十話 隷属の契約



「さあ、着いたよレクスくん」

「あの、神父様……ここって、教会ですよね」


 まるで風のように駆ける神父様に連れて来られたのは、診療所ではなく教会だった。

 温かな陽光に照らされる聖堂は幻想的だが、冷たい月光の下では不気味さの方が勝る。

 そんな聖堂を静かに進み、神父様が俺を祭壇の前に下ろした。右肩に激痛が走る度に、意識が飛びそうになる。

 このままでは、本当に死ぬ。それなのに、神父様は綺麗に微笑むだけ。


「うん、そうだよ。きみだけは赦すって決めたからね」

「それって、助けてくれるって意味じゃないんですか?」

「助けたじゃないか。きみは死ぬけど、まだ神に祈りを捧げるだけの時間は残っているからね。だから、存分に祈るといい。きみの祈りなら、神は必ず聞いてくださるとも」


 ああ、羨ましい! 神父様は立ち上がると、聖堂の中を歩き頭上のステンドグラスを仰ぎ目を細めた。


「死とは肉体を捨て、神の元へと還ること。レクスくんには授業で教えたけど、吸血鬼に死は存在しない。吸血鬼を待ち受けるのは消滅だ。つまり、私はどんなに祈ろうとも神の元へ還ることは出来ない。私に与えられた永遠は間違いなく神の祝福だが、同時に試練なんだよ。灰となり消えるその日まで、私はきみのような清らかな魂を、清らかなまま神に送り届けるなければならない」

「……そう言って、今まで何人の人間を手に掛けてきたんですか」

「数って、そんなに大事かい?」


 皮肉のつもりだったのに、神父様は不思議そうに首を傾げるだけ。マズい、この人は本当に僕を助けてくれる気がないらしい。

 いや、そうじゃない。神に祈りを捧げて死ぬ。それこそが救いだと信じているのだ。


「……このまま、何も出来ないまま、俺は死ぬんですか」


 死ぬ。ライラに裏切られて、無様に死ぬ。銃で撃たれた時は、神父様を護れればいいと思ったが、彼は真祖の吸血鬼だった。こんな弾丸など受けても死ななかっただろうし、避けることも防ぐことも出来ただろう。

 無意味だった。今までの努力も、何もかも。

 絶望。俺を穏やかに迎え入れようとする死。神父様の言うとおり、死に身を任せるのもいいかもしれない。


 でも、


「……いやだ」


 じわじわと、心を蝕む黒い感情。おぞましい憎悪が、俺を死から引き剥がそうとする。


 何が正義か、なんてどうでもいい。


 ――神の救いなんか、いらない!!


「うん? 今、なんて」

「怖い……怖いんです、神父様。神の慈悲があろうとも、死ぬのはやはり怖いんです」


 祭壇を汚す血溜まりに爪を立て、俺はこみ上げる笑いを必死に堪える。本当は死なんか怖くないし、今となっては生きることの方が余程恐ろしい。

 でも、それでも俺は生きたい。だが、この身体はもうすぐ死ぬ。血が流れ過ぎた。人間の医療ではもう打つ手がない。だから神父様も何もしないのだろう。


 ……それなら、別の方法で生をもぎ取るまでだ。


「神父、さま……あなたは、神が俺のことを赦してくれると言ってくれた。でも、俺の今までの行いを、本当に神が赦してくださるのでしょうか。いや、違う……俺は、死ぬのが怖いんです。このまま一人で終わってしまうのが怖いんです」


