第二話

 事務所内はこじんまりとしていて、必要最低限の物しか置かれていないような殺風景な部屋だった。隠れ家といってもいいかもしれない。

 客人用と思われるソファが向かい合うように二つ。その間にローテーブルが一つ。彼専用のものと思われるデスクには書類やらファイルやらが積み上げられており、いつ崩れてもおかしくないくらい不安定な山を作っていた。そうしてそれは実際に何度か崩れたことがあるようで床には数枚ほど書類が散らばっている。


 彼に促され客人用のソファに腰掛ける。やんわりと体が沈み込む__なんてことはなく、自分の緊張を表しているかのようにソファは硬い。

 膝の上でぐっと拳を握る。一度口を開きかけて、だけど閉じて。

 言いたいこと、言わなければいけないことは事前に用意してきたはずなのにいざ口にしようとするとどうしても恐ろしくなってしまう。


 行動を起こしたのはそれから数分後だった。

「……これを、見て欲しいんです」

 ぽつりと一言だけ呟き右腕をスっと伸ばす。反対の手で袖をぐいっと捲りあげれば、そこには大きな痣が現れた。

 いや、それは痣というより誰かに強く掴まれた痕だった。赤黒いようにも見えるし青紫のようにも見える何とも不気味な色合いの手痕。

 それが手首から肘にかけていくつも存在しているのだ。まるで右腕を奪い合うように、いくつも、いくつも。

「その痣に心当たりは?」

 彼の問いかけに視線を床に落とす。

「……」

 今度はなかなか口を開くことができなかった。親に怒られることを恐れているような子供の気分だ。

「君が話してくれないと何も始まらないんだぞ。その痕が普通じゃないことは分かった。君だってそれを理解しているだろう。やましいことがあるわけでもないだろうしさっさと言ったら……」

「……山に、行ったんです」

「山?」

 彼の言葉を遮り、意を決して口に出す。恐る恐る顔を上げて彼に視線を向け、悪事を告白する子供のように酷く小さな声で言った。

「その……八劔山に……」

 途端、彼の表情が変わった。

 バンッと目の前のローテーブルを叩く音が響いて反射的に肩が跳ねた。

「八劔山に行ったのか!? あそこは数年も前から立ち入り禁止のはずだぞ! 君はバカなのか!?」

「俺は行きたくないって言ったんですよ! けどアイツらがどうしてもって言うから仕方なく……!」

 八劔山が立ち入り禁止だということは知っていた。そもそも梶埜市に住んでいる人間ならその事を知らないものはいないだろう。


 数年前突然立ち入り禁止区域となったその山はそこを閉鎖した人間しかその理由を知らないと言われている。

 誰かがあの山を買い取った、どこかの研究所が研究のために立ち入り禁止にした、何百年も前につくられた遺跡が発掘された。

 ニュースにもならず正式な情報が出なかったためネット上ではそんな勝手な憶測が飛び交った。

 しかしそれも時の流れとともに人々の記憶から忘れ去られ、今では理由は分からないが立ち入ってはいけない場所として名を轟かせていたのだ。


「君は何故あの山が『八劔山』という名前になったか知っているか?」

 彼に唐突に問いかけられ「え?」と声を上げる。視線を向けてみると彼は数秒前まで大声で怒鳴っていたとは思えないほど涼し気な顔で足を組んでいる。

 怒りを通り越して呆れられてしまったのだろうか。

「知りません、けど……」

 小さな声でぼそぼそと答えれば彼はやっぱりなと言うように息を吐く。

「昔、あの山には一つの集落があったんだ。とても小さな集落でな。雨が降ると土砂崩れに悩まされ、変わりやすい山の気候に悩まされ。それならそこに住まなければいいのではと言う奴もいたが彼らには彼らなりの理由があったんだろう。少ない食料で何とか食いつなぎ、助け合って生活していた。……しかしそれも次第に限界を迎えたわけだが」

 そこで、だ。彼らはどうしたと思う?

 二度目の問いかけ。えっ、と声を上げる暇もなく彼は言葉を続ける。

「山祇に生贄を捧げることで集落の安寧を求めたんだ」

「山祇?」

「なんだ君、そんなことも知らないのか。全く仕方の無い奴め。山祇というのは簡単に言えば山の神のことだ。山の霊、という意味もあるがな。人身御供なんてのは昔じゃよくある話で、その集落は自分たちの村から八人の生贄を出したんだ」

「山の神に八人の生贄……ってそれ、多すぎませんか……!?」

「その年にちょうど八人の子供が産まれたらしいからな。このままでは満足に育てることもできないから渋々といったところだろう。それで彼らは産まれてまもない赤子に刃を突き立て殺し、生贄に捧げた」

 ぐさり、と刃物を突き刺すような仕草をする。背筋にぞわっと寒気が走るのを感じた。

「それでその集落はどうなったんですか?」

「ああ、集落は安寧を得たさ。つかの間のな。結局その集落は土砂崩れによって跡形もなく消えてしまい、今ではそこに集落があったなんて知る人間は少ないだろう。随分と長くなったが生贄として捧げられた人数が八人だったこと、それから刃物が使用されたこと。それがあの山が『八劔山』と呼ばれている理由だ」

