第37話 ずっとここにいる理由
「……インパクトかあ……」
ぼそっとハルはつぶやいた。何ですか? とマリコさんはそれに反応する。何でもないわよ、とハルは自分のカップに手を伸ばした。
「あち……」
口元を押さえてまほがカップを置いた。マリコさんはそれを見て慌てて、
「あ、ごめんなさい、熱かった?」
「ううん、大丈夫」
「ちょっと待って、冷たいミルク持ってくる……」
そう言ってマリコさんはキッチンへ向かった。ハルはコーヒーのカップを持ったまま、彼女に向かって、
「火傷したの?」
「……んー…… たぶん」
「ちょっと見せて」
やや顔をしかめながら彼女は舌先をちょっとばかり出すと、ハルの方を向いた。どれ、とハルはやや顔を近づける。
「……ああ、この位なら大したことはないって……」
口元が、目の前にあった。ハルはめまいがするのを感じた。この口元から、あの声が、出る……
ハルは視線を外さずに、カップをトレイに置いた。何? と彼女は一瞬不安気な表情になる。
そして、それは一瞬だった。
「……まほちゃん?……」
ほんのわずかな時間、だったと思う。少なくともマリコさんはそう思った。なのに、何故、こうなっているのか、よく判らなかった。そして目を疑い、耳を疑った。
トレイを落とさなかったのが不思議なくらいだった。
*
ドアを後ろ手で閉めると、心臓がばくん、と一瞬大きく打った。
マリコさんが立っていた。
「……どういうつもりですか」
「どういうつもりって?」
「自分の胸に聞いてください」
怒っているのではないのだ。それは判る。それはマリコさんの表情だけで判る。長いつきあいなのだ。
「いったいどうしたんですか…… あなたにそうゆう趣味があったとは思いませんでしたけど」
「あたしだって知らなかったわよ」
「それでいきなりアレですか?」
「……」
そう言われたって困る。実際ハル自身が困っていたのだ。あの瞬間まで、全くそんな気はなかった。少なくとも、意識したことはなかった。
「声がね」
「声?」
マリコさんは眉根を寄せて問いかえす。それがどうしたのだ、と含ませて。
「あたしにも判らないのよ。ただ、あの声を聞いてるうちに理性がどっかへ行ってしまったというか」
「まほちゃんの声ですよね? 私はそんなことないですよ?」
「そんなことマリコさん見てりゃ判るわよ…… だからあたしだけなのかもしれないけれど…… 駄目なんだってば……」
「どう駄目なんですか」
マリコさんは容赦なく問いつめる。何故、どうして。マリコさんはハルを追いつめる気はない。それはあくまで好奇心だった。好奇心でこういうことを聞いていいのか、それは判らない。
だが、理解できない感情なら、せめて因果関係をはっきりしておかないと、ハルとのつきあいまでしこりができてしまいそうで嫌なのだ。はっきりできるものならはっきりさせておきたい。少なくとも自分にはそういう趣味はないのだ。
「最初にあの子の声聞いた時からそうだったわよ。理性とかそういう意識のある部分じゃなくて、あたしが何も考えてない所で勝手に身体が反応してしまうのよ。気持ちいいのよ。そう言ってしまうと何だけど…… 声だけで、それまでやってきたことより何より気持ちいいものが走ってしまったんだってば」
「身体に?」
「今まで関係した連中誰もそんな感覚くれなかったわ」
「誰も?」
「誰も、よ。あの子は声だけで、あたしの中をかきまわしたのよ」
「それじゃハルさんの方が彼女の声に強姦されたようなものじゃないですか」
「知らないってば」
ハルは苦しそうに首を振る。
「ただ…… それで…… その声を出しているのがその口だと思ったら、欲しくなったのよ、その声を出すもの全てが」
それだけ? マリコさんは聞きたかった。
ハルは苦しそうに胸を押さえている。思い出すだけで、その感情が振りかえし、全身に走る。言ったことは本当だ。だが全てではない。ハルは一点だけマリコさんにも隠していることがあった。
その瞬間、それはだぶったのだ。ずっと前から、自分自身にすら隠していて、絶対に出すまい、と無意識の方で押さえつけていた感情が、その「似た身体つきの」「別人である」彼女、そして自分をその声でかき回した彼女に。
訳が判らなくなっていた。自分が誰を抱きしめているのか、誰を抱きしめたかったのか、そして誰を抱きしめたいのか。
それはここにいるハル自身にも、答が見つからないのだ。
「あたしを軽蔑する? マリコさん」
片手で顔を半ば隠しながら、ハルはマリコさんに訊ねた。軽蔑されても、おかしくはないし、仕方がないことだと思うのだ。少なくとも、マリコさんは、多少ずれているとはいえ、ある程度一般的なモラルの中で生きてきた人だから。
「軽蔑するでしょう? あんたは男も女もきょうだいも誰でも見境がないのかって」
