第70話 お里……

 ※。.:*:・'°☆


 橋の上で、二人は並んでいた。



 ワケありの男女二人のようだ。


 夕陽が二人を血のように紅く染めていた。

 


 遠くから子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。

 頭上を烏が『カーカー』と鳴きながら飛んでいった。



 男性の方は若き日の平賀源内だ。


 源内の目の前で泣いている美少女は、お里だ。

 その顔は、おランにそっくりだった。


 橋の欄干から源内は流れる川面かわもを眺めていた。

『……』

 紅く染まった川面かわもを木の葉が流れていった。


 行くあてもなく何処まで流れていくのだろうか。


 まるで自分たちのようだと源内は思った。




『お里……』絞り出すように源内は言葉を発した。


『……』お里は、ただ黙ったままうつ向き泣いていた。



『俺と…… 俺と一緒に長崎へ……

 駆け落ちしてくれ……』

 覚悟を決め、源内はお里の目を見つめた。

『頼む…… お里❗❗』

 真剣な眼差まなざしで告白した。

 


『……』

 二人の間に重苦しい沈黙が宿った。

 


 また子供たちの声が響いてきた。




『ありがとうございます❗❗ 源内先生…』

 震える声でお里は礼を述べた。


『じゃ、一緒に…… 行ってくれるンだね……』

 笑みを浮かべ、源内は手を差し出した。


『い、いいえ…… 出来ません』

 だが、お里は小さくかぶりを振った。

『え…、ど、どうしてですか……❓❓』


『病気がちのおっ母や、小さな弟たちを残して……

 私だけ逃げ出す事は…、出来ません』

 華奢な肩が震えていた。


『だ、だけど…… しゃ、借金は……』

『それは、井筒屋の旦那様が……』


『な、そ、それじゃ井筒屋の旦那の所へ……

 後妻に行くのですか……?』

 源内は彼女の華奢な肩を掴み詰め寄った。


『……』しばらく源内は彼女を見つめたまま沈黙した。


『カーカー』とまた頭上を烏が飛んでいった。



 少し間を置き、お里は声を震わせ応えた。

『ええ…… そうすれば、旦那様が借金を肩代わりして戴けると……』


『しかし…… 井筒屋の旦那は、五十に手の届く……』


『ええ、でも…… 遊女屋よしわらへ行くよりは……』

『う、そりゃ……』そうだが……


『大丈夫です…… 井筒屋の旦那様は優しそうだし、大事にしてくれると……』

 また声が震え、大粒の涙が頬を伝った。


『くゥ…、借金は俺が……

 俺が、きっと長崎で何とかするから……』


『いいえ…… もう決めました❗❗

 源内先生には何から何までお世話になりっ放しで……』

『いや、世話なんて…… 俺は……』


『私よりもずっと佳い女性ひとが見つかります……』

 ポロポロと涙が頬を伝って落ちた。


『ううゥ…、そ、そんな事は……

 お里……』


『さようなら…… 源内先生ェ……』

 頭を下げると足早に駆け去っていった。


『あ、お里…… 待って……』

 手を伸ばし引き止めようとしたが、途中で諦めた。




 呆然として、源内は橋の欄干に手を置き、川を流れていく木の葉を見つめた。

 今にも川の流れに飲まれそうだ。


『く、うゥ……』

 やがて、源内の視界が涙に滲んでいった。

 



 子供たちが源内の後ろを駆けていった。




 いつまでも源内は橋の欄干にもたれ掛かり立ち尽くしていた。






 やがて、夕闇が江戸の町を覆っていった。






 ※。.:*:・'°☆

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