 まあ、諸説あるがな。と付け加え彼は一度口を閉じる。

 何故そんな限られた人間しか知らないような情報を彼は歌うように口にできるのだろうか。そんな疑問が頭を過ぎったけれど、そんなことよりも今は。

「それで、その話とこの痕にはどんな関係が……?」

 前のめりになり食い気味に問いかける。

「ああそうだな、その話もしようか。生贄を捧げることが習慣となっていく中、次第にその生贄の捧げ方にも変化が生じたんだ。かつては八人の生贄を捧げなければいけなかったが新たな捧げ方として、右腕、左腕、右脚、左脚、これらのパーツを合計で八つ捧げればよしということになったらしい。組み合わせはなんでも構わない、八という数字と刃物を用いるということが彼らにとっては重要な事だったんだ。……それで、ここからは僕の考察にしか過ぎないが、恐らく右腕を捧げられた者の怨念やら何やらが君に降りかかったんだろうな。八劔山に行ったのは君一人ではないんだろう? その夥しい数の後から察するにその場にいた全員に平等に降りかかるはずだった呪いを君一人がまとめて受けてしまったと見える。何しろ君は怪現象に好かれやすい体質だからな」

 ああ喋った喋った、と言うように彼はぐぐっと伸びをする。

 違う世界の話を聞いているようで、正直最初の方は忘れてしまった。けれどあの山に立ち入ることがどれだけ恐ろしいことなのかは痛いほど理解する。

「このままこの痣を放っておいたら……?」

「まあ間違いなく持っていかれるだろうな」

 彼は淡々と言い放ち、左手で右肩あたりをスパンっと切る仕草。ヒュ、と喉から変な音が出たのはまず間違いなかったし頭がクラクラしてぐわんぐわんと揺れたのも間違いではない。

 そんな様子を見かねたのか、彼は仕方ないなと言うように新たに言葉を紡ぐ。

「だけど解決策はある。実はあの山の奥には小さな祠が一つあってな。今も定期的にあそこの連中が管理しているとは思うが……」

 そう言って彼は立ち上がりデスクに向かっていく。引き出しを引っ張り何やらゴソゴソと漁る音。「あったあった」と声を上げた彼は何やら紙切れのようなものを取り出していた。

「これをその祠に貼れば解決するはずだ。……まったく、誰かがサボったんだろうな。この札を貼ってさえいれば君がそんな目に遭うなんてことなかっただろうに」

 トンボの羽を掴むようにして彼が人差し指と中指で挟んでいるものは御札だった。漫画やアニメなんかでよく見るものと全く同じだ。

「そっ、そんなものどこで手に入れたんです……? それにあそこの連中って……?」

「おっと、それは企業秘密というやつだ。……で、どうする? もう一度八劔山に行く気はあるか?」

 口元に弧を描きながら、彼は楽しそうに問いかける。まさかあの山に行くことを楽しみとしているのではないだろうか。

 彼が変わり者と言われている理由が分かったような気がしつつ首を縦に振る。

「よし、僕も気になることがあるから特別に一緒に行ってやる。十七時に八劔山に来い」

「え? 今からじゃないんですか?」

 事務所の時計に目をやると気付けば十四時をまわっていた。ここへ来たのは昼頃だ。どうやらたっぷり二時間は話し込んでいたらしい。

 すると彼はスっと目を細め、不機嫌そうに口に出す。

「三徹目なんだ。少し寝かせてくれ」

 そう言うや否やごろりとソファに寝転がる彼。マイペースなのか自分勝手なのかいまいちよく分からない。

「ああそうだ、ここから出たら扉にかかっているプレートを裏返しにしておいてくれ。今日は君以外に来客予定は無いしこんなオンボロビルに入る物好き、しかも僕のところへ来る奴なんかいないだろうけど一応な。予想外の客に睡眠を妨害されるなんて真っ平御免だ」

「はぁ……分かりましたよ」

 仮にも自分は客のはずなんだけどなぁ。

 常識的に考えて、と思ったけれど彼相手には常識なんて言葉が通用しないことを思い出す。

「えっと、それじゃあ……おやすみなさい?」

 果たしてこの挨拶が正しいのかは分からないがそう口に出す。ここからではソファが見えないが返事はない。既に眠ってしまったのだろうか。

 なるべく音を立てないよう扉を閉め、彼の指示通りプレートを裏返す。

 と、そこに明らかに手書きと思われる不格好な『CLOSE』の文字が現れたのだから不覚にも笑ってしまった。

 それから冷たい壁に背を預けずるずると座り込む。笑っていたはずの口元はいつの間にか真一文字に結ばれていた。

「……俺、助かるんだよな……?」

 その声に答える声はない。

 代わりに冷たい何かが腕に触れ、ぐいと引き寄せられたような感覚がした。

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