七話 小さな温もり
突如聞こえてきた声に、呼吸すら忘れる程に驚いた。慌てて声の主を探すと、こっちよ、と一番奥のベッドに横たわる少女が俺を呼んだ。
ショートカットの金髪の少女。酸素ボンベを口につけているせいか、声はか細く今にも暗闇に消えてしまいそうだ。俺は意を決して、少女のベッドへと近づいた。
「こんばんは、侵入者さん。こんな格好でごめんなさいね。腕だけでも残っていたら、お茶とお菓子を用意するのだけれど」
「きみは、一体」
「わたしはエドナ。あなたは名乗らなくていいわ。人間か、吸血鬼かはわからないけど……この施設を壊しに来たのでしょう?」
エドナと名乗った少女に、俺はハッとした。エドナ・バレーレ。この子が、持ち出したカルテの少女だったのか。
確か彼女は、一ヶ月ほど前に出産していた筈だが。いや、それよりも。
「……どうして、俺が侵入者だとわかった?」
「ふふ、さっき『先生』たちが言っていたの。それに、目を塞がれると音に敏感になってしまうの。あなたの足音は知らない音だったから」
はにかむような笑顔で、エドナが言った。先生、というのは研究者のことだろう。
彼女の話によると、研究者たちはエドナたちを残して上の階へと避難したらしい。もしかしたらスタッフ専用通路があって、既に脱出しているかもしれない。
何であれ、彼女たちを見捨てたということに違いはない。怒り、悲しみ、嫌悪。色々な感情が、腹の底でぐちゃぐちゃに混ざっていくのを感じる。
でも、同時に背筋が冷たくなる。
「なぜ、俺がこの施設を壊そうとしているって思うんだ?」
「さあ、どうしてかしら。わたし自身が、それを望んでいるからかもしれない」
見てるでしょ、とエドナが続ける。
「ダンピールを生み出すためだけに、生かされている女性たち……皆、お金がないとか、親に捨てられたとか居場所を求めてここに来たのだけれど、こんな仕打ちを喜んでいると思う? 症状はそれぞれで、わたしは喋れるくらいには元気だけど……実は息を吸うだけで全身が痛いの。死んだ方がマシだわって思っちゃうくらい」
何も、言えなかった。俺は昨夜、この施設を破壊すると皆の前で宣言した。彼女たちを見殺しにすると決めた。でも、それは本当に正しいのだろうか。
ここで彼女たちに実験を繰り返していた研究者たちと、同じことをしようとしているのではないか。そんな不安に揺さぶられ、吐き気がしてきた。
人間であることを捨て、復讐者となったにも関わらず、まだ正義という建前を探そうとする自分がとてつもなく矮小に思えた。
「……この階に、何か燃やせるものはないか? 燃料でも、衣類でも何でもいい」
「衣類なら、リネン室にあると思うけれど。ああ、先生たちが言っていたわ。休憩室の空調の調子が悪くて、修理が終わる来週までストーブを使うって。だから、液体燃料を休憩室に置いておくって」
「休憩室か、わかった」
これ以上彼女と話していたら、自分の卑屈さにどうにかなりそうだ。さっさと終わらせてしまおうと踵を返したが、エドナが俺を呼び止めた。
「ねえ、侵入者さん。一つだけお願いがあるんだけど」
「……何だ?」
「わたしね、この前赤ちゃん産んだの。男の子。どうせ死ぬんだから、最後は一緒に居たい。目も見えないし、抱っこする腕もないけど。わたし、自分の赤ちゃんと一緒に死にたい。だから、連れてきてくれないかな?」
淡々と告げられる願望は、正しくも歪な母親のものだった。聞いてやる義理なんかない。ここに居る女性たちは全員殺す。そう決めたのだ。
でも、なぜだろう。胸が締め付けられるように痛む。
「……どこに居るんだ?」
この階に居るなら、連れてきてやる。そう言えば、エドナの表情がパッと明るくなった。
「ありがとう。あの子はこの階の一番奥の部屋に居る筈よ」
「わかった、様子を見てくる」
まるで泥水を飲んだような気分だった。悪夢のような部屋から出ると、丁度別の部屋から出てきたシスと合流した。