 残った力を振り絞って、神父様の方へ手を伸ばす。彼は吸血鬼。神の為ならば、どんな非道で残酷なことでもやって見せる外道。

 そんな人だからこそ、俺は賭けに出た。


「……ふむ。私にとって死というものは、絶対に手に入らない羨むべきもの。だが、永遠を知らないきみが怖がるのも無理はないか」


 何の警戒もせずに戻ってきた神父様が膝をつき、俺の手を取った。

 落ち着かせようとしてくれたのだろう。姿は変わっても、この手の温かさは変わらない。

 たとえ吸血鬼であろうとも、この人は変わらない。


 むしろ、人間の方がすぐに歪んでしまう。


「気休めにもならないだろうが、きみが死ぬまで、私がここに居てあげよう。そして祈ろう。きみが正しく神の元へ還り、安らぎを得られるように」

「ありがとうございます。でも……ごめんなさい、神父様。俺はまだ、死にたくないんです。だから」

「なに――ッ!?」


 刹那、神父様の表情が苦痛に歪んだ。俺の手を振り払い、自分の手を見下ろす。

 皮膚を噛み破られ、血が滲んだ自分の指に目を大きく見開いた。


「な、なにを……まさか!?」

「ふ、ふふ……神父様。初めて知りました。


 唇を濡らす血を大事に舐め、飲み込む。鼻を突く鉄錆臭さは一瞬だけ。まるで花の蜜のような甘さに、冷え切った心が蕩けるような感覚を覚える。

 だが次の瞬間、全身が燃え上がるような熱に襲われた。身体が無理矢理に作り変えられる。


「う、く……が、ああああ!?」

「レクスくん!! なんて愚かなことを、!?」


 神父様の両手が俺の首を掴み、そのまま床に組み敷かれる。呼吸が出来ない。体格や力は神父様の方が上だ。

 このままではろくな抵抗も出来ないまま、十秒もしない内に首の骨を折られて死ぬだろう。それは彼の目的に反することだが、仕方がない。

 俺はもう、死ねなくなった。


「吸血鬼の血は毒だ。それを口にするだなんて……いや、まさかきみの狙いは『隷属の契約』か!?」

「ふ、ふふ。神父様のそういう抜けたところって、素なんですね。演技だと、思ってました」


 ――隷属の契約。それが血の交換によって成立することは知っていたが、こんなにも上手くいくとは思わなかった。

 神父様がヴィクトル達の前で俺の血を口にしたこと、そして俺に対して完全に警戒を解いていたことによって成功した荒技だ。


「が、は……はは、そう。今から俺は、あなたの奴隷だ。神父様、俺はあなたの役に立ちたい」

「役に? ……一体、何を企んでいるのかな」

「あなたは、とても強い。知識も、俺なんかよりずっと豊富だ。でも、あなたが立っている場所は高すぎる。一人で何でも出来るから、見えていないところがある。だから、物事を思う通りに進められない」


 ぴくりと、俺の首を絞める指から僅かに力が抜けた。咳き込みながら息を吐くと、紅い目を真っ直ぐに見つめたまま話を続けた。


「俺は、あなたとは違う。少し勉強が出来る程度の、凡人だ。だからこそ見えるものも、出来ることもある。約立たずだと感じたら、いつでもあなたの手で始末すればいい。でも、ただヴィクトル達を殺し、教会を破壊したところで、人間は神への信仰を取り戻したりしない。あなたの理想の為には、科学そのものを失墜させなければならない」

「きみが居れば、それが出来ると?」

「やって見せます。俺は吸血鬼になってでも……安らかな死を捨ててでも、この身を焼くような憎悪を、視界を塗り潰す程の屈辱を味わわせてやりたい!」


 ああ、そうだ。自分の言葉にすることで、心を蝕む黒い感情がやっと形になってきた。

 そして、この感情が望むものは、たった一つだけ。


「俺は、あいつらに……自分の利益の為に、簡単に他人を貶める人間達に思い知らせてやりたい。それがどれだけ低俗なことか、醜く無様なことか。思い知らせて、味わわせて、そして……復讐する!!」


 血を吐くように、俺は叫んだ。ヴィクトルとライラ。二人はただ殺すだけでは駄目だ。

 思い知らせてやらなければいけない。自分がどれだけ愚かなことをしてきたのか。

 わからせなければいけない。自分が執着しているものが、いかにくだらないものなのか。


 思い知らせて、わからせて。

 後悔させて、後悔させ尽くして、それから殺す!


「むう……復讐、か。神に仕える身としては、それこそ無意味だと一蹴すべきだろうね。でも、きみの言い分は正しい。私はこの千年、出来るだけ人間に寄り添えるよう、導けるように姿を偽って共に過ごしてきた。でも、手先が器用になるばかりで、何一つ思い通りにはならなかった。私はどうも要領が悪いらしい」


 俺の首に絡みつく指が解け、ゆっくりと離れる。


「いいよ。私の目的はただ一つ。科学というガラクタをひけらかす人間達に、再び『神』の威光を思い出させること。人間であることを捨てて私の『隷属』になるなら、きみの復讐に力を貸してあげよう」


 ただし。神父様の指が、俺の唇を撫でる。


「吸血鬼と人間による隷属の契約は、人間の負担が大きすぎる。隷属として、自己を保っていられる時間はそれほど長くないだろう。きみは必ず、知性の無い獣と同じように血を求め彷徨う屑鬼になる。私はきみのことを結構気に入っているから、屑鬼になる姿は見たくない。だからレクスくん、きみが屑鬼に堕ちたその時は……」


 顎に指が添えられ、強制的に視線を奪われる。


「問答無用で、殺すよ。たとえ目的の復讐が達成出来ていなくても、ね。きっとそれが、きみに残された最後の救いだろう」


 そう告げると、神父様の手が俺の目を覆った。彼の姿が見えなくなったことへの不安と、押し付けられるような眠気に思わず彼に手を伸ばした。


「ま、待って神父様」

「大丈夫だよレクスくん。私はきみを見捨てたりしないとも。ただ、少しでもきみが隷属として長持ちするように、ちょっと身体をいじらせて貰うよ。あと、肩の弾丸も取り出さないと。このままでも出来ないことはないけど……色々と刺激が強いだろうからね。麻酔で眠らせるのと同じさ。しばらくの間、ゆっくり休むといい」


 子供に言い聞かせるような、優しい声色に目蓋が重くなる。見捨てたりしない。たったそれだけの言葉で、俺の不安は跡形もなく消え去った。

 

 


 


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