第3話 ルノアール

ルノアールには贅沢にも週イチで通っている。

年齢的には大人であっても中身が子供という人は多い。

このロリコン大国では尚更、偽の大人が多いものだ。

そんな偽大人でもコーヒー一杯に590円、気前よく出せば直ちに大人の仲間入り。

590円。

大人になるのはそんなに高くない。

あぁ。このふかふかな絨毯がなんともいやらしいこと。


ある日のルノアール、僕は二人席へ通された。

隣席も同じく二人席で一人分の体を空けたくらいの、ちょっと窮屈な、プライベートがギリギリ犯されるような刺激的な席であった。

僕はいつも通り、鞄からB2の鉛筆を取り出し原稿用紙を無造作に机に置く。

こてこての昔の作家気取りだ。

隣には男女が座っていて、どうやら今日が初めましての様であった。

お互い固い雰囲気で当たり障りのない話をしている。

二人が注文を終えると、さぁでは本題にといったような、ピリッとした空気が流れた。僕はその空気の変化に敏感に気づき、背筋が伸びた。

男がお冷を一口ごくりと音を立てて飲み込むと、真面目な顔で切り出した。

「どうですかね?僕」

彼女は照れ臭そうに、頷いた。

「よかった」

男はほっとした様子でお冷を一気に飲み干した。

なんという会話か。

緊張がほぐれたのか、少しだらしない口調で話し始めた。

「いやぁ、どんな方が来るかと思いましたが、綺麗な方でよかった。本当に良かった。想像以上ですよ。いや、ホントに。メールでお伝えした通りの契約でよろしいですかね?なんか、もし聞きたい事とかあったら何でも答えますから安心してくださいね」

女性はまた照れ臭そうに頷いた。

答えは簡単だ。

出会い系サイトで知り合った二人が、ルノアールで顔見せをしたのだ。

大人の関係を構築していく第一歩のめでたい日として、最も適切な場所であると納得、感銘した僕は何故か二人を祝福したい気持ちになってしまっていた。

次に男は前のめりになり、上目遣いをしだした。

「僕、実は結婚してるんですよ」

なんともタイミング悪くウエイターがブレンドコーヒーとココアを運んできた。

聞こえていたのか?いなかったのか?大人の情事など日常茶飯事でござんすといった態度で動揺もせず、涼しげな顔をして、自分の仕事を終えるとさっさと去って行った。

さすがプロ。ますますルノアールが好きになった。

彼女はココアを一口飲むとにっこり笑って、「大丈夫ですよ」と明るく答えた。

「良かった~」と男は背もたれに背中をつけた。

大丈夫なんか~い♪と心の中の僕は片手にワイングラスを持ちながら突っ込んでいると、男はちゃっかり安心してコーヒーをずずっとまた音を立てて啜った。

二人はその後、他愛もない話を10分程度に済まし、新宿の町へ染まって行った。


僕は二人の会話に気を取られていて、相変わらず注文をしておらず、お冷もすっかり空になっていたのでウエイターを目で追い始めた。

なかなか気づいてもらえず、手でもあげようかと思ったその時、さっき隣で接客をしていたウェイターが気づき、ちょうどいい笑顔で寄ってきた。さすがプロ。

ブレンドコーヒーを頼み終わると、待っていたかのように、「さっき聞きました~?あの出会い系のカップル!不倫でっせ!」と、いうような顔をして私に隣の席をこっそり指さし、口角を下げ、眉間に皺を寄せた表情で共感を求めてきた。

私は「ねぇ~」みたいな顔を作って軽く首を前へ動かした。

自分の価値観、正義感で人を判断しようとする大人は多い。

プロのウェイターであっても一人の大人。真情を発露するのは個人の自由。

さほどショックは受けなかった。


髪を何度もかき分けては3文字、4文字程書いては止まり、書いては止まりを繰り返し、時折遠くを見つめ、また同じ事を繰り返す。さぞかし凄いものでも書いているのかと思わせておいて実際は、3日前の夕食を必死に思い出している。

暇つぶしにこんな遊びをすることもあるが、実の所は、ちょくちょく真面目に文章を書きに来ている。

何故書いているかというと、単純に現実逃避をしたかったからだ。

日々のさえない毎日に希望を添えたかったから。

毎日の仕事は副業で本職は作家なんだと妄想することで未来への不安を払拭していた。それに、モテるかもしれないという下心もあった。

嫌な予感。さっきからチラチラとこちらを見ていた若造が近寄って来る。

「あの、先生、ですよね?いつも愛読しています。」

あいにく僕は先生もどきであって、先生ではない。

満面の笑みで片手を差し伸べ、握手を求めてきた。そのごつごつとした小さめな手につい僕の手は引き寄せられてしまった。

「あ、ありがとうございます。」

しまった、つい、言ってしまった。

若者は満足そうにあっさりと自分の席へ戻っていった。

サインを頼まれなかったのは不幸中の幸いであった。

彼が勘違いに気づく前にここから出たい。

いかにもこの後編集者と大事な打ち合わせがあって急がなくてはいけない、かの様な演技をわざわざし席を立った。

ごっこが上手くなりすぎてしまうのも困りもんだ、と思いながら清算を済ませ店を出た。

将来が不安になる度に、いつか小説家になるのだからと繰り返し、おまじないのように言い聞かせている。おまじないなんてかわいいものではない。

もはや、自分への騙しだ。小説家になるなんて宝くじに当たる確率と同じくらいなのかもしれないが、少なくとも自分は書いているんだと、内容やクオリティーは二の次で、ちっちゃなちっちゃな希望にすがっている。

宝くじを買った人だけが当選日までの間夢を見れるような、そんな状態に似ている。もしかしたら、という浅はかな都合のいい妄想が唯一の心の支えなのだ。



家のベランダからは隣の平屋の屋根が見える。そこに猫が一匹、気持ちよさそうに昼寝をしていた。しばらく見ていると今度は優雅に毛づくろいを始めた。

不意に後ろを振り返った猫と目が合った。

キュンとなった僕は急いで冷蔵庫からハムを取り出し、猫に向かってブンブンと振り回して見せた。直ぐに猫は理解し、立ち上がり、こちらに来れる道を探すとなんなくやって来た。今まで猫に縁がなかった僕はまじまじと舐め回すように観察した。

猫はだまってハムを食べ、洟も引っ掛けかけない態度で去って行ってしまった。

初めての猫との触れ合いはあっという間に終わってしまったが、何だろうこの気持ち?

何かが若返ったような気がした。

また会えるといいな、そう思うとすぐに僕は反省した。ハムにはきっと猫の体には良くないかもしれない。塩分や保存料、着色料等々。自分がハムを食べる時には一切気にもしない事だ。

次また会えるかもしれないという期待を込めて、猫用のえさを買っておこうと思った。思っただけでは足りない、忘れないようにメモをしてその紙を財布に入れた。

入れただけでは足りない、僕は暇なんだから今買いに行けばいい事じゃないか。

脳裏に林先生が現れた。備えあれば憂いナッシング!

そういうわけで、キャットフードはその日の内に押し入れにストックされ、日は暮れ、休日はほぼ終わってしまった。


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