第十八章 正体

朝、目が覚めて俺は部活に行くための準備をした。男に会う前に、俺には日常があるんだ。それを忘れてはいけない。

 支度を済ませ、俺は家を出る。その道のりで、どうしても引っかかりがあった。結局、俺の夢に侵入してきたのは誰だったのだろう。あの青年がそうだったのだろうか。だが、違うような気がする。あの青年にはそんな力はないように思えた。あんな骨のような細い手足に、血色の悪い肌色。そんな真似、到底できるとは考えられない。

 そんなことを考えていると、学校に着いた。最初に部室に行って着替えを済ませてから、剣道部の練習場となっている武道場へと向かう。その途中で、背後からなにやら悪寒を感じたので、俺はまるで壊れたブリキ製のおもちゃのような音を立てながら、恐る恐る振り向いた。

 そこには、般若のような顔をした部長が仁王立ちをしていた。あ、これまずいやつだ。

 本能で身の危険を察知して、俺は逃げようと足を踏み出した、その瞬間。部長に襟元をまるで仔猫のように掴まれ、そのまま連行された。


 昨日不本意ながらもさぼってしまった分…というか罰として、通常よりも倍に増やされた練習量をこなしたことにより、俺は部活が終わる頃には疲労困憊という状態だった。

 道場の隅で屍のように大の字で寝ている俺に、悠人が苦笑まじりに真新しい手ぬぐいと水を手渡してくれた。それを、俺はどうにか起き上がり受け取る。

 汗をぬぐい、ごくごくと喉を鳴らして水を飲んでいると、悠人が苦笑する。

「おつかれさん。今日のお前の練習量、大変だったな」

「本当だよ。勘弁して欲しいっての」

 不貞腐れたように言った俺に、悠人はおかしそうに笑いをこぼす。俺もそれにつられて笑ったから、天井を見上げて口を開いた。

「…昨日の変態野郎に関して、もしかしたら俺の…一応師匠が何か知ってるかもしれない。今日、部活が終わった後師匠と会う約束をしてるんだ」

 俺の言葉に、悠人は驚いたように目を瞬かせた後、1つ頷く。

「そうか。1人で大丈夫か?」

 まるで幼子に対するような言い方に、俺はむっと顔をしかめる。

「大丈夫に決まってんだろ。子供扱いするなよな。れっきとしたお前と同い年だってのに」

「ははっ、悪い。若干心配でな。まぁ、なんかあったらすぐに電話でもなんでもしてこい。飛んで行ってやる」

 爽快に笑う悠人に、俺は笑って頷いた。そこまでは良かったのに、悠人は爽快な笑みを、一瞬で下世話なものへと変化させる。

「まぁ、俺が行くよりも彼女がきてくれた方がお前には嬉しいか?」

「は?なに馬鹿なこと言ってんだよ、余計なお世話だ!」

 思わず声を荒げると、悠人はにやにやと人の悪い、ますます下世話な笑みを作る。

「そうやってムキになるのが証拠だろ?」

「あーくそ、腹立つなぁお前」

 忌々しげに舌打ちすると、悠人はわざとらしく身を退けた。無駄に反射神経いいよな、こいつ。

「わぁー、柄が悪くて困るよなぁ」

「うるせぇ!」

 蹴り飛ばしてやりたい気持ちが強かったが、あいにく今はそんな体力と元気が残っていない。悠人もそれをわかっていてやっているのだろう。

 俺は、悠人を忌々しげな目で睨んだ。

「あとで覚えてろよ」

 それに、悠人はすがすがしいほど爽やかな笑みを浮かべる。

「悪い、もう忘れた」

 もう一度舌打ちし、俺は疲労により震える膝を鼓舞しながら立ち上がった。

 真実まで、あと少し。そう考え、俺は悠人とともに道場を出た。


 かつての俺の修行場であった山につき、俺は男の住んでいる小屋へと向かった。

 ここに来るのは約一年ぶりだ。特に変わったところがないのが不思議で、それと同時に妙な安心感を覚える。

 小屋に入ると、すでに男が座ってちゃぶ台に用意されている、2つの茶のうち1つを飲んでいるところだった。

 肩まで届くか届かない程度まで伸びた癖のない黒髪。濃い紺地の麻の葉模様の着物を着て、その上に亜麻色の羽織を身にまとっている。切れ長の黒曜の瞳は、やはりどこか冷たい。

「やぁ、来たね」

 俺の姿を認めると、男はいつものように変えない笑みを浮かべる。相変わらず胡散臭いとしか言いようのない男だ。男は、俺においでおいでと、手招きをする。俺は猫か何かか。

 無意識のうちにため息をついて、俺は言われた通りに近づくと、今度は用意されていたお茶が目の前にある座布団に座るよう促された。それにも、俺はため息まじりに従う。ここで従わなくても、結局は座ることになるんだろうから、無駄に抵抗して疲れるようなことは極力したくない。ただでさえ疲れ果てているのに。

