第13話 変えられるのは自分だけ

 私の話を天使は黙って聞いていた。少し硬めのせんべいをバリバリ食べる。粉が机の上に散乱している。もう少し上品に食べられないものだろうか。

「ふ~~ん。そんなことがあったんだ」

 天使はさも興味なさそうに返事した。

 「そうなんだよね。あの若い教師、葉山とか言ったかな。あの先生じゃなかったら、今ごろ翔也も不登校になっていなかったかもしれないんだよね」

私は聞いてもらえて満足していた。それなのに、天使が余分なことを言う。

「ねえ、あんたさぁ、ホントにその先生はダメな先生だったの?」

「えっ?なんでよ?」

「だってさ、翔也が家を飛び出したとき、向かった先は学校だったんでしょ?そんなに学校が嫌なら、そっちの方向には向かわないわよ」

私は黙って話を聞いた。

「それにその先生。家に来て翔也と楽しそうに話をしていたんでしょ?」

「うん、まぁ…そうだけど」

「ママさ~。翔也は何を望んでいたんだろうね?」

「えっ?」

「そう、翔也の気持ちはどうだったんだろう?」

 天使は新しいせんべいに手を伸ばした。反対の手で湯呑みをつかみ、「ズビズビズビ~♪」と汚い音を立ててお茶を啜った。

 「だから、学校に行きたいに決まってるじゃん!行きたかったけど、いじめっ子のせいで行けなくなったんじゃない。当たり前のことを聞かないでよ」

 天使は意地悪な表情を見せた。

「ママさ、あんた、いじめられたことないでしょ?いじめられたことがないから、いじめられる子の気持ちがわからないのよ」

私はカチンと来た。

 「私だって、小学生のとき、いじめられたこと、あるよ。家が貧しくて、きれいな服じゃなかったし。それを馬鹿にされたこともあったよ」

昔のことを思い出して、少しだけ感情的になった。

「でも、ママは学校に通い続けた」

「うん…、そうだけど…」

天使はさらにせんべいに手を伸ばす。両手に二枚ずつせんべいを握り、満足そうな笑みを浮かべる。

「いじめられても、ママは通い続けたし、翔也は通わなくなった。その違いはなんだと思う?」

「えっ…」

「学校に通う子もいれば通わない子もいる。その中には、いじめがきっかけだった子もいる。でもさ、いじめにあった子がすべて通わないわけじゃないでしょ?それはきっかけに過ぎないんじゃない?」