「……」
「そうでしょう? そうなんでしょう?」
答えないマリコさんに、今度は真正面から見据えて訊ねる。マリコさんは静かに言った。
「あなたを軽蔑して何になるんですか」
ひどく冷静だった。
「私は、そうであれどうであれ、ここで、あなたと暮らしてるんです。あなたが何であったとしても、私はここに、居るんです。軽蔑してどうなります?軽蔑するような相手と一緒に暮らすことを選んだ私まで私は軽蔑しなくてはならないでしょう?」
「マリコさん?」
「私ができるのは、どういうあなたであれ、そういうあなたと上手くやっていくことだけなんですよ」
あきらめではない。もうずっと前に、決めたことだった。
この家の人々が好きだった。自分に楽しい記憶をくれた人達だった。
少なくとも、その記憶は嘘ではない。その記憶を愛している。その風景を構成したもの全てを愛している。なのにその殆どが失われてしまった今、残されたものを守りたいと思うのは、マリコさんにとって当然のことだった。
「それはそれでいいんですよ…… あなたがそれで納得しているんなら…… ただ私は、一つだけ確認しておきたいことがありまして」
「何?」
「飛行機事故ですよ」
「……」
「あの時私はあなたの考えてるだろうこと、予想しているだろうこと、半分だけ、彼女に聞きました。でも半分は聞いてません」
「半分だと思ってるの?」
「あなたがそう思ってるんじゃあないですか?『もしかしたら』『あの飛行機事故も』」
ハルはぱっと顔をあげた。
「『あの飛行機事故も、あの子のハハオヤの仕組んだものかもしれない』」
「マリコさん」
「違いますか?」
ぐっと、胸に重いものが付き上がる。顔をしかめてハルは言葉を探した。違わない。確かにあの時自分はそう考えたのだ。何の裏付けもないが、直感的に。
「違わないわ」
「私もそう思ったんです」
「何故」
「TVのニュースや新聞の報道、雑誌の報道の仕方を色々見ていたんですが…… 調べ方と報道の仕方がてぬるいんですよ。その後に急に芸能系の事件が大がかりに起こってる……」
「そういえば」
そういえば、その時急に芸能界の麻薬関係のネットワークが見えてきた云々で、一気に女性雑誌やスポーツ新聞が埋まってしまった記憶がある。
「あれからいきなり関係記事が少なくなって、原因究明に関しても、追求の手が緩んだんです。話はいきなり遺族への賠償問題にすり変わって、原因の方はそこでストップしているんです。ただし、表面上は『打ち切り』なんて言いませんから、『機長の神経異常』と一言で片づけられて」
「あの死んでしまった機長でしょ」
「でも彼にそういった異常があったりはしていないんですよ」
「学校のときの知り合いに手を回したのね」
「はい」
あっさりとマリコさんは言う。
「確かにカルテは作成してありましたが、それは『ある日いきなり』作られたものです。別にあんなものは紙切れ一枚のことですから、作成しようと思えば簡単ですし、何人かが『通院していた』と証言すれば済むことです」
「だとすれば」
「それは本当の目的を隠ぺいする目的となります」
「目的」
「誰が乗っていたか」
マリコさんは殆ど表情を変えず、目線はハルから外さない。彼女がこれらのことをずっと考えていたということにハルは気付いた。自分がぼうっと、それまでしてきたことも、これからすることも何も判らずに、ただ時間を食いつぶしてきたうちに。
「調べてあるの?」
「一般に発表してある範囲では」
「それで何が判ったの」
マリコさんは黙って、本棚から大きめの封筒を引き出した。中には幾つかの新聞の切り抜きが入っていた。当時のものだった。飛行機の乗員名簿、写真、爆発の位置関係云々、新聞で報道されたもの全てが、大手から地方紙、関係の深そうなものが殆ど網羅されていた。
「はじめ私はこの名簿に何の符号性も見いだせませんでした」
農協のツアー、一般の観光客、単なるビジネス関係で往復する企業戦士…… 県会議員……
「ただ、この観光客と、県会議員は関係がありました。だからこの関係かとも思ったんですが、それでもまだ…… ところが」
「ところが?」
「まほちゃんがさっき言った『ハハオヤ』を代入すると、方程式は解けるんです」
まほの言った「ハハオヤ」……横川仮名江女史。
「あの女史は、なかなかとんでもない人ですよ」
マリコさんは断言した。
「明日からしばらく、彼女について調べてみます。もしもこの予想が正しかったら」
「あたし達の怒りの行き場は同じになるって訳ね……」
「はい」
「あの子がずっとここにいる理由はできるわね」
「……」
―――すぐには、答えられなかった。
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