姚興25 柴壁の戦い 下 

柴壁さいへき包囲の末、ついに姚平ようへい軍の

矢や兵糧が底をついた。

完全に、手詰まりである。


窮した将兵らは決死隊となり、

包囲網のうち西南部を急襲したい、

そう願い出た。


姚興ようこうもまた兵を汾水ふんすいの西に整列させ、

ともしびを上げ、太鼓を大いに叩き、

姚平軍を鼓舞せんとする。


対する拓跋珪たくばつけいは、

どこまでも冷静、冷徹である。

諸軍のうち精鋭を姚興軍の近くに駐屯、

そして浮き橋のうち南の守りも固める。

併せて川べりの守りも万全。


夜、姚興の元にも

柴壁城からの声が聞こえてくる。

応じるように姚興軍も太鼓を叩いた。


これは姚興が救援の軍を

派遣してくれたのでは、

そう期待した姚平であったが、

実際のところは北魏ほくぎ軍に阻まれ、

とても近づけたものではなかった。

なのでただ叫び、

太鼓を叩くしかなかったのだ。


あぁ、脱出は叶わぬのだ。

そう悟った姚平は、絶望にくれた。

二人の妾、三十人ばかりの将を連れ、

汾水に投水自殺。


このとき不蒙世ふもうせい雷重らいじゅうら四千人余が、

姚平と同じように汾水に身を投げた。

そこで拓跋珪、泳ぎの巧みなものを

汾水に入らせ、飛び込んだ後秦兵らを

皆捕獲、誰一人逃さなかった。


柴壁に詰めていた姚平軍は三万あまり。

みな拘束を受ける。その中には

狄伯支てきはくし唐小方とうしょうほう姚梁國ようりょうごく雷星らいせい

康宦こうかん康猥こうわい姚伯禽ようはくきん(姚興の甥)

といった大物から、

四品以上の将軍四十名余もいた。


また王次多おうじた靳勤ろくきんといった人物は

何らかの見せしめとして殺され、

「狥」とされたそうである。

よくわからない。

殉死、に近い用法だろうか。


ともあれ姚興、遠征したのに、

自らの力では姚平を救出できなかった。

そのため数日間、日夜軍を挙げて慟哭し、

声は山や谷を震わせたそうである。


拓跋珪には和睦の使者を飛ばすが、

一切受け入れられない。


対北魏の交渉が停滞するとはいっても、

姚興に立ち止まることは許されない。

今回の戦いで死亡したものには、

厚く褒賞を加えるよう指示を下す。


戦線はここから一気に南下、蒲阪ほはんに移る。

とは言え蒲阪を守る姚緒ようしょは徹底防衛。

決して迎撃に出ることはなかった。


柴壁での疲労、合わせて北では

柔然じゅうぜんが侵攻の気配を見せ始める。

拓跋珪は、ここが潮時と見極め、

ついに兵を引き上げた。


姚興は黄河西岸域、

いわゆるオルドス地方の部族を

多く長安に移住させた。


えっマジで長安、

どんだけ人死にが出てんの……。




冬十月、平糧盡矢竭勢甚窘急、夜悉眾突西南圍求出。興列兵汾水西、舉烽皷噪、為平接應。太祖簡諸軍精銳、屯於汾西、固守南橋、絕塞水口。興夜聞聲、望平力戰突免。平聞外皷、望興攻圍引接。故但呌呼、虛相應和、莫敢逼圍。平不得出計、窮力盡乃將二妾帥麾下三十騎、赴汾水死。興安逺將軍不蒙世、揚威將軍雷重等將士四千餘人、多從平赴水。太祖使善游者泅水鉤捕、無一人得免。平眾三萬餘人、皆斂手受縛又擒、尚書右僕射狄伯支、越騎校尉唐小方、積弩將軍姚梁國、立節將軍雷星、建義將軍康宦、北中郎將康猥、興從子伯禽已下四品將軍已上、四十餘人獲。先亡臣王次多、靳勤等並斬以狥。興逺來赴救、自觀其窮、力不能救、舉軍慟哭、聲振山谷、數日不止。頻遣使求和於魏太祖、不許。興乃下書、令軍士戰沒者、皆厚加褒贈。魏軍乘勝進攻蒲阪、晉公緒固守不戰。會柔然謀伐、魏太祖聞之、戊申、引兵而還。庚戌、興徙河西豪右萬餘戶於長安。


冬十月、平が糧は盡き矢は竭き、勢は甚だ窘急にして、夜に眾の悉きは西南の圍を突き出でんと求む。興は兵を汾水の西に列べ、烽を舉げ皷噪し、平が為に接應す。太祖は諸軍の精銳に簡じ、汾西に屯じ、南橋を固守し、水口を絕塞す。興は夜に聲を聞き、平の力戰し突免せるを望む。平は外に皷を聞き、興の攻圍を引接せるを望む。故に但だ呌呼し、虛に相い應和し、敢えて圍に逼る莫し。平は出計を得ざれば、力窮まること盡きなれば乃ち二妾を將き、麾下三十騎を帥い、汾水に赴きて死す。興の安逺將軍の不蒙世、揚威將軍の雷重ら將士四千餘人、多きは平に從いて水に赴く。太祖は游の善き者をして泅水鉤捕せしめ、一人として免ぜるを得たる無し。平が眾は三萬餘人にして、皆な斂手受縛され又た擒われ、尚書右僕射の狄伯支、越騎校尉の唐小方、積弩將軍の姚梁國、立節將軍の雷星、建義將軍の康宦、北中郎將の康猥、興が從子の伯禽已下、四品將軍已上の四十餘人が獲らわる。先の亡臣の王次多、靳勤らは並べて斬られ以て狥とさる。興は逺きより來たりて救に赴けど、自ら其の窮し、力に救う能わざるを觀、軍を舉げ慟哭し、聲は山谷を振わせ、數日止まず。頻りに使を遣りて和を魏太祖に求ましめんとせど、許されず。興は乃ち書を下し、軍士に令し戰沒者には皆な厚く褒贈を加えしむ。魏軍は勝ちに乘じ進みて蒲阪を攻むれど、晉公の緒は固守し戰わず。柔然の伐を謀つに會し、魏太祖は之を聞き、戊申、兵を引き還ず。庚戌、興は河西の豪右の萬餘戶を長安に徙す。


(十六国56-7_衰亡)




いろんなところの解説を読んでると、柴壁の戦いがオルドスの支配権をめぐっての戦いだったと書かれてるんですけど、いや全然この戦いにオルドス関係ないでしょう……うーん、史料の見落としなのかなー。なんか396年に後秦がオルドス落としたって書かれてるんですが、そんな情報まったく目に入ってこなかった気がするんですよね。あるいは没奕于ぼつえきう高平こうへい公って表現が「オルドス」の隠喩だったのかしら。わからぬ。資治通鑑とかをあたっても出てこないんですよね、この情報……。まぁ、史書のどっかにそういう情報が載っているらしい、とのみ今はひっかけておきましょう。


ところで突然名前が出てくる王次多さんですが、前回の登場は西燕せいえんの鎮東将軍として、慕容垂ぼようすいと戦って敗れていました。これはただの同姓同名なのかなあ。同一人物だとしたらものすげえ数奇な運命辿ってる感じがあって楽しいんですけど。

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