第4話 電車

僕は電車に乗ると決まって窓際に立つ。僕の定位置だ。誰かに奪われないようできるだけ早く中に入りたいが焦る気持ちはおくびにも出さない。

右列、左列どっち側で待っていたかによって、又、中から出てくる乗客の数によって事態は大きく変わってくる。これはもう賭けでしかない。

一目散に入り込み定位置を確保すると僕はホッとして窓を覗く。

座る方が楽のように思われるが意外とそうではない。

まず、どんな人が隣に座るかわからない。もしかしたら、隣人はとっても疲れていて爆睡し、僕の肩にもたれかかってくるかもしれない。そうなったら、肩に置かれた頭をどうするか。そればかり気にかかってしまう。何より、肩が重くてこちらも疲れてしまう。

これが素敵なお姉さんであれば恋人気分を味わえるかもしれない。

調子に乗ってそっと僕の頭をもたれかかっている彼女の頭に添えてしまうかもしれない。上から胸の谷間なんぞ見えたもんなら大変だ、僕の正直な体に変化が生じてしまう可能性もある。

そうしたら、わざわざ難しい事を考えて意識を反らさなければならない。実に面倒。

もしくはこれが、酒臭い禿散らかしたおやじだったらどうだろうか。すぐにでも降りたくなる。吐かれたら最悪だ。

一番厄介なのは席が埋まっている時にお年寄りが乗ってくることだ。

僕は格好付けだから席を譲らなくては、とそわそわしてしまう。声をかけるタイミングに多大なエネルギーを使う羽目になる。わかりやすい高齢者ならともかく最近年金を受け取りましたよレベルだと正直困惑してしまう。

というのも昔、微妙な年齢の方に席を譲って断られたことがあった。

立ってしまった以上、また着席するのが恥ずかしく、僕はずっとそのおばさんの隣に立っているしかなくて、変に一つだけ席が空いてしまった。

居たたまれず、次の停車駅でわざわざ降り、車両を変えた苦い思い出がある。

これは若者にとっても、年上の方にとってもデリケートな問題だ。

自分の事を高齢だと自負している方は積極的にシルバー席に行って頂きたいものだ。もしくは若者が席を譲ったならばそこはもう、素直に座って頂きたい。

若者の自尊心の為にも是非一役買って頂きたいものだ。年寄りの負けん気というものは時に悪に相当する、事もある。

兎にも角にも総合的に考えて、やはり窓際のこの位置は平和である。ただ、こちら側のドアが開かない区間の場合に限る。そうでないと、毎回扉が開くたびに降りる乗客がいないか確認しなきゃいけない。大勢いるようであれば、一度外に出なくてはならない。これも結構な気苦労だ。

しかし心配御無用、当分こちらの扉は開かないのだ。

車窓からの眺めは想像力を刺激する。同時に無にもなれる。

電車の微妙な揺れと心地の良い雑音、そして一定の速度が静寂な世界へ導く。

車窓からは運が良ければ日常の一コマを覗くことが出来る。

見ようとして見ているのではなく、目に入ってくるのだ。いや、待て、確実に見ようとしている。うん。プライバシー侵害の問題には当たらない事を願う。


上半身裸でビールを片手に歩く親父さんがいたり、お母さんが子供を気にしながら洗濯物を干していたり。こちらからは見えていないと思って、みんな無防備なのである。顔や知名度だけで演技力のない役者のドラマを見るより、よっぽどドラマ的なのだ。一瞬の切れ端なのに、そこから感じ取れるものは数知れないのだ。車窓から見える家族の姿はいつも僕をほっこりさせてくれる。

