姚興23 柴壁へ―十六国
晋書ではなぜか
微妙にわかりづらい。
改めて柴壁の戦いについてまとめよう。
401 年、進撃してきた
いっぽうで402 年3月、
思いもかけない来訪者があった。
皇族、
それぞれの子を人質として差し出し、
救援を姚興に求めた。
この当時、
すでに慕容垂も死亡、残った勢力は
北魏よりの圧力で分散、
姚興としても、かれらの存在が
南燕に対するけん制になると
踏んだのだろう。
領内での募兵の許可を下す。
するとかれらは数千の兵力を得て、
4月、
息子の
5月、姚平が柴壁城を攻撃。
城内の兵力は少なく、
やすやすと陥落させる。
が、6月。
先鋒の
三軍六万騎を率いさせ、攻めてきたのだ。
弘始四年春三月、晉襄城太守司馬休之、中郎劉敬宣、髙雅之俱奔洛陽、各以子弟為質、并求救於興。興與之符信、使於闗東募兵、得數千人、復還屯彭城間。夏四月、西秦乞伏乾歸遣其子熾盤來朝、興署為興晉太守。五月、平攻魏乾壁、六十餘日、壁中眾少失井陷之。六月、太祖將兵逆擊、遣毗陵王順、及豫州刺史長孫肥等三軍六萬騎、為先鋒。
弘始四年春三月、晉の襄城太守の司馬休之、中郎の劉敬宣、髙雅之は俱に洛陽に奔り、各おの子弟を以て質と為し、并せ救を興に求む。興は之に符信を與え、闗東に募兵せしめ、數千人を得、復た還じ彭城の間に屯ぜしむ。夏四月、西秦の乞伏乾歸は其の子の熾盤を遣わせ來朝せしまば、興は署し興晉太守と為す。五月、平は魏の乾壁を攻め、六十餘日にして壁中の眾の失いたる少きに之を井陷す。六月、太祖は兵を將い逆擊し、毗陵王の順、及び豫州刺史の長孫肥ら三軍六萬騎を遣りて、先鋒と為す。
(十六国56-5_仇隟)
なんで晋書はあんなぐちゃぐちゃな感じで書いてんでしょうね。「起こったことを出来事順に並べたらそうなっちゃったー☆」とでも言いたいんじゃろか。おかげで「なんで北魏戦に姚碩德がおんねん」とか混乱しちゃったっつうの。
というわけで次回、柴壁の戦い! 段落がクッソ厚くてしぬ(真顔)。
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