第36話 「あれは『誰』だっていうの?」

 そしてやっとハルは現状を把握した。止めなさい、とまほを後ろから羽交い締めにする。

 彼女の勢いはあまりにも強すぎて、このままではTVか彼女の手のどちらかが確実に壊れそうだったのだ。

 やだやだやだ、と彼女はじたばたする。

 手だけではない。頭だの足だの、何処からこんな力出るんだ、と思うくらいの勢いで振り解こうとする。ハルは羽交い締めにしている腕をすっとずらすと、彼女を力いっぱい抱きしめた。

 何秒かして、画面は別の情景に切り替わった。ようやく彼女の動きは止まり……

 腕と言わず胸と言わず、彼女の動悸や荒い呼吸や汗が伝わってくる。


「もういい?」


 ハルはつぶやく様に訊ねた。うん、と呼吸を押さえながらその合間を縫うように彼女は答えた。ハルは腕を解く。とたんに涼しい感触が行き過ぎる。自分の腕に彼女の汗が伝わっていたのが判る。


「まほちゃん」


 ハルはほとんど泣き出すか笑い出すかどちらかの爆発寸前のまほに問いかける。


「あれは『誰』だっていうの?」

「……母様…… ハハオヤよ」


 絞り出すような声で彼女は言った。


「母親?」

「……ハハオヤよ! あたしを、殺した…… あたしだけじゃないわ! きっとサカイも……」


 先刻の、ニュースに映し出されたあの見覚えのある顔が彼女の脳裏をよぎる。


 「サカイ」。可哀そうなひと。優しかったひと。

 あたしに関わらなければ、殺されずに済んだのに。爆破の容疑がかかったまま空中に散るなんて、悲しいなんて思う前に呆れてしまうじゃない。


 彼女は胸全体にひどく重いものが広がっているのを感じる。もう見たくもないのに、TVの画面から目が離せない。どういう訳か、一度切り替わった筈の画面がまたあの女に切り替わっている。


 嬉しそうなあの女の表情。

 背丈より高いだるまの目に恒例のように墨を入れる手。

 綺麗な手だ。

 そうでしょうよ。家事の一つもしたこともない手なんだから。

 自分の産んだ子供の世話なんてしたことがない手だ。


 ぴろぴろ、と時々ニュース速報が入る音が耳につく。

 ニュース速報は嫌いだ、とハルは彼女とは違う方向から、その時考えていた。あの時も、こんな音ともに、ニュース速報のテロップが画面を横切った。そしてその時の文字は、飛行機事故を最小限の言葉で伝えた。


 ―――途端、ハルの頭の中で、何かがつながった。


「まほちゃん…… 誰が、殺されたって?」


 彼女はひく、と肩をすくませてハルの方を向く。

 自分は言ってはならないことを言ってしまったのではないか。一瞬彼女の表情の中に躊躇の色が見える。

 だが自分を見るハルの視線が別の意味で真剣なのが、伝わったのか、彼女は深呼吸を一つしてから、できるだけゆっくりと発音した。


「……あたし、と、あたしのよく知っている人…… あたしに傷をつけたひと…… 好きだった…… 好きなんじゃないかって…… 錯覚させてくれた…… たった一人の……」

「大切な人、だった?」

「そうよ」

「さっきの飛行機事故?」

「さっきの写真よ」

「あの人が疑われているのじゃないの?」


 吐き捨てるように彼女は強い口調で言った。

 大気が震えた。

 耳からとびこんで、コトバと音は心臓をわし掴みにする。こういう声があるんだ。

 ハルは自分の呼吸が奇妙なリズムになっているのを感じていた。

 こんな内容のことを聞いているのに、自分も自分にとって大切なことを聞こうと思っているのに、そんな理性とは関わりなく、全身がぞくりとする。

 脳天から足先まで突き抜ける、一番敏感なところを柔らかい筆でなぶられているような感覚が全身にまわり、何を聞こうとしていたのか、それすらも忘れそうになってしまう。

 危険な声だ。胸がどきどきする。


「サカイは、自分はあのひとに逆らえないって言ってた、あのひとは自分の大切な家族を握っているからって、だからあたしを殺すんだって、あたしに謝って、そして……」


 くらくらする。彼女の声はヴォリュームを上げて、くるくるとハルの頭の中を掛け巡り、かき回し、全身をぐしゃぐしゃになぶりつくす。いけない、聞かなきゃ、大切なことがあるのに。


「だから、まほちゃんを、あなたを殺したってことを隠すためにそのひとも消された、って言いたいのね?」


 助かった、とハルは思った。タオルで手を拭きながら入ってきたマリコさんの、冷静な声が耳に届く。


「それが飛行機事故」


 彼女はうなづく。大きくはないが形のいい目が一杯に開かれている。


「でも本当は事故ではない? まほちゃんあなたはこう思っているのではないの?」


 マリコさんの声はあくまで冷静だった。


「彼は、自分を殺す爆発物を持たされたのだって」

「マリコさん」

「ハルさんもそう思ったのでしょう?」


 ええそう、とようやくハルは答えた。

 ふっと寒気がする。気がつくと、背中が、額がびしょびしょになっていた。ひどく汗をかいている。ふう、とハルもまた深呼吸をした。乱れている呼吸はなかなか戻らないけれど。

 その様子を見てマリコさんは大丈夫? とコップに水をくんできてハルに手渡した。

 飲んでいるうちに、次第にその冷たさが身体の中でうずくものを冷ましたのか、コップをテーブルに置くころには、ほぼ平静を取り戻していた。

 マリコさんはハルの言いたいことが予想はついていた。

 だが、その予想はあまりにも口にするには気をつけなければならないのではないか、と感じていた。

 まずは落ち着かなくては、と考えた。

 改めてマリコさんはお茶をいれるわ、何がいい? と言った。濃いコーヒー、とハルは言い、ミルクティ、とまほは言った。

 マリコさんは彼女のために、紅茶はミルクで煮だしたものにした。インドのチャイのように、甘く。

 二人のいるリビングへ戻ると、TVのチャンネルは既に変えられていた。関東地方の各県に一つはあるような地元のTV局だった。

 全国区では選挙速報をしているというのに、この局はのんびりしたもので、音楽番組を流していた。二人はぼんやりとその画面に見入っていた。同じ方向は向いているけれど、決して二人して見合うことはしていなかった。


「音楽ビデオの番組ですか?」

「初めて見た」


 くすくすとハルは笑う。その言葉に弾かれたようにまほはハルに向かって、


「嘘」

「嘘じゃないわよお。ずっとキョーミがなかった」

「今はあるの?」

「曲は大したことないじゃない、これって。おんなじことの繰り返し。でも画面があるのって大きい……」


 お茶が入りましたよ、とマリコさんが声をかけた。


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