僕はこれを車窓マジックと呼んでいる。種も仕掛けもない。

マジックにかかった家族はまるで磯野家の様に見えてしまうのだ。

日曜日がもうすぐで終わってしまう、心寂しい時間帯に、あの完璧な家族団らんのシーンを見せられる事で、どれだけの日本人がプレッシャーに感じたものだろうか。

現実とのギャップで苦しんだ人は多いはず。

大人になって、あれはあくまでも理想像の家族であって、現実とは大分かけ離れたものであると知って、胸をなで下した事がある。

現実であれば、〇平は痴漢の逮捕歴があり、マ〇オは部下と不倫中、サザ〇はパチンコに通うギャンブル依存症、カ〇オはみんなの秘密を知っているお陰で小銭を稼ぐ。ワ〇メは早熟で、いやらしいサイトをこっそり見ている。ワ〇メはわざと自分のパンツを見せびらかして男たちの反応を楽しんでいるのだ。いずれ、あの見せパンも売りに出すかもしれない。ワ〇メは女という武器を最大限に利用する大人に成長するはずだ。タ〇ちゃんは陰で〇クラちゃんをいじめているし、フ〇とおか〇はしょっちゅう庭で旦那の悪口。フィギュアスケートにハマり、プーさんを片手に地方まで応援三昧ってとこだろう。

これはあくまでも僕の大層歪んだ妄想だけれど、あながち、といった感じだと思う。

100の家族があれば100通り。

現実の家族はそれぞれ個々の集まりであって、隠し事が一杯なのだ。

人間ふるいにかければ、小さな秘密から大きな秘密までいろいろ出てくるもの。

そおっとしておくのが一番なのだ。


今日も定位置で外を眺めていると、駅から一分程経って見えてくる5階建てのマンションの窓から女の人がこちらを見ていた。

彼女と3秒、いや2秒しないか、目がばっちり合った、気がした。彼女の何とも言えない表情がしばらく頭から離れなかった。

次の日も同じ時刻の同じ車両に意識的に乗った。

駅から一分程のマンション。車両と同じ高さに位置する角部屋。

普段は何となく見ていた景色だが今回は的がある。

いつもよりはっきり、くっきり目に映る。

もうすぐ一分が経つ。そう、あのマンションだ。瞬きを忘れ、息を飲む。

彼女だ!

昨日と同じ灰色のロングワンピース。彼女はまたこちらを見ていた。

今度はにっこり微笑むと軽く会釈をしてきた。

一瞬の予期せぬ出来事に動揺してしまい、会釈を返せなかった。

それに、そんな間などこれっぽっちもなかった。果たして僕に対してだったのかもわからない。後に続く景色を楽しむ事なく、しばし立ち尽くしていた。

そして僕はあの微笑みにすっかり心を奪われてしまった。

何とも言えない表情をした人、という印象から一転、とても魅力的な女性へ変わっていた。

微笑みとはすごい力だ。


よりによって明日は仕事が休み。つまり、電車には乗らない。

休みの前日は大好きな深夜のお笑い番組を見て、スマホ片手に自分を可愛がり、昼の12時位までいぎたなく眠り、カーテンの隙間から入り込んだ陽の光で目が覚めると、水分排出をしに行き、水分補給をする。そして、二度寝で14時までは布団の中に居座る。というのがお決まりで、これが休みの醍醐味だったのだがしかし、あの魅惑の女性のせいで、休みの前夜に味わえるはずの解放感を味わえないでいた。

というのも、頭の中ではこう考えていたからだ。

いつも通り仕事へ行くみたいに、同じ時間、同じ車両に乗ってみてはどうだろうか?また彼女に会えるかもしれない。今度は違うアクションがあるかもしれない。

きっと今私達はお互いを気にしている運命共同体ではないだろうか?妄想が止まらなかった。

この日は夜更かしをすることなく、変わらぬ時間に寝ることにした。


翌日、いつも通り身支度をし、同じ時刻の同じ車両に乗った。

今日はどういうわけか、いつもより少し混んでいる。とはいえ、僕はしっかり定位置を確保することに成功した。たった二秒間のために僕はここに居る。

二度寝の気持ち良さを返上してここに居る。

電車が走り出すと同時に僕の緊張も走りだした。そろそろだ。彼女のマンションが見えてきた。

角部屋一点に集中する。

しかし。

しかし、あの微笑みの彼女は居らず、窓にはカーテンが閉められていた。

何も起こらなかった静寂な二秒間はとても長かった。

僕は期待していただけにショックで呆然。次の駅で降り、反対側のホームで空しく電車を待った。期待していた僕がバカだった。そんなドラマのような事が起きるわけがない、現実はこんなもんだと撫肩で帰り、家に着くやいなや、いつもより多めに自分を可愛がってやった。



