第三章 力試し
俺が大きな「決意」をした直後。窓からコンコン、というなんとも軽やかな音が響いた。目を向けると、一羽の鴉が嘴で窓を叩いている。それに、俺は目を丸くした。
「は…?鴉…?」
俺は、生まれてこのかた鴉なんかを飼ったことがない。いや、むしろ鴉って飼うものなのか?
埒のあかないことを考えていると、彼女が若干…いや、かなり嫌そうな顔をしながらも窓を開けた。次の瞬間、鴉は彼女に向かってその鋭い嘴を突き刺した。
「痛…っ、ちょっとやめてよ。ここは人様の家なんだから、羽が飛んだら大変でしょ」
不服そうに羽をばたつかせる鴉に対して、彼女は眉を寄せる。
なぜ鴉に話しかけているのだろう。いや、そもそもなぜ彼女は鴉に攻撃されているのか。ぼけっとしている場合ではない。
助けに入ろうとしたその時、鴉から信じられない「声」が響いた。
「うるさい、小娘が。貴様、またもや姫様の言いつけを守らず無理をしおったな!なにやら面倒な呪詛も受けよって…!!」
忌々しげに放たれる「声」は、意外にも低く美しい声だ。いわゆるイケボというものだろうか。
「いやそうじゃなくて!!」
自分で自分の考えを否定して、俺は鴉を指差した。
「なんだ、こいつ!?」
すると、鴉はさらに気分を害した様子で、片翼を俺に突きつける。
「こいつとはなんだ、小童が。全く、小娘の周りにはこのような無礼極まりない輩しかおらんのか」
いや、どう考えてもそっちの方が無礼だろう。初対面でいきなり「小童」呼ばわりは、果たして無礼ではないのだろうか。
俺が訝しげに眉を寄せていると、彼女が苦笑まじりに鴉を鷲掴んだ。
それにも、鴉は抗議の声を挙げているが、彼女は綺麗に黙殺している。ある意味すごいと思う。
「…ごめんなさい、この子は私の師匠の…式、のようなものなんだ。少し口と態度が悪いけど、一応根はいい子だよ」
「少し、ねぇ…」
軽く嘆息して、俺は肩をすくめた。どう考えても少しではないだろうが、まぁ今それを気にするべきではないだろう。
「して、小娘よ。姫様が呼んでいたぞ。今すぐに参るのだ」
鴉の言葉に、彼女はとてつもなく嫌そうに顔をしかめる。ああ、これで三度目だな。彼女が「笑う」以外の顔をしたのは。
「えー…嫌だな。絶対に叱られるでしょ、それ」
それに、鴉は憤然と息をつく。
「ふん、元はと言えば貴様が姫様の怒りに触れるようなことをしなければ、叱責を受けることもないのだぞ?自業自得というものだ」
鴉の言うことはご尤もだ。しかし、彼女がそれを素直に受け止めるかどうかは違うらしいが。
彼女はものすごく「綺麗」な笑顔を浮かべていた。
「君の言っていることはこの上なく正論だとは思うけど、私としては行きたくないな?」
「むっ…、あいも変わらず聞き分けのない小娘だ。やはりいけ好かぬ…少しばかり制裁が必要か」
鴉の瞳が苛烈に煌めいた。それに応じるように、鴉の周りに強い霊力がほとばしる。
彼女は、相変わらず綺麗な笑顔を浮かべている。
俺は焦っていた。これはただの勘だが、この鴉はきっとそこら辺の雑魚妖怪たちよりも強いだろう。そんな奴と彼女が戦えば。きっと俺の部屋…いや、家が崩壊する。なんとしても止めなければ。
「お、おい…」
俺が止め入ろうとしたその時、彼女が口を開いた。
「静止。霊力を拒否、もしくは奪い取りましょう」
その「言霊」に、鴉は動きを止めた。否、正確には動きを…霊力を、封じられたのだ。
それに、鴉は忌々しげに翼をばたつかせた。彼女は苦笑する。
「ごめんね?流石にここでやるわけにはいかないから。わかったよ、どうせ逃げ切れないんだろうし、大人しく師匠のところに行く」
それで満足でしょ?と、彼女は穏やかに微笑んだ。鴉は、ふん、と息をひとつつく。これは、きっと肯定の意味なんだろう。
