紫崎怪異相談事務所
櫻田 律
第一章 八劔山
第一話
梶埜市内のとある雑居ビル。
小さなシミが目立つ黄ばんだ壁に申し訳程度に差し込む光。まだ昼間だというのにビルの廊下は不気味なほど薄暗い。
蛍光灯も長い間手入れがされていないのかチカチカと不規則なリズムで点滅を繰り返すだけだ。本来の役割の一ミリだって果たせていない。
踊り場の壁には立派な掲示板があるもののそこに掲示されているのは一年前のチラシばかり。アルバイト募集のチラシもコンサートのチラシも、そのどれもが一年前で時を止めている。
手入れの『て』の字もないビル。そこには当たり前のように人影はなかった。
ここに来るまでの間誰かとすれ違うこともなければ自分以外の人間の足音が聞こえることもなかったのだ。いっそ怖くなってしまうくらいの静寂。こんなに不気味なのだからいつ廃ビル扱いされてもおかしくないに決まっている。
そんな雑居ビルの三階。
階段を上がりきるとすぐ目の前に見える銀色の扉の前で自分は立ち尽くしていた。
鈍く光るアルミ扉には『紫崎怪異相談事務所』というプレートが垂れ下がっている。このプレートも手入れがされていないようで、お世辞にも綺麗だとは言えない。
ズボンのポケットからスマホを取り出し友人から送られてきたメッセージと添付された画像を確認する。
無駄話が多い友人にしては珍しく端的にまとめられたメッセージだ。そこにはこのビルの住所と事務所がある階、それから事務所を営んでいる人物の名前がまとめられている。画像も添付されているのだから疑いようがない。
ここがあの、『紫崎怪異相談事務所』だ。
渇いた喉を潤すようにごくりと唾を飲む。緊張しているのか手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。
どくん、どくんとこれ以上ないくらいに心臓が早鐘を打っているのを自覚しながらドアノブに手をかける。
アルミ製のドアノブはひんやりと冷たく、幾分か心を落ち着かせてくれるようだった。深呼吸をひとつしてドアノブを捻る。
__が、扉が開く手応えはない。つっかえるような音を立てるだけ。つまり鍵がかかっているのだ。
それを理解したと同時に張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れる。肺の中が空っぽになるのではないかというほど長いため息を吐き出す。
頭の中では「あの人気まぐれだから、気分次第でお休みにしちゃうんだよねぇ」と呑気な声で言う友人の声がそっくりそのまま再生されていた。
深夜にコンビニ前でたむろするヤンキーよろしくしゃがみ込んでは自分を嘲笑うかのようにぷらりぷらりと揺れているプレートを見上げた。
紫崎怪異相談事務所というのは、いつ出来たのかも何故この場所を選んだのかも不明な全てが謎に包まれていると言っても過言ではない不気味な事務所だ。分かっていることと言えば怪事件を専門に取り扱っていること、それとこの事務所を営んでいる紫崎有栖という人間が超のつくほど変わり者であるということだけ。
まあそれ故にまともな人間が「そんなことは有り得ない」と一蹴するような不可思議な事件を取り扱うことを生業としているのだろうけれど。
ちなみにここを紹介してくれたのは友人の猫田壱臣だ。紫崎有栖という人間が変わり者だと知ったのも彼から教えてもらったからだった。
自他共に認める変人。常識という概念がぽっかりと欠けており、知識の偏りが激しいのだとか。
怪事件を専門に取り扱っている故にそちらの知識は分厚い辞書並みにあるもののその他についての知識はからっきしらしい。自分が興味の無いものは覚えられない、というか覚える気がないと思ってしまうタイプなのだ、きっと。
「変な人だったら嫌だな……いや、こんな胡散臭い商売やってる時点で変な人間違いなしなんだろうけどさぁ……」
ぼそぼそと独り言を呟いては頭を抱える。その胡散臭い商売に頼るしか今の自分にできることはないのだから、もういっそ泣きたくなってしまう。
