第8話 夏

今年の冷凍庫には例年より多めのガリガリ君がスタンバイされている。

勇気を出して今週の土曜日に開催される、割と大きめの花火大会にキリコさんをお誘いした。

出来れば、浴衣で来て欲しい。まだ彼女ではない彼女に浴衣で来てくれとは頼めない。どうしたらいいものか。自分も浴衣で行くと提案してみたらどうだろうか?

一人が浴衣で一人が普通の服というのは味気ないではないか。

もしノリが良ければ、相手に合わせて浴衣で来てくれるかもしれない。

今は男性用浴衣もたくさん出回っているし、きっと中古でもすぐに見つかるだろう。ラインはしばらく既読にならず、僕の勝手な妄想だけが突っ走っていた。

いつものように同じ時刻に同じ電車に乗り、仕事をして、家に帰り、寝る。その繰り返し。今日も相変わらず規則正しく電車はやって来る。少しでも遅れるものならば「お急ぎの所、ご迷惑をおかけしまして大変申し訳ございません」と、アナウンスが入る。そんなに謝られても返ってこちらが恐縮してしまう。

多少の遅れはドンマイではないだろうか?こんな些細な事で謝るのが常識になってしまったら、ますますこの世は生き辛くなるのではないだろうか?

いつもの定位置に向かうと、どこかで見かけた年金顔が目に入った。

朝早くに電車に乗っているという事はまだ現役なのか?定年退職の年齢も年金受給の年齢も年々延ばされているというし。年金だけじゃ足りない人はまだまだ働かなきゃいけない。人間、枯れるまで、枯れても尚、働く時代。優雅な老後生活が送れるなんてゴクゴク一部の金持ちの話。将来はどんより曇り空なのだ。

おじさんは小さいスケッチブックを取り出して、絵を描き始めた。前の席の人をチラチラ見ては、素早く丁寧に描く。描き終えると、右ポケットにしまい、今度は内ポケットから見覚えのある写真を取り出した。

ルノアールの、トイレの横の席にいたおじさんが見ていた写真と同じではないか。

しばらく妊婦女性と目を合わせていると、目から涙が数滴落ちた。鼻を啜り、涙をぬぐったおじさんは写真を大事そうにまた内ポケットにしまった。

生きていりゃ、何かしらあるわい、ただただそう思った。


休憩時、ラインチェックをしてみると、キリコさんからの返事があった。

浴衣姿の彼女を妄想しながら、開いてみると「うーん」と、あった。

「うーん」?

「うーん」という表現は乗り気ではないが「いいよ」という意味だろうか?

それとも、迷っている、考えている、という擬音語か?

もしくは、「うーん」と鼻にかけた高めの声で喜びの承諾をしているのだろうか?

これは聞いて見なくてはわからない、くせもの表現だ。

乗り気でなければ、浴衣姿もまずないだろうし、確認しなくては。でなければ、調子に乗って僕は浴衣を買ってしまう。

恐る恐る、「興味ないかな?」

「うーん」という曖昧な表現を察しての返しを一応したつもりだ。

直ぐ既読になり、「そういうわけじゃない」

またもや、曖昧。じゃあ、何?焦りと不安で鬱屈していると、「ちょっと怖い」と、返事が来た。

え?何が?僕が?花火誘ったから?ぐいぐいいき過ぎた?

「怖い?」

ここはオウム返しにしてみた。

「花火がね、怖い」

予想外の回答。

「花火が?」

「うん」

「昔からなの。だから、花火大会って行ったことないの」

「花火の何が怖いの?」

「音」

音かぁ。なるほど、確かに爆音だ。

「なんかね、撃たれたような気分になるの」

撃たれる?何に?音から言って、大砲かなんか?大砲って、今の時代には縁のない古い武器だよね?

「それとね、空が光る感じが恐ろしくて」

恐ろしい?普通はその光を綺麗だと言って、人によっては「たまや~」なんて叫んでみたりして盛り上がるものだけど。

花火をそんな風に思う人がいるなんて初めて知った。

「でも、せっかくだし、行ってみようかな」

怖いのに?いやいやいやいや~

「無理しなくていいよ」

共感はできないが、僕にも怖いものはある。お化け屋敷に誘われたら、嫌だけど断れなくていやいや行くさ。それも、怖くないふりをして。

「怖いけど、孝造さんいるし大丈夫だと思う」

無理してくれるってコト?可愛いの。単純に嬉しいっす。

「そばにいるから」

怖いものを前にして怯えている女性がいたら、そりゃあ守ってあげたくなるのが男の本能ってもんよ。

「ありがとう」

来てくれるだけで有難いじゃないか、浴衣なんてどうでもいい。彼女の初めての花火大会、楽しいものにしてあげたい。 気が変わらない内にと、素早く日時と待ち合わせ場所を決め、花火大会の日を待った。


美人猫はよくベランダに来るようになった。大体決まって夜だ。いや、もしかしたら自分がいない時に来ているのかもしれない。毎日どんな生活をしているかわからないが、最近は雨が降ると、気掛かりでしょうがない。いつ来てもいいように、いつ雨が降ってもいいように、ベランダに段ボールで作った猫ハウスを置いてみた。中には着なくなったトレーナーを引いてやった。兄弟のいない僕は初めておさがりというシステムを利用してみた。

カリカリした乾燥ご飯をお椀に入れて置いとくと、決まって15、6粒程申し訳なさそうに残して、でも、しっかりちゃっかり食べてあるのだった。お椀チェックは毎日の日課になり、食べ残しを見るのは僕の癒しとなった。

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