「はぁ…もう、なんか…なぁ…」
なんだか遣る瀬無い気持ちになって、俺は大きなため息をついてしまった。彼女は首をかしげる。
「どうしたの?私なんかしちゃったかな…」
一応、ちゃんと戦闘前に止めたんだけど。と、困ったように微笑む彼女に、俺はもう一度ため息をつく。それにも彼女は、笑みを深くしただけだ。
そこで、男がいかにも愉快そうに笑い声をあげた。
「気にしなくていいよ。彼はただ、自分の非力さを実感しているだけだから」
図星を突かれ、俺は言葉を詰まらせる。
いや、これは本当に仕方ないと思う。もう開き直って言い訳をしてしまうが、同い年で、しかもどこからどう見ても普通の「女の子」に、ここまで実力差を感じさせられれば、流石に堪えるものがあるのだ。
口をへの字に曲げていると、彼女が苦笑した。きっと、彼女にとってはどうしようもないことだろうけど。どうしても、遣る瀬無い気持ちになってしまう。俺はまた、一つ大きなため息をついた。
「…さて、君はこれからお師匠さんのもとに行くのかな?」
男が彼女に聞いた。それに、彼女は若干顔を引きつらせながらもうなづく。やはり、どうしても嫌らしい。そこまで会いたくないものなのかと、俺はかかる首を傾げてしまった。いや、もちろん俺だって師匠である男にはできる限り会いたくはないとは思っているけれど。
「はい、行きますよ。本音を言うと、ものすごく嫌ですけど…」
「ふふ。君も存外、頑固だよなぇ。そういうところ、君のお師匠さんによく似てる」
それに、彼女は「う…」となんだかとても複雑そうな声をあげる。なんとなく、俺には彼女の気持ちがわかった。きっと、喜びと悔しさの半々なのだろう。彼女も、自分の師に対して憧憬心が全くないというわけではないはずだ。俺だって、一応尊敬はしている。好きか嫌いかで聞かれれば嫌いだが。
兎に角。
「なぁ、それって俺も一緒に行ってもいいか?」
彼女としては、きっと思いがけない申し出だったのだろうか。目を瞬かせている。
「別に…私としては構わないけど…ねぇ、いいかな?」
と、彼女はすぐ隣で羽繕いをしていた鴉に向かって問いかける。すると、鴉は「む…」と、小さく唸った後、小さく頷いてみせた。
「まぁ良いだろう。姫様は寛大なお方だ。きっとお許しになるであろう」
大仰に翼をばさばさと動かして、鴉はそれはもう勢いよく俺を指?さした。
「貴様のような小童にも、姫様の偉大さをわからせることができるからな!」
憤然と言い切られ、俺は軽く引いた。失礼かもしれないが。
「こら。そんなに緊張されるようなこと言わないの」
苦笑し、彼女は鴉を抱き上げた。わりと容赦無く翼ごと鷲掴みにして。
「じゃあ、行こっか。高天原に」
「は…?」
今なんて、と。己の耳を疑っていると、彼女はそんな俺を構おうとせずに、なんか知らないけど術で空間を開いた。丁度人一人分くらい通り抜けられる程度の大きさだ。空間の中は虹色に輝いてる。いや、一体どうやってこんな大きさの空間をぽん、と作れるのか。
俺が硬直しているうちに、彼女と鴉はその空間の中に慣れた様子で入っていってしまった。
「えぇい、もうヤケだヤケ!」
半分ほど諦めて、俺は大股でその空間へと足を踏み入れた。俺が足を踏み入れ、空間が閉じてしまう直前、男の声が聞こえた。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
次に目の前に広がっていたのは、市場のようなものだった。それは多くの人ならざるものたちによって賑やかに開催されている。
市場の他にも、茶屋や居酒屋のようなものもある。はっきり言って人間たちのものとなんの変わりもない。
なんだか複雑な気分だ。