彼の定位置のすぐ右側の端の席には60代くらいのおじさんが座っている。

実は彼も同じく定位置を持った一人。今は酒浸りの隠居生活だが、かつては画家を目指しヨーロッパへ旅立ち貧乏ではあったがお洒落な生活をしていた。

彼の習慣は同じ時間の同じ車両、同じ席で、その日前に座った人物を描くことだ。

今日も彼の前には若い兄ちゃんが座っている。一か月の内、この兄ちゃんを描くのは13回程。彼が寝坊して一本電車を乗り遅れることがあったり、ギリギリに乗って別の席に着くこともあるからだ。若い兄ちゃんは格好からして土木関係の仕事をしている様で、指にはピカリと光る結婚指輪がはめてある。若くして結婚し、今では一家の大黒柱として毎朝こうして眠い顔で仕事に向かっているのだ。兄ちゃんは大概寝ているのでおじさんのスケッチブックは寝顔ばかりである。

しかし、毎回同じという事はない。前の日に食べたものや、寝た時間によって微妙に顔の具合が違うのだ。彼の顔を描いていて一番嬉しいのはニキビができた時。

最初はちょっとしたふくらみがあるだけだが、日に日に赤みが増して、大きくなり盛り上がってくる。痛々しいほど腫れてくると、決まって次の日はつぶされているのだった。ニキビ一つあれば十分に楽しめる老後生活なのだ。

新人モデルには注意が必要。

例えば若い女性が前に座ったとしよう。彼女の動きを先ずはよく観察し、モデルにするかどうかを判断しなくてはいけない。

携帯をいじりだしたり、本を読みだしたら目的地はそこそこ先だといえる。

それから、足の置き方を見る。完全に力が抜けて休憩タイムになっていれば描き始めていいだろう。しかし中刷り広告を見ているようならば2~3駅で降りるような人である。そういった類の人の時はおじさんの休憩タイムとなる。

何事も長年の経験と観察力がモノを言う。



もう期待はしない。したくない。

もし仮にまた彼女がいたとしても、どうこうなるわけでもない。

通勤手段の電車として真面目に乗車しようじゃないか。邪まな考えは心が疲れる。

しかし、心に誓ったそばから例のマンションの高さに目線を合わせていた。

もうすぐ一分。そろそろだ。あの角部屋。

彼女は窓際に立っていてこちらに軽く会釈した。やっぱりどこかで期待していた僕はちゃっかり会釈を返した。

会釈ゲッツ!

心の中で静かに叫んだ。もうこれで満足だ。この先の展開などどうでもいい。

一日一会釈。

電車から降り、景色が変わると急に冷静になった。

あれ?もしかしたらだけど、僕に会釈をしている、わけじゃない、かもしれない。

彼女は首の運動をしているとか、電車好きで毎朝電車に御挨拶をしているとか。

もしくは、車掌さんが知り合いだとか。又は旦那さんだとか。

部屋にはクイーンのWe Will Rock Youが大音量で流れていてノリノリで首が動いただけなのかもしれない。もしや、あれは人形か?太陽電池でずっと動いているおもちゃみたいな。

よりによって、今日は頭が冴えているらしく、あらゆる可能性が思いつく。

ま、でもそんな事はどうでもいい。僕は彼女に会釈がしたいのだ。それでいいじゃないか、やかましい。と、心の声を制御した。

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