姚興24 柴壁の戦い 上 

柴壁さいへきの決戦に向け、拓跋珪たくばつけい自らが出陣。

永安えいあんに陣を置く。


姚平ようへい北魏ほくぎ軍の様子を確認しようと、

精鋭二百名を募って偵察に派遣。

だがこれを北魏将の長孫肥ちょうそんひに察知され、

ことごとくが捕らえられてしまった。


誰一人もが戻ってこない、

この事態に対し、姚平は後退を決意。


それを黙って見逃す拓跋珪ではない。

すぐさま追撃をかける。

そして拓跋珪は柴壁に到着。

姚平は徹底して守りを固め、

拓跋珪はそれを包囲する。


柴壁包囲。

この事態に対し、姚興ようこうは全軍を上げて

姚平の救援に向かおうとした。

拠点として目途を立てようとした地は、

天渡てんと。そこから姚平に

救援物資を送り届けようとしたのだ。


◎柴壁周辺 位置関係図

 ■←黄河こうが ■〇永安

 ■   ■■←汾水ふんすい

 ■   ■〇乾壁かんへき

 ■天渡〇■〇柴壁

 ■  ■■===(蒙坑)

 ■■■■

 ■

 ■〇蒲阪ほはん

       

もちろんそんなことを

拓跋珪が受け入れるはずもない。

姚興の動きを見て、側近の李先りせんに聞く。


「姚興は天渡、姚平は柴壁。

 それぞれが表裏となり、

 我々のもとに迫っている。


 さて、このどちらをも

 つぶしてしまいたいところだが、

 何かいいアイディアはないものか?」


李先は言う。


「臣は聞いております。

 勝利とは正々堂々と正面切って

 ぶつかり合いつつ、そこに奇略を講じて

 得るものであると。


 姚興が天渡を取りたいというのであれば、

 補給ルートを潰してしまうべきでしょう。


 かの者らがいまだ到着せぬうちに、

 こちらからも兵を発し、

 先に取ってしまうのです。


 柴壁周辺は起伏に富んでおり、

 伏兵を設けることで、城内城外、

 どちらよりの攻めにも応じられましょう。

 そのうえで陛下の神策により、

 タイミングを見計らわれるべきです。


 姚興にしても進もうと期したところで

 下がるしかなくなり、

 また食料にも苦しめられましょう。


 六韜りくとうにも申しております、

 高きに陣取れば敵に狙い撃ちとされ、

 低きに陣取れば敵に追いつめられる、と。


 どちらも将軍がとって

 誤った判断ではございまんが、

 後秦こうしん軍はその愚を

 共に犯しております。


 なれば、さほど干戈を交えることなしに

 城を獲得できましょう」


拓跋珪はその進言に従い、

柴壁周辺に防護柵を何重にも建設。

姚平の脱出、姚興の侵攻、

そのどちらにも備える体制を取った。


ここで安同あんどうという将軍が

拓跋珪に進言する。


「汾水の東部に空堀が掘られています。

 その長さは東西に12kmあまり。

 小道ですら通じる隙間はありません。


 ならば姚興の進軍は、

 汾水西岸沿いとなるでしょう。


 そこまで攻め寄せてしまえば、

 柴壁は目と鼻の先。

 援軍の到着を姚平軍が目視すれば、

 その勢いはどうなるものか

 分かったものではありません。


 それを食い止めるのは

 難しいかとは思われますが、

 こちらも柴壁より浮き橋を渡し、

 西岸に出られるようには

 しておいた方がよいでしょう。


 そうすれば姚興としても、

 救援のためにはまず我々を

 打ち破らねばなりません。

 救援の策謀などと

 言っている場合でもなくなりましょう」


拓跋珪はその進言が

もっともなものだと感じ、

汾水に南北二本の浮き橋を渡し、

西岸にも併せて守備陣を敷いた。


姚興が蒲阪ほはんに到着した段階で、

既にそれだけの陣容が

敷かれていたわけである。

これをどう攻めたものかを考えあぐね、

姚興は蒲阪から柴壁に向け

進軍こそしたものの、

しばらく留まらざるを得なかった。


そんな中、拓跋珪は先手を打つ。

自ら歩騎三万あまりを率いて

柴壁南の空堀を抜け、

そのさらに南二キロほどのところにいた

姚興軍を強襲したのだ。


この時姚興は朝方早くから

北上をしようと試みていた。