「あ、レクスさん。とりあえず、燃やせそうなものはある程度集まったよ。そっちはどう?」
「あ、えっと……」
「大丈夫? 何か、あった?」
思わず言い淀む俺に、シスが不安そうにたずねてくる。仲間とはいえ、彼女にこの部屋を見せるのは流石にためらう。
「いや、その……そうだシス、この部屋の中にあったメモに、ストーブの燃料が休憩室に置いてあるらしい。探してきてくれないか? 俺は奥の部屋を見てくるから」
「う、うん。わかった……レクスさん、無理しないでね」
シスに見送られながら、俺はさらに奥へと進む。すぐに見つかった。
ドアには、『新生児集中治療室』と書かれたプレートが貼ってある。ここで間違いないだろう。ドアを開いて、中へと入る。
覚悟を決めてはいたが、一号病室ほどの異様さはなかった。というより、集中治療室内は閑散としていた。
広い空間に、保育器が一台だけ置いてある。近寄ってみると、そこには一人の赤子が眠っていた。
「…………」
思わず、見入ってしまう。すやすやと静かな寝息が聞こえてくる。クローゼ村でも出産直後の赤子を見たことはあるが、あの時の赤子と何も変わらない。
ネームプレートにエドナの名前が無ければ、この子がダンピールだなんて考えもしないだろう。俺は棚から毛布を手に取り、保育器の赤子を抱き上げ毛布で包んだ。
小さな身体からは、命の温かさが溢れている。
「……この子はまだ何も知らない、何の罪も犯していない」
眠り続ける赤子と共に、集中治療室を出る。シスは休憩室で燃料を探しているのだろう、俺は赤子を疲弊した思考を休ませるように赤子を見つめた。
この子だけではない。エドナや他の女性たちもそうだ。彼女たちは被害者で、悪いのは教会だ。
本当にこのまま、赤子と彼女たちを殺すべきか。それとも。
「見逃す、か」
ぼんやり考えながら、俺は赤子を抱えたままエドナが居る病室へと戻る。エドナはすぐにこちらを向いて、小さく微笑んだ。
エドナの隣に赤子を置く。不自由そうに身を捩る彼女は、嬉しそうにころころと笑った。
「ありがとう、侵入者さん。赤ちゃんって、ミルクの甘い匂いがするって聞いたことがあるけれど、この子は消毒液の匂いがするわね」
「……可愛い子、だな」
「そう? 見えないからわからないけど、嬉しいわ」
「その目隠し、外そうか?」
「外されても見えないからいいわ。この子を産んだ時に失明したの」
何でもないことのように言うエドナに、俺は思わず頭を振った。
見逃してどうなる。彼女は手足が無い上に、目まで見えなくなってしまっている。ここから出ても、まともに生きていくことは難しいだろう。
ならば、赤子だけでも。そこまで考えて、吐き気がした。何を考えている。
真祖の隷属でありながら、ダンピールを助けようとしたのか、俺は。
「……もういいだろう、俺は行くから」
二人に背を向けて、俺は部屋を出ようと歩き出す。エドナが俺を呼び止めるが、聞こえないふりをしてドアノブに手をかける。
「気をつけてね、優しい侵入者さん」
「………」
返事はしなかった。部屋を出て、シスを探す。すぐにポリタンクを運ぶ彼女を見つけた。
「シス、手伝うよ。この階にはもう、めぼしいものはなさそうだ」
「ありがとう、レクスさ――きゃあっ!?」
下の階から凄まじい音が響き渡り、シスが小さく悲鳴を上げた。あまりの衝撃に、床が揺れている。
地震ではないようだが……まさか、ジェズアルドに何かあったのか。
「れ、レクスさん」
「急ごう。すぐにここを破壊し、撤退するんだ」
不安そうな顔をするシスを促し、準備を進める。液体燃料があれば、この階を吹き飛ばすことくらいは出来る筈。
作業に没頭することで、エドナたちのことを思考から追い出す。隣に居るシスは俺のことを気にしている様子だったが、結局病室でのことを聞いてくることはなかった。
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