あ、やばい。こんなところで突っ立っている場合じゃなかった。彼女はどこだろうか。辺りを見渡し、彼女を探す。すると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、視界いっぱいに広がったのは無数の目玉。俺はあまりに突然すぎて硬直してしまった。
目玉の妖は、俺をジロジロと上から下まで舐め回すように見てくる。俺はどうすることもなくただ冷や汗を流していた。
「己、人間か?なぜこのような場所にいる」
低い声音に、相手が苛立っていることがわかった。だが、ここで黙って怯えているようでは、仮にも陰陽師としては情けない。俺は、どの目を見て良いかわからないが、とりあえず目の前にあった二つの目を毅然と見つめた。
「人に連れられてきた。少し野暮用があるんだ、怪しいもんじゃねぇさ」
すると、目玉の妖は無数の目玉をすっと細め、しばらく無言で俺を見つめ始めた。
しばらくお互いに無言で見つめ合っていると、目玉の妖が大きなため息をひとつつく。
「ふぅ…あいわかった。己の肝の太さに参ったわ」
「そりゃどうも。色々合って昔から肝だけは据わっとるんで」
俺が少し得意げに胸を張ると、目玉の妖は目を眇める。
「けっ、そりゃ
「…ところで、ここはどこなんだ?」
俺が首をかしげると、目玉の妖はものすごく恐い顔をした。
「なんだって〜!?己、ここがどこだかわからんで人に連れられてきたと言うか!?」
その驚きように、俺は少し不服に思って唇を尖らせる。
「いや…一応高天原だってことはわかってるんだけど、本当にそうなのかと思って…」
「己は大馬鹿者じゃ!!!このような場、かの高天原ととり間違えるでないわ!!!」
空気がビリビリと声量によって振動する。
目玉の妖の馬鹿でかい声に、俺は思わず目をつむり、耳を塞いだ。
「ここは…高天原を城と例えるならば、いわば城下町。様々な種族の妖が商いをしている場じゃ。役200年ほど前、神々の最高神、天照大御神様がこのような場をお造りあそばれたのじゃ…おかげで、わっしゃら妖たちは、ある程度の自由が許され、この場で店を出すことができておる」
その話に俺は、感心して、何度も頷く。なるほど、あの有名な女神はそんなにも優しいのか。というか、別に高天原じゃないわけじゃないんだからいいじゃないか。あそこまで怒らなくても。若干不服に思いながらも、とりあえず殊勝な態度を取っておく。
「ふむ、なるほどな。それは申し訳ないことを言った。ごめんな」
俺が小さく頭を下げると、目玉の妖は満足げに腕を組み、鼻から息を吐き出した。
「わかったのなら良い。それよりも、己は人に連れられてきた言うたが…はて、己の連れはどこにおる?」
その言葉に、俺ははっとしすぐに辺りを見渡す。
「あっちゃー…まずい、確実に見失った…」
悲しみに打ちひしがれていると、目玉の妖が少し気の毒そうに俺の方をポンポンと叩いてくれた。
「まぁ…そう落ち込むな。そのうち見つかるであろう。わっしゃも探すのを手伝ってやる」
ありがたい申し出に、俺はそれまで硬かった頰を緩める。存外、この妖はいい奴そうだ。
「ありがとう、助かるよ。えっと…特徴は」
と、彼女の特徴を口に出そうとしたところで、後ろから誰から肩を叩かれた。あれ、なんだかさっきもあったような…。
首を傾げながら振り返ると、そこには彼女がいた。
「あ、見つかった。よかった…」
俺がほっと息をつくと、彼女は申し訳なさそうに笑う。
「ごめんなさい、置いていっちゃって。ここは妖が多いせいで、気配を辿るのが難しいから」
「いや、こっちこそ面目ない。俺が連れて行ってくれ、なんて行っておいて迷惑をかけて」
俺たちの会話に、目玉の妖はうんうんと満足そうに頷いている。
「連れが見つかったようでよかったな。にしても、連れも人間だとはおったまげた…って、ん?」
