でも、困ったことが起きた。みなさん、問合せをすることはしてくれるのだが、涼さんが、盲人であると、道子が問い合わせ欄で答えると、皆さんそれではいいと言って、断ってしまうのだ。

これでは、宣伝というより、涼さんが盲人である事を強調するだけのツールになってしまった。道子がいくら、良質のカウンセリングを提供すると書いても、余分な世話はいらないと書いても、そういうことは目もくれず、盲人と言うと、もういいとなってしまうのである。道子はいら立って、やるせない、気持ちだったが、現実はそういうモノであった。挙句の果てには、この非常時に、のんきに商売して!なんていう、メールが入ってきたこともある。なんで、健康な人には、すがるように群がってくるのに、こういう障害者となると、おかしな反応になってしまうようなのだ。

その日、道子は涼さんとまた製鉄所に行った。今回も水穂さんの傾聴をするためだ。道子はまた涼さんに覗くなと言われ、ぼんやりと待っていた。でも何か、覗いてみたくなった。もしかしたら水穂さん、こないだのように、おかしく成ったらどうしようという気持ちがあったのと、涼さんがどうしているか心配でしょうがなかったのだ。道子は、そっとふすまに手をかけ、四畳半を覗いてしまう。

「きっと世の中には、変えられないこともあるんだと思います。」

涼さんのことばはそういうことを言っていた。

「僕も、こういう人間だから、いくら宣伝したといっても、批判されたり、断られたりの連続でした。道子さんが一生懸命やってくれましたが、そういうことは、やっぱり変えようと思ってもできはしないんですよ。」

「そうなんですか。おなじような身分ですが、ヤッパリ、こうして、なにか批判をされるべき人間なんでしょう。」

水穂さんも、そういっていた。二人は穏やかに笑っている。こういう人は、こういう人同士で、コロニーのようなものを作って、生活すべきとでも言いたいんだろか。それとも、そういう人達の枠を超すことは、出来ないのだろうか。

「そういう事ですよ。だから、水穂さんも最後まで生きてください。僕たちは、こうしてお互い欠陥のある身ですが、それだからこそ、こうしてお会いすることもできると思うんです。」

道子は、小さくため息をついた。水穂さん、涼さんと通じ合っているのね。あたしがわざわざ新しい事業をしなくてもよかったのかなあ。水穂さんには、あたしが何とかするより、涼さんに何とかしてもらったほうが、ずっといい。

そんな事を考えながら、道子はふすまを閉めた。

こうして、道子の考えた事業は失敗に終わった。でも、なんだか、道子には、怒りも憎しみも何もわかなかった。涼さんと水穂さんが、にこやかにやってくれれば、それでよかったんだ。顧客をひろげる事よりも、もっと大事なことは、以前からある顧客を大事にすることだもの。

そんな事をしった道子は、本当に必要な二人を、そっとしてやろうと思った。あたし達にできない事は、涼さんは知っているから。あたし達は邪魔せずそっとしてやることだ。

でも、本当は、障害のある人も、ない人も、壁をとって、自由にお話ができたらな何て、そんなことを願う道子なのであった。そして、あたしも、そういうことを目指して、やっていかなきゃいけないな、と道子は思った。



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道子と涼さんの事業 増田朋美 @masubuchi4996

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