第17話 希望
翌日の朝の電車に百合子さんはいた。
お互い目配せをし、僕は軽く頭を下げた。
百合子さんは相変わらずデッサンに励んでいた。僕はもっぱら携帯をいじりキリコさんに送るメール文を打っていた。
「今夜、空いてるかな?」
キリコさんから誘ってきたのは初めてだったのでテンションが一瞬上がったが、直ぐにブレーキがかかり、冷静にった。彼女は友達として誘っているのだ、忘れてはいけない。
「大丈夫だよ」
僕は仕事場と僕の家の中間地点にある、キリコさんのも最寄り駅で待ち合わせることにした。
夜、待ち合わせ場所にはキリコさんが既に待っていた。僕は長めに息を吐きだし、足取りを変えずに向かった。僕に気付くと屈託のない笑顔で寄って来た。
「急な誘いなのに、ありがとう」
「うん、ちょうど飲みたかったし」
「どこ行こうか?」
「ね」
「適当にふらふら歩いてみる?」
「うん。いい感じの所があったら入ろう。前みたいにお通しが美味しい所がいいね」
「うん」
5分程駅の周りを歩き、昔ながらの赤ちょうちんを吊るしたお店に入ってみる事にした。
中は思ったよりも広くて落ち着いた雰囲気だった。赤ちょうちんには似合わずワインやウイスキーなんかもたくさん置いてある。
僕達は四人掛けのボックス席に案内され、ゆったりと、居心地よく落ち着いた。
飲み物のメニューを開くとその種類の多さに本気度が伝わった。
僕が必死でメニューを読み込んでいる最中、ウェイターさんはやってきた。
おしぼりを手渡すと、「新鮮な野菜のスティックをこのバーニャカウダーソースでお召し上がりください」と満面の笑みで言い切った。ワイングラスに入れられた野菜をテーブルに置くと早速、「ご注文はお決まりでしょうか?」と訪ねてきたが、僕はメニューを全部読み終えてなく、当然まだ決まってはいなかった。
すると、キリコさんがメニューも見ずに「梅酒ソーダ割1つ」を注文した。
梅酒のページを開くと、それだけでもいろんな種類があった。店員がどの梅酒にするかと尋ねると、「甘すぎないやつで」とメニューを見ずキッパリ答え、「かしこまりました」とあっさり終わった。
「孝造君は?」と聞かれ、まだメーニューを見終えてないから決まってないよ、とは言えず、「生、一つ」と答えてしまった。生ビールの種類は何故か一つしかないらしく、「はい」で済んでしまった。
ポリポリと野菜スティックを摘まみながら今度はおつまみメニューを読み込んでいると、キリコさんは微笑みながら「私、なんでもいいから孝造君決めてくれる?」と言われた。
「了解~」と気楽に返事をしたものの、このメニューがまた、多い事なんのって。
「梅酒ソーダ割と生ビールお持ちしました~」
僕は、店長オススメと書かれてあるものの中からバランスよく頼んだ。
キリコさんはグラスを手に取ると「乾杯~」と僕を煽った。
喉が潤うと直ぐに改まった様子で口を開いた。
「今日は孝造君にお礼が言いたくて」
「ん?何かしたかな?」
「実はね、私、ベジタリアンだったんだ」
「え、そうだったの?」
「精神的なとこから来るんだと思うんだけどね、お肉が食べれなかったんだ」
「えっ?でも」
僕は驚いていた。
夏祭り、二人で食べたピザにはサラミが散らばっていたし、スカイツリーの帰りに行った居酒屋では焼き鳥を食べている。
何より、出会いは牛丼屋だよね?無理して食べていたということか?