目玉の妖はじっと、彼女の顔をまじまじと見つめる。彼女は虚をつかれたような顔で、されるがままだ。
しばらくの間彼女の顔を見つめていた目玉の妖の目玉が、徐々に見開かれていく。それに、俺は首を傾げた。というか、全部の目玉が見開いたので少し気持ち悪いと思ってしまった。面目ない。
それはさておき。
どうかしたのかを尋ねようとしたが、目玉の妖が遮るように大声をあげた。
「己は…否、貴女様はもしや泣沢女様の姫様のお弟子さんで!?」
「泣沢女…?」
確か、女神の名前だったはずだ。昔男から半分強制的に読ませられた古事記などの、普通の男子中学生たちが読まないような本たちを読ませられた際に、出てきていた記憶がある。
記憶が正しければ、伊弉諾尊が妻である伊弉冉尊の死による悲しみによって流れた涙から産まれた女神だったはずだ。
それと、彼女の師匠になんの関係があるのだろうか。「泣沢女の姫様」と、目玉の妖は言っていたが。
「うーん、なんか物凄い呼ばれ方だけど、まぁそうだよ」
頭の中が疑問符でいっぱいな俺を放っておいて、彼女は複雑そうな笑みを浮かべている。
「ははぁ〜…なるほど。道理で人間がこんな場に入ってこれたわけだ。貴女様がいればそれはもう容易いことだったでしょう」
どうやら、彼女はここでは随分と有名な人物らしい。そして、きっとえらい人だ。
だが、ここまではわかっても、さすがに全てを理解できるほど俺は賢くも、察しがいいわけでもない。軽く説明をしてほしいものだ。
そう思いながら彼女へと目線を向けると、彼女は俺の訴えに気づいたのか、一つうなづいた。
「あのね、私の師匠は泣沢女神と人間の娘なの。要するに、半人半神」
数泊おいて、俺は大きく目を見開いた。
「はぁ!?」
ちょっと待て。そもそも、人間と神は子供を作れるのか?それ以前に何があってそうなった。いや、どうせお互いに深く愛し合ってもう離れられないー、的なことになって子供ができたんだろうけど。
色々突っ込みどころが多すぎて、頭がこんがらがりそうだ。
きっと、俺の顔は百面相を作っていたのだろう。彼女が可笑しそうに笑っている。
それに目を眇めて、少し熱を持った頰をできるだけ早く冷ますように努めながら、俺は咳払いをひとつした。
「んで…要するに、あんたは神のお孫さんに陰陽術やその他諸々を教わったと」
「そういうことになるね」
少し苦笑まじりに、彼女はうなづいた。それに、俺は心の中でガッツポーズをしてしまった。理由は簡単。これで俺が彼女よりも弱くてもいい証明になるからだ。いや、だって…神のお孫さんが師匠とか、普通に反則だろう。そりゃ強いに決まってる。よし、大丈夫だ。まだ完璧に心は折られることはない。きっと、あの男は一応人間ではあるだろう。そう信じよう。うん。
一人で勝手に様々な想いを噛みしめていると、彼女と目玉の妖が首を傾げた。
それを合図に、俺は一度心を落ち着かせるために目を閉じ、すぐに開ける。
「よし、とりあえず一旦頭の整理がついた。待たせちまったようで悪かったな」
「大丈夫だよ。それじゃあ、今から師匠のところに行くけど、もう平気かな?」
正直言って不安でしかないのだが。まぁ、大丈夫だろう。人生何事にも挑むべきなのだから。
うなづいた俺に、彼女は満足そうに笑った。俺は、目玉の妖に軽く頭を下げる。
「色々迷惑かけて悪かったな。仕事中だったろうに…」
「なんのなんの。己のお陰で普段だったらお目にかかれないお方に逢えたのじゃ。むしろ感謝しておる」
人の良さそうな笑みを浮かべて、目玉の妖は何度も感慨深そうに頷いている。
「そう言ってもらうとありがたい。じゃあ、また今度会う機会があったらよろしくな」
「おうよ。達者でな」
ゆるく手を振りながら、俺は目玉の妖に背を向けた。