 俺の様子から疲労困憊が見て取れたのか、男が首をかしげる。

「随分と疲れているようだね。何かあったのかな?」

「ついさっきまで部活だったんだよ。それで、昨日訳あってさぼっちまったもんだから、その罰として練習量をいつもの倍に増やされたんだ」

 げんなりとした顔になるのは仕方ないだろう。半日であれはきつい。むしろ良くやりきった。

 自分で自分を褒めてやりながら、俺は用意されていたお茶をすする。相変わらず、この男はこと茶を淹れることに関しては度肝を抜かれるほどに上手い。それ以外の料理が壊滅的なのは目を閉じれるくらいだ。おかげで俺の料理の腕もなかなかなものになったと思う。

 それはさておき。俺は居住まいを正し、男と向き合う。男はそんなこちらのことなど気にしていないような様子で茶をすすっているが、それに構わずに俺は口を開いた。

「あんた、翳っていう男のこと知ってるか?」

 俺の問いかけに、男は何の反応も示さない。ただ、男が茶をすする音がこの空間に響く。

 少しして、男が俺を見る。

「知っているよ。覚えてはいないだろうけど、君は幼い頃に彼を助けたんだ」

「俺が、あいつを助けた…?」

 では、夢で見た蔵の中にいた痩せこけた青年が翳だったのだろうか。俺は息を呑んで男に聞く。

「俺があいつを助けた時、あいつは蔵の中にいたのか?」

 それに、男は静かに頷く。俺は、愕然と口を開けた。

「なんで、あんな暗い場所に1人で…」

「それはね、彼がもう必要とされなくなった現人神あらひとがみだからだよ」

 淡々と告げられた衝撃の事実に、俺は絶句する。

現人神というのは「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉である。現御神、現神、現つ神、明神とも呼ばれ、荒人神とも書く。また、生きていながら死者と同じ尊厳を持つ、という意味も持っている。簡単に言うと「人間でありながら、同時に神でもある」という存在のことだ。

 あの翳という名の男は、とんでもない男だったということになる。が、今、この男は「必要とされなくなった」と言った。それはどういう意味だろうか。

 俺の心中を見透かしたようなタイミングで、男は語り始める。

「彼は現人神として生まれ、現人神として育てられた。幼い頃からたくさんの人々の願いを聞き入れ、それを叶えてきた。けど、やがて彼の存在を独り占めしたいという考えを持った輩が、ある日彼を元いた神社から攫ったんだ。当然、それによって彼の存在を知る者たちは彼を探しながらも、長い年月を経て1人、また1人と命を落としていった」

 男が口元に笑みを浮かべながらも、悲しそうに目を深めた。

「そうして、彼を知り信仰する人々が攫ってきた輩、たった2人を除いて全員寿命を迎え、いなくなってしまった。それにより、彼の力は削がれ、大した力を持たなくなった彼を、攫ってきた輩は彼のおかげで栄えた自邸の蔵に閉じ込めたんだ。ご丁寧に、何かおかしなことをしても出れないように呪符付きでね。そうして、彼を攫った輩たちもまた寿命を迎え生き絶え、彼の存在を知る人は誰もいなくなってしまった。ここからは、自分で想像できるよね?」

 もちろんだ。けど、それを想像するのはとても辛く、悲しい。

 信仰する人間を失った神は、力を削がれ消えていく。それは、現人神も例外ではない。

 最後の信仰者を失った翳は、だからこそあのような痩せこけた姿になっていたのだ。あと少し俺が彼を見つけ、助け出すのが遅かったらきっと彼は今頃、あの蔵で誰にも知られず、骨となっていたはずだ。

「…だから、あいつは俺にあそこまで執着してたのか」

 それなら納得できない気もしない。有り体に言ってしまえば、命の恩人ということになる。俺にとっての彼女のように。

 そう思うと、憎もうとしても憎めなくなってくる。我ながら厄介な性格をしているななどと考えながら、俺は首をかしげる。

「ちなみに、なんであんたはそんなことを知ってたんだ?」

「それは口で説明するのが面倒だからさ、ちょっと自分で見て確かめてきてよ」

 そう、にっこり胡散臭い笑みを浮かべて、男は俺の顔を片手で覆い、もう片手で刀印を作った。

「なっ…!いきなりやる…な」

 抵抗しかけている途中で、急激な眠気が襲ってくる。それに抗えず、俺は深い闇へと落ちていった。

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