そして目的地に到着するよりも前に、

北魏軍より不意打ちを

受ける形となったわけである。


後秦軍は当然大混乱に陥った。

その様子を見て取った拓跋珪、

拓跋順たくばつじゅんに精鋭をあずけて

攻撃を仕掛けさせた。

重装騎兵数百を捕獲、千名余りを討ち取った。


姚興は2キロメートルほど南に後退。

拓跋珪も追撃はかけず、引き返す。

そのため包囲を受けていた姚平としても、

柴壁の周囲に設けられていた

防御柵数百歩分ほどを

焼き落とす程度の抵抗しかできなかった。


拓跋珪は、姚興の攻め気が

一気にそがれたのを感じ取り、

兵力を四つに分け、

それぞれを堅牢な地に配備する。

具体的には柴壁南の空堀周辺、

東部にある杜新阪としんはん

そして天渡、賈山かざんの四地点である。


こうして姚平の水陸の進路を完全に断ち、

座して捕らえるだけの体制を整えた。

その一方で、汾水沿岸の岡にも

柵を数十重に立て、

周辺の牧畜者を後秦軍の手から

守るようにした。

現地接収を防いだ、と言うことだろうか。


ともあれこうして、姚平が柴壁城から

脱出できないようにしたわけである。


柴壁周辺でどうにかするのが

難しいと判断した姚興、一度大回りし、

汾水の北西部に抜ける。

そこにあった渓谷を改修して陣地とし、

守りを固めた。


数千騎を派遣して

柴壁の包囲の状況を探らせたのち、

周辺の柏の木を伐採。

それを束ねて汾水に浮かべた。

その木材で浮き橋を破壊してしまおう、

と目論んだのである。


が、その動きをも想定していた北魏軍、

鈎縄で木材を取得すると引き上げ、

自軍の炊き出しに使う木材として活用した。


拓跋珪、この動きに

姚興の再攻撃の気配を読み取る。

すぐさま空堀を修繕させ、

さらにその幅を広くした。

そして夜、拓跋珪の予想通り、姚興軍が襲撃。


とは言え姚興が想定していたのは

拓跋珪が拡幅する前の空堀である。

空堀を渡そうとした梯子は対岸に届かず、

あえなく空堀の中に落ちてゆく。


攻めあぐねた姚興は結局撤退した。

ただし一部の兵を残し、

汾水沿岸に土塁を設けて

川幅を狭めようとした。

それでようやく姚平も

すぐそばまで姚興が来てくれているとは

分かったのだが、そこまでだった。

北魏軍により、その土塁も破壊されてしまう。


こうして姚興の姚平救出は失敗に終わり、

その士気もがた落ちとなった。




秋七月、太祖躬帥將士、親征。八月、次於永安。平募遣驍將帥精騎二百、覘魏虛實。長孫肥逆擊盡擒之。匹馬不返、平遂退走。太祖急追之。乙巳、及於柴壁。平嬰城固守、魏軍圍之。興乃悉舉其眾、救平。將據天渡、運糧饋平。太祖聞興將至、問尚書右兵中郎中山李先曰:「興屯天渡、平據柴壁、相為表裏。今欲殄之計。將安出?」先曰:「臣聞、兵以正合戰以竒勝。如聞姚興欲屯兵天渡、利其糧道。及其未到之、先遣竒兵先邀天渡。柴壁左右嚴、設伏兵、備其表裏。然後、以陛下神策觀時、而動。興欲進不得退、又乏糧。夫髙者為敵所棲、深者為敵所囚。兵家所忌。今秦皆犯之、可不戰而取也。」太祖從之、乃増築重圍、內以防平出、外以拒興入。魏廣武將軍安同曰:「汾東有蒙坑、東西三百餘里。蹊徑不通、興來必從汾西、直臨柴壁。如此、則虜聲勢相接重圍。雖固不能制也、不如為浮梁、渡汾西、築圍以拒之。虜至無所施其智力矣。」太祖以為然、遂截汾曲為南北浮橋、乘西岸築圍。興至蒲阪、憚魏之強久乃進兵。甲子、太祖帥歩騎三萬餘人、渡蒙坑南四十里、逆擊興。興晨行北引。未及安營、魏軍猝至。興眾怖擾。太祖遣毗陵王順、以精騎衝擊獲興甲騎數百、斬首千餘級。興退南走四十餘里。魏引兵還、平亦不敢出。但使人燒圍數百歩而已。魏知興氣已挫、乃分兵四、據險要、南絕蒙坑之口。東杜、新阪之隘、守天渡、屯賈山。令平水陸絕路、將坐甲而擒之、又縁汾帶岡樹柵數十重、以衛芻牧者。使平不得近柴壁。九月、興從汾西北下、營憑壑為壘、欲以自固。又遣數千騎、乘西岸窺視魏軍。乃束柏材、從汾水上流縱之、欲以毀浮橋。魏軍皆鉤取、以為薪蒸。太祖度興必攻西圍、乃命修塹、増廣之。至夜、興攻西圍、梯短不及、棄之塹中、而還。又分其眾、臨汾為壘叩逼水門。與平相望、魏因截水中。興內外隔絕士卒喪氣。