彼女と肩を並べてしばらく歩いていると、来た時には一緒だったはずの鴉がいないことに気がついた。
「あれ、あの鴉は?」
俺が首を傾げ、辺りを見渡してみても、やはり鴉はいない。まさか、俺と同じように迷子になったのだろうか。
「ああ、あの子なら先に師匠のところに戻ったよ。師匠に来客があることを知らせてくる、って言って」
なるほど。たしかになんの準備もしないまま誰か知らない奴が来ることになれば、多少なりとも驚くだろう。
俺は彼女の返答に、小さく頷いた。そして、バツが悪そうな顔をしてしまう。
「なんか…申し訳ないな。急に尋ねるような形になっちまって」
それに、彼女は楽しそうに笑う。
「大丈夫だよ、師匠は人が好きだから。むしろ君が来てくれて嬉しいと思うよ?」
「ならいいが…」
どうも歯切れの悪い俺に、彼女はニッコリと微笑む。
「君なら大丈夫だよ。君は出会ったばかりの私を護ろうと、こんなところまで来ちゃうようなお人好しだから。もしも君が私が目の前で呪いを受けていても平然とお礼も言わないような、あまり褒められない人間だったら、私自身今一緒にいないよ」
だから大丈夫。と、彼女は笑った。
恥ずかしいことをさらりと言ってのけた彼女に、俺は照れくさくなり、俯いてしまった。顔に熱が集まっているのがよくわかる。
そんな俺の様子には気づかない様子で、彼女は気分よさげににこにこと笑いながら歩いている。果たして、これは天然なのか、はたまた計算なのか。まだ出会ったばかりの彼女の思考…というか、性格は当然俺にはわからない。けど、これから時間をかけてゆっくりと彼女を知っていきたいと、俺は思った。
それからしばらく歩いていると、先ほどまでの市場とは打って変わって、いきなり雑木林が目の前に広がった。
その雑木林のそびえる木々の高さといったら…いや、これは高すぎるだろう。明らかにおかしいと思う。
唖然と口を開けている俺に構わず、彼女は静かに息を吸い込んだ。何をするのかと思ったら、彼女は突然、童謡『通りゃんせ』を歌い始めた。
雑木林全体に、彼女の澄んだ歌声が響き渡る。
俺はふと、歌っている彼女の表情を覗き込んだ。彼女の顔は、いわゆる「無表情」だった。それに、俺は息を呑む。今の今まで、彼女はずっと「笑う」という表情をすることが、圧倒的に多かったからだ。もちろん、「笑う」以外にもしていた表情はあったが。それでも、今のように完全に「無表情」なのは、初めてだった。
まるで、何も考えていない、見えていないかのように。彼女は淡々と歌っている。俺は背筋が凍った。なんだか形容しがたい恐怖を感じたのだ。
しばらくして歌い上げてると、先ほどまで目の前に広がっていたはずの雑木林が、忽然と姿を消していた。代わりに、一件の古く趣のある家が建っている。
「は?」
思わず、俺は間の抜けた声を出してしまった。いや、だって…もう、普通に想像の範疇を超えてしまっている。だが、彼女は現れた一件の家を前に何か覚悟を決めたような顔つきになり、拳をぐっ、と握りしめた。
「よし…もう何を言われても構わないようにしよう」
「おい…ここがあんたの師匠さんの家なのか?」
どうやら酷いことに、彼女はすっかり俺の存在を忘れていたようで、軽く目を見張った後、小さく頷いた。
それに若干の不服感を感じながらも、俺もそれに頷き返す。
そして、俺たちはその家へと足を向けた。
一人の美しい女性が、それまで閉じていた目を開いた。それにより、碧みがかった美しい瞳が露わになる。腰まで伸びた艶やかな黒髪を女性は緩く一つにまとめた。立ち上がると袂や袴同士が擦れ合うことが心地よい。
「…いつになったら入ってくるのかな?」
首を傾げて、女性は自室を後にした。
先ほど覚悟を決めたように見えた彼女は、かれこれ例の家の玄関の前で、引き戸を開けようかどうか手を彷徨わせている。