とは言え、いい噂を聞くことがない人物に会うのは怖い。シンプルに怖い。
だから目の前の扉が開かないことに一瞬安堵を覚えた自分がいたのも紛れもない事実だ。
また日を改めよう。そうだそれがいいに決まっている。
自分に言い聞かせるように心の中で繰り返す。果たして『これ』がいつまで続くのかは分からないけど、まだ我慢できるはずだ。
服の上から右腕をさすり、それからゆっくりと立ち上がる。
念の為もう一度鍵がかかっていることを確認してから帰ろうと思いドアノブに手を伸ばした時、不意にキィと耳障りな音を立てて扉が開いた。
「僕に何か用か?」
「うわっ!?」
唐突な出来事に失礼な声を上げてしまったのは許して欲しい。びっくり系には耐性がゼロなのだ。
「あ、あなたが紫崎有栖さん……ですか……?」
目の前の人物を見て問いかける。
好き放題に伸びていると思われる黒髪を後ろでちょこんと結んだ、黒縁眼鏡と白衣が印象的な彼。研究者でも無いだろうに白衣を纏っている姿はどこか異様で、おまけにその白衣が何年も前から使用しているように見えるくらい年季が入っているのだから奇妙だと言うより他なかった。
「質問に質問で返さないでくれ。……まあいい。この僕が紫崎有栖だ。見て分かると思うがこの事務所を経営している。それで……」
君は誰だ、なんの用だ。
紫色の瞳に急かされているように感じられ、慌てて言葉を紡いだ。
「おっ、俺は兎川紘です……! その、紫崎さんに相談したいことがあって来ました……!」
早口で捲し立てると彼はぴくりと眉を寄せた。
「ん? 兎川? ちょっと待て、最近どこかで聞いた気がする名前だな……」
そう言って彼は顎に手を添える。うーんと小さく唸りながら、何かを思い出そうとするように目を閉じた。
しばらくの沈黙。
異様に長く感じられるそれに耐えきれなくなって意味もなく咳払いをしたり明後日の方向に視線を向けたり。
沈黙はほんの数秒だったかもしれないし、もしかしたら数分だったかもしれない。それを破るようにして彼はぽんっと手を叩き顔を上げた。
「ああ思い出した。君がニャンくんの言っていた、やたらと怪現象に好かれる特異体質の奴だな」
「へ……? にゃん、くん?」
聞き慣れない、というか聞いたことの無いあだ名に今度は自分が首を傾げる番だった。どれだけ記憶の引き出しを開けてひっくり返してみてもそんなあだ名で呼んでいる、もしくは呼ばれている知り合いはいない。
皆目見当がつかず頭の上にクエスチョンマークをいくつも浮かべていると、ぱちりと彼と視線が交わった。
「ニャンくんと言ったら一人しかいないだろう。君にここを紹介したのは彼じゃないのか?」
「え? ……あっ! もしかしてそのにゃんくんっていうの、壱臣のことですか!?」
そう言うと彼は逆にどうして分からなかったんだとでも言いたげな視線を投げかけてくる。
「い、いや普通分かりませんって……! 誰もアイツのことそんなあだ名で呼んでないですし……」
何か言われる前にと言葉を紡いだが、彼はこのことについてはもう何も言わず、ただ静かに「ふむ……そうか、君が……」と口に出す。
その仕草は癖なのか、顎に手を添えこちらをまじまじと見つめる。頭のてっぺんからつま先まで、まるで品定めでもするかのような視線だ。
よく分からない彼の行動に思わず狼狽える。
「よし、入れ。ニャンくんから色々聞いているが君の口からも聞きたいことがある。それに君の相談にも乗ってやらなければいけないからな」
すると彼はそんなことを言い、スタスタと事務所内に戻ってしまう。正確にはスタスタではなく安っぽいサンダルのぺちぺちという音を鳴らしながらだが。
「ちょ、待ってくださいよ紫崎さん……!」
数秒遅れで彼を追いかけるようにして『紫崎怪異相談事務所』に足を踏み入れる。
背後の銀色の扉が、キィと耳障りの悪い音を立てて閉まった。
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