第4話 名無しの少年
私は名前を憶えていないと言うの男の子をまじまじと見た。男の子は苦笑していたが、どこか悲しみがあった。その証拠として、涙が一滴、頬に滴っている。
「名前、覚えてないの?」
男の子は静かに頷いた。苦笑はもう消えていた。今にも目から涙が溢れでそうだった。
私は恐る恐る手を伸ばし、男の子の手を取ろうとした。だが、男の子は手を引いて取らせまいとした。
今は何もしない方がいいのだろう。
私はただただ立っているだけであった。
「どうしたの?」
慌ててルナが部屋の中から出てきた。話を聞いていないから能天気でいられるのだろうが、私たち二人はそんな気分になれなかった。
ルナは空気を読めず、私と男の子を不思議そうに交互に見ていたが、何往復かすると、微笑んで見せて、男の子の手を取った。
「槍を投げて危ない目にあわせてしまってごめんね?だから次は君の部屋を案内するよ」
ルナは男の子を連れて、廊下の闇に消えていった。
取り残された私は、二人の消えた方向を見ながら佇んでいた。
私のように空気を読みすぎて何もできずにいるよりも、ルナのように能天気で手をつないでいく方がよかったのかもしれない。
ふとそんなことを考えてしまって、心が縛られたような気がした。
僕は悲しい気持ちのまま、ルナに連れられて、自分の部屋を案内された。
部屋の色は、僕の気持ちと正反対で真っ白だった。壁も、床も何もかも。
洗面所に行くと、鏡に自分が映し出されて、自分がどれだけ暗い顔をしていたのかが理解できた。今の僕はとても醜い。
作り笑いをしようとしたが、顔の筋肉が強張って引きつったような表情になってしまった。
真上を見ると、黒い雲が浮かんでいて、今にも雨が降ってきそうだった。
「大丈夫?」
隣で見ていたルナが不安そうに聞いてきた。
僕は頷こうとしたが、なぜか頷くことができなかった。目から涙が溢れだしてきた。涙は、上流の川のようにちょろちょろと頬を伝って、顎に来ると、雫になって落ちていった。
今まで泣きまいしてきたが、もう耐えきれなかった。
――僕は何で記憶が無い?なぜ母親に殺されそうにならなければならない?なんで僕は名前を憶えていない?
僕は崩れ倒れてルナに抱き着いた。ルナは一瞬驚いたが、優しく微笑むと、僕の頭を撫でてくれた。とてもやさしくて、心地よかった。
しばらく僕はルナの腕の中で泣きじゃくっていた。そして治まると、ルナは腕を解いて立ち上がった。
「何のことで泣いてたの?」
僕は苦笑した。
「何でもないよ」
「嘘、理由がないとあんなに泣くわけがないもの。でも……」
ルナは複雑な表情をした。
「まだ心の底から苦しんでいるわけじゃなさそうね」
喜べばいいのか悲しめばいいのかよくわからなかった僕は、無表情でルナを見上げていた。
「それより、何で泣いていたの?」
僕はうつむいておどおどしながらも言うことにした。
「僕は今までの記憶が全くなくて、名前も憶えていないんだ」
見上げると、ルナは目を光らせていた。
嫌な予感しかしなかった。
「ルナ、何を考えているんでしょうか?」
「私が名前を付けてあげようと考えています」
僕は大げさに首を振った。女の子に名前を付けられると言うことに悪い予感を感じたからだ。
ルナは腕を組んで、顎に人差し指をつけて考え始めた。
「そうねぇ、『ロナ』でいいかしら」
「絶対ダメ!」
嫌な予感は的中。きっとルナは僕に可愛い名前を付けるだろうと思っていた。
ルナは頬を膨らませて私を睨んできた。そして徐々に顔を近づいてくる。このままキスしてしまいそうな距離まで来て、ルナはにやにやと笑った。
「今、いやらしいこと考えてたでしょ?」
違うと言えば嘘になるので、目を反らしてごまかした。
「それで、あなたの名前はこれからロナでいいわね?」
僕は激しく首を振って拒絶した。
「こら、名付け親にそんな文句言わないで」
僕は立ち上がってルナを睨んだ。
「言いたくなるよ!男にそんなかわいらしい名前をつけられたら黙ったもんじゃない!お前には男女の名前の区別もできないのか!?」
すると、ルナは涙を浮かべてしゃがみこんだ。
今更だが、ルナの身長は僕の腹までしかない。そりゃあそうだろう。僕は十五歳で彼女は五歳である。今まで幼稚で、且つ女の子と対等に喧嘩していた自分が恥ずかしくなってしまった。
色々な意味で自分は上なのだから彼女よりも良くしていなければならない。
そう僕は決心して頷き、ルナに向かって手をなばした。
「ごめんな。兄さんが悪かった。名前はもうロナでいいよ」
ルナは苛立ったように眉根を上げて、僕を睨みつけてきた。
僕は何か悪いことを言っただろうか?
「兄さん?なんでロナが私の兄さんなの?」
僕は一歩後退った。
「いや、そういえば僕が十歳年上だなと思って……」
ルナは立ち上がると、僕に一歩一歩大きな音を立てながら寄ってきた。
「さっき矢をなげたときに顔を突き抜ければよかったなぁ」
ルナの背後には炎が燃え上がっているような気がして、今の僕には彼女は恐怖でしかなかった。
「ま、待ってくれ。僕は兄さんじゃない。それでいいだろ?」
しばらく顔を近づいて来られ、睨みつけられたが、ドアが開けられた瞬間に顔を離してくれた。
「しょうがないわね。許すわ」
最初の時は無邪気で可愛かったが、今のルナは悪魔そのものだった。そういえばレナも悪魔である。
「さっきから大きな足音がしたんだけれど大丈夫?」
ドアの方を見ると、レナが心配そうに見ていた。
「レナが何か悪いことをしなかった?」
レナが入ってくると、ルナは、微笑んで僕を指差してきた。
「こいつの名前決めたよ?ロナっているの」
「ロナ?」
レナも僕と同じことを考えているのだろう。男のくせに女の名前と言うことを不満に考えているのだろう。
すると、レナは僕の方を向いてきた。そしてにやりと笑うと、目を反らした。
――誤解されているような気が!
「ち、違うんだ。僕が……」
「何が違うの?ロナでいいって認めたじゃん」
振り返ってきたルナもにやりと笑っていた。
僕は歯を食いしばってにやりと笑って見せた。
「二人とも、一応俺は兄でもあるからな?」
それを聞いてレナはフッと鼻で笑い、僕を嘲笑うようね目で見て来た。
――やめてくれ、そんな目で見られたら死んでしまう!
レナは、首を小さく傾げて満面の笑みを見せてきた。
「それじゃあ、私は『兄ちゃん』と呼ぶね?」
――やめろ!それはある意味で僕が死んでしまう。
「やっぱりロナという名前は駄目だ。変えさせてくれ」
「駄目!もう決めたんだから」
僕は何度も名前の変更を願ったが、ルナもレナもそれを拒否された。
この時に僕は一つ余計なことを学んだ。名前を子供につけさせてはいけないと。子供は、名前の重要さを分かっていない。
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