その様子に、俺は思わずため息をこぼした。いや、さっき覚悟決めてただろうが。あれはなんだったのだろうか。
目をすがめる俺に気づいたのか、彼女が若干気まずそうに目をそらした。
「あのさ、そんなに嫌なの?」
もちろん、俺だって出来る限り仮にも師匠であるあの男とは顔を見合わせたくはないけれど。彼女の躊躇いようは、俺のそれとは比較にならないほど露骨だ。
怪訝そうに眉根を寄せた俺に、彼女は困ったように笑う。
「うん、まぁ…やっぱり、叱られるのがわかっていて行くのは、誰でも嫌なものでしょう?」
もっともな意見だと、俺は思う。だが、それと同時にいつまでもこうしていても埒があかないとも思った。
そんなことは、彼女もわかっているようで。ようやく彼女が引き戸に手をかけた、その時。引き戸が少し勢いよく開いた。
「全く…いつになったら入ってくるのかと思ってしばらく待っていたというのに、少しも玄関先から気配が動かない。痺れを切らしたよ?」
憤然と言い切ったのは、とんでもなく綺麗な女性だった。
緩くまとめてある黒髪は艶やかで、肌は透き通っている。碧みがかっている瞳は丸く大きく、薄紅色の唇はみずみずしい。全体的に青を基調とした、白い花が咲いている袴を身にまとっている。年の頃は二十代前半から中盤ほどだろうか。
女性は俺に目を向けると、小さく頷いた。
「あなたがお客様だね?どうぞ、遠慮なさらずお入りください」
優しく微笑まれて、俺は硬直した。今の今まで、俺の人生でこんな美人と話したこと、基、顔を合わせたこのなどない。固まってしまっても別に無理もないだろう。
早鐘を打つ心臓を努めて落ち着かせて、俺は無言で首肯した。
中に入ると、先ほどの鴉が台所で水浴びをしていた。
「あ」
思わず俺が指をさしてしまうと、鴉がものすごい勢いでこちらに飛んできた。そして、思いっきり額を嘴で突かれた。
「いってぇ…!!」
額を両手で抑え、涙目になり悶絶する俺に、鴉は未だに水しぶきをあげながら、目の前で羽を羽ばたかせている。
「何するんだよ、いきなり!」
目尻を吊り上げて言った俺に、鴉はふん、と偉そうに鼻息を荒くした。
「貴様のような小童が我を指差すとは何事か!制裁を加えてやったまでのことだ」
なんとも理不尽な理由に、俺は呆れて物も言えなかった。
「こら。お客様にそんなことをしたら…どうなるのかわかっていてやったんだよね?」
冷ややかな空気がすぐ横から感じられた。見ると、女性がにっこりと美しい笑みを浮かべ立っている。何気なく女性の瞳に目を向けると、「碧みがった」から「碧く」色が変化していた。
本当に、この人はただの人間ではないのだと思い知らされる。
鴉が女性の言葉を聞き、静かに机の上に舞い降りた。そして、器用に右翼を折り曲げ、軽く頭を下げる仕草をする。
「申し訳ありません、姫様。そこの小童が礼儀がなっておらなんだ」
あくまでも素直に謝ろうとはしない鴉に、女性はため息をついた。
「ごめんなさいね。この子は少し素直じゃない上に、礼儀に厳しいものだから」
苦笑まじりに言われた言葉に、俺は内心でショックを受けた。言外に、俺は礼儀がなっていないと認められているようだ。悔しいが、突然家に訪ねてきた上に、なんの手土産もなく、会ったときにじろじろと顔を見たりしていたら、当然礼儀がなっていないと思われても文句は言えるまい。
「精進します」
軽く頭を下げる俺に、鴉は偉そうに踏ん反り返る。
「分かれば良いのだ、分かれば」
「けれど、お客様にさっきの態度はいただけないことは変わらないから、あとでお説教ね?」
それを聞いて、鴉は今度こそ項垂れた。それを見て、彼女が気の毒そうな視線を鴉に向ける。
そんな二人の様子を黙殺して、女性は台所に立ち、お茶を入れる用意を始めたようだ。