秋七月、太祖は躬ら將士を帥い、親征す。八月、永安に次す。平は募りて驍將帥精騎二百を遣り、魏の虛實を覘ず。長孫肥は逆擊し盡く之を擒う。匹馬は返らず、平は遂に退走す。太祖は之を急追す。乙巳、柴壁に及ぶ。平は嬰城固守し、魏軍は之を圍む。興は乃ち悉く其の眾を舉げ、平を救わんとす。將に天渡に據さんとせるに、糧を運びて平に饋らんとす。太祖は興の將に至らんとせるを聞き、尚書右兵中郎の中山の李先に問きて曰く:「興は天渡に屯じ、平は柴壁に據し、相い表裏を為す。今、之を殄せるの計を欲す。將た安んぞ出でんや?」と。先は曰く:「臣は聞く、兵は正を以て合戰し、竒を以て勝すと。如し姚興の兵を天渡に屯ぜんと欲せるを聞かば、其の糧道を利るべきなり。其の未だ之に到らざるに及ばば、先に竒兵を遣りて先に天渡を邀うべし。柴壁は左右に嚴なれば、伏兵を設かば、其の表裏に備う。然る後、陛下の神策を以て時を觀、動くべし。興は進まんと欲せど退りたるを得ず、又た糧に乏しからん。夫れ髙きは敵の棲みたる所と為り、深きは敵に囚わる所と為る。兵家の忌む所なり。今、秦は皆な之を犯さば、戰わずして取りたるべかるなり」と。太祖は之に從い、乃ち重圍を増築し、內を以て平の出づるを防ぎ、外を以て興の入るを拒む。魏の廣武將軍の安同は曰く:「汾の東に蒙坑、東西に三百餘里有り。蹊徑の通ざざるに、興の來たるや必ずや汾の西よりなれば、直ちに柴壁に臨まん。此の如きなれば、則ち虜聲の勢は相い重圍に接す。固より制す能わざると雖ど、浮梁を為し汾西を渡し圍を築きて以て之を拒むに如かず。虜は至りても其の智力を施したる所無からん」と。太祖は以て然りと為し、遂に汾曲を截ち南北の浮橋を為し、西岸に乘りて圍を築く。興の蒲阪に至るに、魏の強久なるに乃ち兵を進めるを憚る。甲子、太祖は歩騎三萬餘人を帥い、蒙坑の南四十里を渡り、興を逆擊す。興は晨に行き北に引く。未だ安營に及ばざるに、魏軍は猝かに至る。興が眾は怖擾す。太祖は毗陵王の順を遣りて、精騎を以て衝擊し興が甲騎數百を獲、千餘級を斬首す。興は南に退きて四十餘里を走る。魏は兵を引きて還じ、平は亦た敢えて出でず。但だ人をして圍を數百歩燒かしむるのみ。魏は興が氣の已に挫かるを知り、乃ち兵を四に分け、險要に據し、南に蒙坑の口を絕ち、東に杜新阪を隘し、天渡を守り、賈山に屯ず。令し平が水陸の路を絕たしめ、將に甲に坐し之を擒えんとす。又た汾が縁の岡樹が柵を數十重に帶び、以て芻牧者を衛ず。平をして柴壁に近ぜるを得しまず。九月、興は汾が西北より下り、憑壑を營み壘と為し、以て自ら固めんと欲す。又た數千騎を遣り、西岸に乘じ魏軍を窺視す。乃ち柏材を束ね、汾水の上流より之を縱じ、以て浮橋を毀たんと欲す。魏軍は皆な鉤して取り、以て薪蒸と為す。太祖は興の必ずや西圍を攻まんことを度り、乃ち命じ塹を修ぜしめ、之を増廣す。夜に至り、興は西圍を攻むれど、梯は短かれば及ばず、之を塹中に棄て、還ず。又た其の眾を分け、汾に臨みて壘を為し水門を叩逼す。平と相い望めど、魏は因りて水中に截つ。興の內外は隔絕され、士卒は氣を喪ず。


(十六国56-6_衰亡)




下手に切ってもしょうがないよなーと思って一気に行ったらえらい文字数になった。つーかこの辺十六国春秋にしかない記述だーとか言おうとしたらまんま魏書だったんですね。ひーひー言いながら句読点打ったのがほぼ無意味だったと気付き泣いた。まぁ句読点打ちの鍛錬だと思いましょう。


というわけで、拓跋珪の「機を見るに敏」さがありありと描き出られていて恐ろしいです。なんだこいつ化け物かよ……。

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