「花火大会の夜、イタリアン行って、ピザにサラミが乗ってたじゃない?あ、肉だ、豚だ。ごめんなさいって思ったの。サラミを一枚一枚取ってね、脇に置いてくのは失礼だし、浮かばれないじゃない?だからね、思い切って食べてみたの。帰り道、後悔と罪悪感で気持ち悪くなっちゃってね、途中でコーラ買って飲んだんだ」
「大丈夫だったの?」
「うん、大丈夫。食べちゃったものは仕方ないんだし、それだったら感謝しなきゃって思ってね。そしたらね、食べたからにはちゃんとしなきゃって思ったの。ちゃんと、生きなきゃって。命が犠牲になったんだもんって。なんかね、責任感がでてきたの」
「責任感?」
「うん。私に必要だったのはこの感覚だったんだよね。こう、どこか、生きることにやる気のなさっていうのかな?真剣さというのかな?足りなかったんだよね」
「そうなの?」
「うん、そう思う。それから少しずつ、お肉に対しての気持ちが変わっていってね」
「うん」
「これってね、私にとってはすっごく、すっごく大きなことなんだよ」
キリコさんは目をキラキラさせながら力説した。
「そんな事とは知らずに、能天気に食べてたよね、僕。ごめん」
「う~うん、いいの、いいの。孝造君が無邪気に美味しそうに食べてるとこ見て、言い出せなかったの。でもそれが、返ってすごく良かったのかも」
「え?でもさ、牛丼屋にいたよね?」
「甘辛い味が好きなの。だからね、裏メニューの「ネギだけ」っていうの食べてた」
「そんなのあるんだ」
「あるんだよ」
「玉ネギと卵と紅ショウガがすっごく合うの」
「値段は?一緒なの?肉ありと肉なし」
「うん、一緒だよ」
「なんか損した気にならない?」
「全然。玉ネギ甘くて美味しいもん」
「そうなんだ~」
「うん」
「今度頼んでみる?」
「肉ありがいいな~」
「そっか~」
僕達は和やかに笑いあった。そして、きりのいい時におつまみ達は運ばれてきた。
オススメなど信じないと言っていた僕がオススメに助けられる様に注文するとは信じられない事だった。
僕もキリコさんと同様、変わったのかもしれない。
お店の壁には豪華な額縁に入った龍の墨絵が飾ってあり、百合子さんの事を思い出した。
「キリコさんの両親って何歳くらいなの?」
「え?」
「あ、いや、何となく。自分と同じくらいなのかな~とか思って」
「もういない」
「あっ、ごめん」
「うーうん」
「母は私を産んで直ぐに病気になって亡くなっちゃった。父は顔も見たことないの。祖父母の話だと、海外に逃げたみたい。母の妊娠がわかって」
「キリコさんのお母さんの名前って?」
「ゆりこ」
「お父さんの名前は?」
「知らない。祖父母が絶対に教えてくれなかったの」
「なんでだろ?」
「戸籍調べに行ったんだけど、父親の名前が載ってなくて」
「私がまだお腹にいた時の母の写真があるんだけどね、母のお腹には絵が描かれててね、百合とドラゴンの。今で言う、ベリーペイントだね」
もう、確実に百合子さんが父親やん。
ペイントなんかじゃなくてがっつり掘ったものだとは言えなかった。まさかの偶然に僕は冷や汗と鳥肌で身震いをしていた。
「もし、お父さんがいて、会いたいって言ったら、どうする?会いたい?」
「うーん。考えた事ないからわからない」
「そうだよね、ごめん、ごめん」
「でも、会いたく、ないかな。今更会ってもって感じだし、なんか頭が混乱しちゃうと思う」
「そうだよね」
「うん」
「見るぐらいならアリかもしれないけど」
「うんうん」
僕は二つの空のグラスを見て、メニューを開いた。
「孝造君はさ、何してる時が楽しい?」
本当はこうして好きな人と一緒にいる時と言いたい所だったが、遠慮した。
「うーん。考えてる時かな、話を」
僕はこの機会に誰にも言っていない密かな自分の趣味を話すことにした。
「小説書いてるんだ」
「えーすごいじゃん」
「いや、全然。まだ書き終わってもいないし、素人の真似事だし」
「でも楽しんでるんでしょ?」
「楽しい時もあるけど、辛い時もあるよ」
「でも、好きなんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、いいじゃん!書き終わったら読ませて!」
「えー」
「決まりね!」
「えー」
「応援してるからさっ」
「うん」
応援という言葉にカッチというチャッカマンの音が聞こえた。
キリコさんに見せても恥じないような小説を書いてみせたいと切実に思った。
やっぱり、男は単純だ。女性の支えがあれば、本気になれるものなのだ。
僕は窮鼠猫を嚙む気持ちでいた。
自分の理想に追い詰められたネズミの僕は、理想のままにしておくんじゃなくて現実になるように、せめて近づける様に、必死に理想に噛み付いてやろうと。
理想に怯んでいる暇はない。
卓抜した才能がある人でも何もしなければ、それはただの人。僕にはそれがないかもしれないが、少なくとも、ただの人ではなくて、書きたい人にはなれる。
四苦八苦、七難八苦、櫛風沐雨に進退両難。
苦しみから生まれるものより、平和から生み出されたものの方が僕はいいと思うのだ。
今の時代、苦しみは時代遅れ。
何が言いたいかというと、僕は大した苦労もなくのうのうと生きてきた方だと思う。
単純だし、直ぐに舞い上がるし、幸せの沸点は低い方だ。だからこそかけるものがあるのではないか?と自分で思っている。自分らしい何かを。
予想に反してオススメのおつまみはどれも美味しく、僕達は綺麗に平らげた。
「キリコさん、今度、一緒に山行かない?」
「え?何?急に」
「急に思いついた」
「いいけど」
「平日って休みあるのかな?」
「有休消化しなきゃいけなくて、ちょうど今度の金曜日が休みだよ」
金曜日は休みを取ろう。
「じゃあさ、7時23分発の6号車に乗って来てくれないかな?」
「僕さ、用事済ませてから行くから、もう乗って中で待ってるから」
「う、うん」
僕はいつになく強引にキリコさんを誘い込んだ。今行動を起こさなければ後悔すると何故か思ったからだ。
キリコさんがは寒い中駅まで送ってくれた。
改札口を入り、振り向き、お互い額突く。
この微妙な距離感が意外と心地いいのかもしれない、そう思った。
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