それに気づいた彼女が、女性の隣に立った。
「手伝いますね」
「うん、お願い」
俺は一瞬手伝おうかと思ったが、そもそも道具などがどこにあるのかを知らない。邪魔になるだけだろう。
申し訳なく思いながら、俺は座るわけにもいかずに台所の入り口付近で立ち尽くしていた。すると、女性がそれに気づいたようで薄く微笑する。
「座っていて大丈夫だよ」
「あ、はい…すみません、何にもできないで」
ぺこりと頭を下げ、俺は言われた通りに椅子に座った。
そして、それまで項垂れていたはずの鴉が急にピクリと体を動かし、翼を羽ばたかせ始めた。
「全くだ」
「はいはい。叱られるような奴には言われたくはないけどな」
若干イラっときたので、少し嫌味な言い方をしてしまった。それに対して、鴉はぐっと言葉を詰まらせる。何かを言い返そうとしているようだが、本当のことなので言い返せないのだろう。
内心すっきりして、俺は満足げに笑う。それにも、鴉は不服極まりない様子だ。ふむ、これは面白い。
「あはは。意外と性格悪いね、君」
用意してくれたお茶を俺の前に置きながら、彼女が面白そうに笑った。それに、俺は苦笑する。
「それは褒められてる気がしないんだが…」
「まぁまぁ。そんなに細かいことは気にしないの」
言いながら、女性が席に着く。彼女が女性と自分のお茶を置いてから、同じように席に着いた。
「さてと。まずは、あなたが受けた呪いについて聞こうか」
彼女はそれに少し困ったように微笑むと、これまでに起こったことをゆっくりと話し始めた。
全て話し終えると、女性はすっかり冷めてしまったお茶を飲み干した。
「…そう。それで、あなたはこの子を助けようとしている、と」
突然話を振られ、俺は戸惑いながらも頷く。
「それは、今本人から聞いた話によればとても難しことだと思うけど、それでも?」
試すような、そんな視線を向けられる。確かに、この人からすれば大切な弟子を助けようとしている人間が、信頼に値するような人物なのかは気になるだろう。
俺はそんな女性の視線をしっかり見つめ返す。出来るだけ、俺の気持ちが伝わるように。
「はい、そのつもりです」
女性はそんな俺の目をじっくりと見つめ返し、満足そうに微笑んだ。
「そう、なら良かった。ちゃんと覚悟もできてるみたいだしね」
それに、俺はほっと肩ををなでおろす。伝わったようで安心した。
「それじゃあ、力試しと行こうか」
彼女の言葉に、俺は首をかしげる。
「力試し…?」
「うん。あなたの実力がどれだけのものなのか知りたいの。ただの興味本位だから、あんまり気負わなくても大丈夫だよ。あ、ただし全力でやってね?」
にこにこと楽しそうに笑う女性に、俺は唖然と口を開けた。
「あの…先に言っておきますけど。俺は貴女はもちろん、貴女のお弟子さんよりもよほど弱いですよ?」
我ながらなんて情けないことを口走っているのだろうか。ああ、強くなりたい。
情けない顔をしているであろう俺の様子に、女性は首をかしげる。
「そんなのわかってるよ?この子は他ならぬ私の弟子だもの。この子の強さは誰よりもわかってるよ。それでも気になるものは気になるの」
「はぁ…」
憤然と言い切った女性に、俺は逡巡した。
はっきり言って、きっとこんな機会そうそうないだろう。あの男以外の自分よりも妖以外で格上の相手と戦うのはいい経験だし、自分の実力も改めてよくしれる。
迷った末に、俺は頷いた。
「それじゃあ、お願いします」
俺の出した答えに、女性は嬉しそうに微笑んだ。
「よし、決まりだね。それじゃあ場所を移動しようか」
それに、俺たちはその場を後にした。
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