九話 友愛
※
「これだ、これだぜシノミヤ博士!! 腹の底から力がみなぎる……! このクスリがあれば、あの真祖をブッ殺せる!」
鼓膜をビリビリと震わせる、ヴィクトルの咆哮。モニター越しだというのに、白衣の下で肌が粟立った。
手元の計器類は全て私が予測した通り、いや、それ以上の数字を指し示していた。
人間では辿り着けない境地。ダンピールでさえも、ここまでの力を発揮するのは不可能に近い。それを、私はやってのけた。
……でも、
「あのダンピールの彼……自分の身体がボロボロになっていることに気がついていないのかしら」
「あなたはッ、きゃあ!?」
ぼんやりと考えていたことを、知らない声が代弁する。驚きのあまり椅子から転げるように落ちて、床に尻をしたたかに打ち付けてしまった。
鮮やかな赤に映える、雪のような肌。甘く熟れた女の色香を纏いながらも、無垢な少女を思わせる肢体。
真紅の髪を綺麗に編み込んだ彼女が、何を思ったのか私に手を差し伸べてくる。
「あらまあ、大丈夫? 怪我はしてない?」
「……どうして、こんなところに居るんですか。
差し出された手を叩く度胸がない私は、なけなしの勇気を振り絞って彼女を睨みつける。ただの人間、それも科学者でしかない私に出来る抵抗など、それくらいだったから。
でも、夫人は不思議そうに首を傾げるだけ。私に危害を加える素振りはない。
「あなた、不思議なことを言うのね。普通は目の前に吸血鬼が現れたら、人間は泣き叫ぶか、助けを呼ぶか、命乞いをするかのどれかじゃない? どうしてこんなところに、なんて聞き方……普段わたくしがどこに居るかをご存知でいらっしゃるかのようね」
「そ、それは」
「うふふ、お顔が真っ赤だわ。あなただって、殿方に愛してもらう経験がないわけじゃないでしょう? ……それとも、昨夜が初めてだったのかしら」
ドレスの裾が床につくのも構わず、しゃがみこんだ夫人が伸ばした指で私の項の辺りを擽った。
少女のような戯れ。しかし、たったそれだけの刺激でもこの身は浅ましく昨夜の熱を思い出して震えてしまう。
「まあ、可愛らしい。さぞ大切に、それでいて情熱的に愛し合ったのね! 羨ましいわ、わたくしも彼と愛しあいたい! 真祖であるわたくしなら、ダンピールと交わることって出来るのかしら。ねえスミレ、あなたはどう思う?」
「ど、どうして私の名前を」
「もちろん知っているわ! わたくし、今日はあなたに会いに来たのだから」
にこにこと笑う夫人に、頭痛さえ感じた。彼女は教会の暗部を支配していると言っていい。私を殺すことなんて、彼女にとっては花を手折るよりも簡単な筈。
恐怖に、カタカタと奥歯が鳴る。でも、彼女の言葉に私はすぐに恐怖を忘れてしまった。
「うふふ、お仕事中にするお話じゃないわね。では改めて、スミレはこのままでいいの?」
「このまま、とは」
「ヴィクトルよ。彼、このまま薬……ダンピール強化剤、だったかしら。それを使い続けていたら、とてもじゃないけど長生き出来ないわ」
彼女の目が、モニターに映るヴィクトルを見つめている。ここに夫人が居ることなど想像もしていないのだろう、向上した自分の身体能力を確かめるように剣を振っている。
薬は確かに完成した。でも、これは失敗作だった。
「お薬は確かにヴィクトル……ダンピールの能力を底上げしているわ。今の彼が目の前に居たら、わたくしでも殺されてしまいそう」
「でも……代償が大きすぎる」
「ええ。難しいことはわたくしにはわからないけれど、あの薬を使うたびに彼の命は大きく削られていく。このまま使い続けたら、すぐに生命の全てを使い果たしてしまうわ」
私は愕然とした。これまでの彼のデータは、まさに彼女の言うとおりの結果を示していたのだから。
「ねえ、スミレ。あなたは、ヴィクトルをどうしたいの? あなた、彼を愛しているのでしょう?」
「そ、それは」
夫人の問いかけに、私は何も言えなかった。床から立ち上がれないまま、思わず自分の肩を擦るように抱き締める。
それも、彼女の言うとおり。ヴィクトルにはライラというパートナーが居るにも関わらず、私は彼を愛してしまっていた。私を見てくれたあの人に、恋をしてしまった。
いずれ腐り果てるであろう愛のために、私は彼に身体を許し熱を強請った。一夜で満たされる大きさの恋心は、醜く膨れ上がってまだ足りないと喚いている。
だから、私は……
「私は、ヴィクトルを自分のものにしたい。どんなことをしてでも、欲しいの」
私は、はっきりと断言した。自分の胸の内で渦巻いていた感情は、言葉にすることで確固たる形を持ってしまった。
どす黒いという言葉すら生易しい。教会の人間だったら、馬鹿な真似はやめろと説得するか、監禁部屋に閉じ込められて反省を促されるかのどちらかだろうが。
「まあ、素晴らしいわ! スミレ、あなたはなんて素敵な女の子なのかしら! わたくし、あなたのことが大好きになりました」
「だ、大好きって……」
蝶が羽ばたくように、夫人の両手が私の手をとってぎゅっと握り締めた。華奢で可憐な手は意外にも温かく、徐々に身体から緊張の糸が解けていく。
「自分の命すら投げ捨てて、一人の殿方を愛する。そんな破滅的な愛し方は、人間にしか出来ないもの。羨ましいわ」
「そ、そう」
「わたくし、あなたとお友達になりたいわ。ああ、でも誤解しないで。隷属にするつもりはないから。もちろん、あなたが隷属を望むのならば叶えてさしあげるけれども。でもそれよりも、わたくしはあなたの恋を応援したいの! ねえスミレ、わたくしとお友達になってくださらない?」
どこにでも居る少女のようにはしゃぐ夫人に呆然とする反面、私の中の欲が舌なめずりした。
彼女の『応援』があれば、不可能だと思っていた絵図を現実のものに出来るかもしれない。
でも。なけなしの理性が、決断を阻む。
「……夫人、あなたの目的は何。教会はあなたと協力関係にある。ならば、あなたにも成し遂げたい目的があるのでは?」
真祖である彼女の考えなど、凡愚な私では想像出来ない。抗う力だってない。それでも、彼女の手の上で無様に踊らされるのだけは避けたい。
しかし、私の必死な抵抗など、彼女にとっては一息で吹き消されるロウソクの火でしかなかった。
「目的……そうね、わたくしにも目的はあるわ。わたくし、狂信者さまが欲しいの」
「狂信者を?」
「ええ! わたくし、退屈が嫌いなの。だから、そろそろ新しい
頬を両手で押える姿は、まさに恋する乙女なのだが。想像通り、理解出来ない思想を抱えているようだ。
……でも、それなら都合がいい。
彼女の目的が人間でないのなら。もう迷う必要はない。
「スミレはあなたの思うがままに、その恋心を貫いて。舞台はわたくしが全て整えてあげる。そうすればわたくしは狂信者さまを、あなたはヴィクトルを自分のものに出来る。どうかしら、わたくしとお友達になってくださるお気持ちにはなりまして?」
「ええ。むしろ、こちらからお願いしたいくらいよ」
「まあ! 嬉しいわ、ありがとうスミレ!」
感極まった夫人が抱きついてくる。甘く、柔らかい女の感触は同性でも夢中になってしまう。
友愛を示すために、彼女を抱き締め返す。理性の箍が、小さな音を立てて壊れてしまった。
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