曇天返し

世一杏奈

曇天返し


 當山太樹とうやまたいきには運がありました。

 ニタリと顔を自慢げに歪ませながら、雨の降る通学路を悠々と歩いています。


 彼の頭上を見ると青い傘布がお椀状に広がっており、傘は体を濡らさないようにする機能を遺憾なく発揮していました。


 汚れきった灰色雲から落ちる雨は傘布にとつとつ弾いては、小気味好いスタッカート音を楽しそうに奏でています。

 それは當山太樹の心情そのものでした。


「今日はとてもついている」


やはり、當山太樹はニタリと顔を歪ませていました。




***




 雲行きが怪しくなってきたのは夕方頃、放課後のホームルームが終わる頃だったでしょうか。


 今日は朝からサファイアのように青く澄んだ空でして、太陽もカンカン陽気に照っていましたし、気象予報士の人もニュースで今日は晴れだと自信げに話していました。


 けれども、ホームルームが始まってからというもの、急速にかげりをみせた空は教室を黒く染めていきます。

 もくもくと灰色雲を製造しながら人間の予測と安念を揶揄からかっているようです。




***




 数刻後にクラスメイトの一人が、


「あーあ、雨降ってきたよ……」


と気怠そうに言ったのを機に、学校にいる人間は天気の変化に気付かぬ振りが出来なくなりました。皆々こぞって窓を見やれば、クラスメイトの一人が言った通り、空から無数の針みたく雨が降っています。

 それもあっという間にザーザー降りになりまして、次に見た時には豪雨のような勢いにまで雲は成長しておりました。


 ダダザァオーダダザァオーダダザァオーと凄まじい雨音が窓の向こうにあります。

 それは校舎全体を打楽器のように叩いてくるものですから、煩くてたまりません。


 突然の曇天どんてん大襲撃に慌てふためている人ばかり、なんせ今日は百パーセント晴れると誰もが信じていたのですから。




***




 けれども當山太樹は極めて冷静、彼は用心深い少年でした。


 こういう時のためにと常々鞄に折り畳み傘を入れていたのです。

 参ったな、と一瞬は思ったのですが、すぐにあの傘の存在を思い出しますと、関係ないと言わんばかりに余裕綽々よゆうしゃくしゃくで帰宅準備を進めました。


 當山太樹は、自分だけが濡れずに帰るという方法を得ている状況がひどく可笑しく思えました。周りの慌てふためく顔がやけに楽しくて仕方ないのです。


 傘を持っていそうな友人に声を掛けて一緒に帰ろうとする者もいました。

 図書館か教室かで雨が止むことを何もせず祈る者もいました。

 家族に迎えに来てもらおうと、よたよた電話する者もいました。


 マーブルチョコのように多種多様な打開策が見てとれましたが、最も簡単な方法があるのです、傘をさして帰ればいいだけなのです。

 けれどもほとんどの者はそれを実行しません、何故ならほとんどの者がその傘を持っていないのです。


 當山太樹は勝ち組でした。

 勝ち組の彼の耳には、周りの焦り声が、がやがや蛙の合唱のように聞こえ、ひどくみっともなくみえました。


 学校に取り残された人間を尻目に、當山太樹は既にグラウンドを歩いています。


 もちろん、体は傘でガードされていますから心配はいりません。


 こうして誰に頼ることなく堂々と下校出来たのでした。




***




 一人歩く通学路は普段より静かに思え、心にかなりゆとりを持てました。


 時折、鞄を傘がわりにする人間がかたわらの道を走り去るのを見ましたが、その度に鼻で笑いました。


「それじゃあ鞄の中身も濡れちゃうじゃん。馬鹿だなあ」


 それに比べて——なんて、乾いた自身の服を見る度に顔のにやけが止まりません。なんだか王様にでもなったような気分です。

 周りの者は濡れるか泣くかのどちらかしかない、けれども彼は濡れずに帰るという選択肢を持ち合わせていた、それだけの違いでこうも気分は変わるものです。

 

「用心深く準備していれば自分は人より上に立てる! 曇天模様も怖くない!」


 道を邪魔する水溜りを軽々と避けながら、悠々と通学路を歩くのでした。




***




 すると突然です、背後から風がどおぅーと体全体を殴るように吹いてきました。


 それは予想を遥かに上回る荒れ具合でした。當山太樹は驚いて一瞬転びそうになりました。


 まるで飛行機の離陸時の豪風を間近で受けている気分です。

 見えない圧を一杯に浴びるように、体は前にも後ろにも一歩も動けなくなりました。アスファルトに仁王立ちになって傘を抑えることがやっとでした。


 當山太樹は、歯をこれでもかというくらい強く噛んで、地面から足裏が離れないよう必死に踏ん張って、風が吹き終える時まで何とか耐えていました。


 けれども、當山太樹には運がありませんでした。


 頭上からミシミシキシキシ軋み音が聞こえると悪い予感がみるみる膨れ上がりました。心臓が破裂しそうな嫌な感情がぐるぐる回ります。


 バササとボワっと音が鳴ると、傘布が骨を道連れにひるがえり、手から離れるようにして上空へ葉っぱのように飛んでいきました。

 當山太樹の体は雨ごと風に晒される羽目になりました。瞬刻のうちに体はずぶずぶに濡れました。


 傘はそこらをトランポリンのように飛び回りますと、最後はガードレールの隙間に引っかかって、ゆらゆら揺れながら動きを止めました。


 直後に、當山太樹を襲った風はゆったりと消えていきました。




***




 當山太樹の時間は遅鈍ちどんになりました。


 雨に打たれ、水だらけになった体をかかえ、足早に傘の確保に向かいましたが、見るも無残に骨は折れて布もめくり上がっていました。

 どのように考えても、どのように修復したとしても、あの優秀な機能は二度と発揮してはくれないと、即座に実感しました。


 傘はその間も小さな雨風で絶え間なく動きます。


 ひょこひょこと骨を上下に揺らして、めくり上がった布はひらひらクラゲみたいにたゆたっています。


 當山太樹の姿は実に滑稽でした。先程まで己が馬鹿にしていた人間よりも、更に下位の人間にまで、不可抗力に落とされた気分でした。


 役に立つはずの折り畳み傘も、見ての通り、役立たずに成り果てました。




***




 居た堪れない心情に追い打ちをかけるように空模様は変化しました。


 頭に当たっていた水の感触が小さくなりますと、首筋辺りにすすーっと光が触れてきます。


 當山太樹はおもむろに目線を上にやりました。

 目に雨雲は映りません。空はトマトのように真っ赤な夕焼け色に変わっていました。雲の透目すきめからは太陽が顔を出しています。


 ただの夕立でした。

 雨の通り過ぎる速さは下校時間よりもずっと短いものでした。

 優越感は曇天と一緒にどこかへ行きました。

 靴下は雨水が染みてぐしょぐしょになりひどく気持ち悪く思いました。

 ひょこひょこしていた傘は雨の終わりと共に動かなくなりました。




***




 當山太樹は泥水に浸った気分でそれらの変化を見ていましたが、やるせない気持ちで壊れた傘を持ちますと、ぶらぶら手を揺らしながら赤く染まった通学路を歩き直します。


 肩の力が土砂のように崩れていきました。

 雨で濡れた傘の接地面だけが妙な温もりを持っていましたが、やはり歩く度にぐしょぐしょする靴下をひどく気持ち悪く思いました。

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