私はドギマギした。

 「違うわよ。あの子に根性がなかっただけ。私はいじめられても我慢して学校に行ったの。あの子が弱いだけよ」

「ねえ、本当にそう思ってる?」

私は言葉に窮した。

 「ところで、ママ。嫌いな食べ物ってある?」

「何よ、急に…」

「ほら、嫌いな食べ物は?」

「う~~ん、トマトかな…。トマトがどうしても苦手なの」

天使はより一層意地悪な表情を見せた。

「じゃあさ、あんた、今から努力してトマトを食べてみなさいよ。得意の根性でトマトを食べなさいよ」

「そ…そんな…、トマトなんて家にないし…」

怖気づく私に天使はほくそ笑んだ。

「あんた、アタシをだれだと思ってんの?天使よ、天使。超キュートな天使よ♡」

おっさん顔の天使が両手を胸の前で結び、祈りを捧げた。

 額から大粒の汗を垂らし、

「ムムムムム〜〜〜っ!」

と唸り声をあげた。

 すると、指と指の隙間から光りが溢れ出て、眩しく輝いた。結んだ手のひらを解くと、中から真っ赤なトマトが現れた。

「なんかトマトを一つ取り出すためだけに大げさじゃないの?」

そう嫌味を言う私のことなど目もくれず、天使は私の前にトマトを差し出した。受け取ることを拒否する私の頬に、トマトをギューギュー押し付けてくる。

 「なっ!何よ!私、トマトなんて絶対食べないから」

「あんた、何言ってんの!食べなさいよ、ほら、食べなさいよ!」

私たちは取っくみ合って、互いにトマトを押し付け合った。

「ほら、あんたの根性とやらを見せてみなさいよ」

天使は珍しく感情的になって、私を睨みつけた。私もなんだかわけもわからずに、

「嫌いなものは嫌いなのよ。なんで、嫌なものを食べなきゃいけないのよ!」

と怒鳴った。

 それを聞いた天使は、いやらしい声をあげて笑った。

「ぎゃはははは」

腹を抱えて笑い、涙を流した。

 「ほら、あんた、今、なんて言ったの?」

「嫌なものは嫌!って…」

「そう。嫌なものは嫌って言ったのよね?」

「い…、言ったわよ!」

天使は握ったトマトを丸ごと頬張る。グチュっと音を立てて、果汁が飛び散る。

「あ~、美味しいトマト。トマトが食べられないなんて信じられない。あんた普通じゃないわね。みんなトマトぐらい食べられるわよ」

「なっ…何よ。トマトぐらい。そんなもの、食べなくたって死にはしないわよ!」

「そうなの、ママ。偉いわ~~、ママ。よくわかってるじゃない?トマトなんて食べなくたって死にはしないわ。嫌なものは嫌なのよね。で、なんで嫌なの?」

「えっ…?あえて言うなら…、味も嫌だし、汁の感じ、ぐちゃってのも嫌い」

「あら、アタシは好きだけど…」

「あんたが好きだろうが、私は嫌いなのよ。他の人が好きでも私は嫌いなの!」

天使は意地悪そうな顔をさらに意地悪そうにさせて涙をこらえて笑っていた。

「なっ…、なんなのよ、あんた、さっきから」

そう憤る私の瞳をじ~っと覗き込む。その目の奥は笑ってなどいなかった。

「ねえ、トマトを学校に変えてみてよ。あんたが努力や根性で翔也をなんとか行かせようとした学校をさ、トマトと入れ替えてみなさいよ」

私はドギマギした。

「ちょ、ちょっと待ってよ。トマトと学校は一緒じゃないでしょ?トマトなんて食べなくたって困らないじゃない!」

「そう?じゃあ、お尋ねするけど、あんたさ~、学校に行かないと、どう困るわけよ」

「だ…だって、学校から電話もかかってくるし、学校に行ってないと肩身の狭い思いもするし…」

天使は意地悪に質問を重ねてきた。

「ねえ。本当に?」

「エッ…?」

「だから、本当に?」

「うっ…」

「それって、本当なの?翔也は困ってるの?」

「翔也はわかんないけど、私は困る!」

 それを聞いて天使は満足そうに人差し指と親指をくっつけてOKマークを作った。

「そう言うことよ。困ってるのは翔也じゃない。ママなの」

 返す言葉がなくて、湯飲みに視線を落とした。口の中に嫌な唾液が溢れてきて、ゴクっと飲み込む。

 「いい?問題を問題にしているのは問題と思ってる人間なのよ」

「どういうことよ?」

「翔也が学校に行かないことを問題だと思っていたのはママだけってこと」

「何言ってんの?みんな、問題だと思っていたわよ」

私は天使の言っていることが理解できなかった。いや、理解したくなかった。

「じゃあ、他にだれが問題だと思っていたのよ?ママ以外のだれが問題だと思っていたのよ?」

「だって…、先生だって心配してたし、旦那だって心配してたんだよ」

天使は頬杖をついて、私の話を聞いていた。

 「心配するってことと問題にするってことは同じなのかな?」

「えっ…」

「ママは翔也を問題だと思ったわけでしょ?それで必死に翔也を変えようとした。そうでしょ?」

私は黙ってうなづいた。

「そして、変わらない翔也にイライラをぶつけた。違う?」

「それは…。でも、翔也を思って…」

私は苛立った。けれども、意地悪な天使は容赦がなかった。

「じゃあ、質問を変えるね」

「うん…」

「翔也にとっての問題はなんだったと思う?」

「それは、いじめっ子でしょ?そんなのいじめっ子に決まってるじゃん!」

ムキになって答えたけれど、なんだかそれはもうどうでもいいような気がしていた。

「翔也が望んでいたことは何だと思う?」

「学校に行くこと…。いや…、本当は行きたくなかった」

天使は頬杖をついたまま、黙って先を促した。

「本当は行きたくない学校に、一生懸命行かせようとしていたのは私…」

「ママさ、あのときの翔也にとっての敵は学校じゃなかったのよ。翔也の敵は学校へ行かせようとするママだったの。翔也のためだと思っていたママの行動は愛だよ、愛。でも、その愛はママのエゴだったの」

「私のエゴ…?」

「そう。蟹アレルギーの人に、美味しい毛蟹をプレゼントするようなものよ」

「うれしくない贈り物ってこと?」

「そういうことね。それに、学校に行って死んだ子はいるけど、学校に行かなくて死んだ子はいないでしょ?学校なんてその程度のもの。行きたい子は行けばいいし、行きたくない子は行かなければいい」

 私はそんなの納得できなかった。学校は行くべきだし、休むのは良くないことだ。

 「だって、やっぱり学校に行かないのは問題よ。あんたには、人間の世界がわからないのよ。学校に行かないと困るんだから」

「何が困るの?」

「えっ…?」

「だから、何が困るのよ?」

「だって、普通は学校に行くものでしょ?そうでしょ?」

天使は呆れた顔で私を見つめてきた。次に何を言われるのか、ドキドキしていた。

 「今や学校に行かない子どもなんて十万人以上もいるのよ。その子たちが全員人生の路頭に迷ってごらんなさいよ。この国は破綻してるわよ。それに…」

「それに?」

「翔也が生きててくれてよかった。そうは思わない?」

私は言葉を失った。返す言葉も見つからない。

「あんたさ~。いじめを苦に自殺なんて話が山ほどある時代だよ。翔也は学校に行かないことを選んでくれた。あの子は生きている。それだけでも百点満点だと思わない?」

「それは、そうだけど…」

「あんたと翔也がぶつかった日。家を飛び出した日。あれが最後の日だったかもしれないんだよ…」

「ど…、どういうことよ…」

 「ママ、アタシは天使。ずっとママのことを見守ってたの。偶然、先生が通りかかったことは幸いだったのよ。あの先生には、ちゃんと虫の知らせを届けておいたわ♡」

 偶然、通りかかったわけではなかったってこと?

「もちろん、私にできることは虫の知らせを届けるだけ。だから、鈍感な大人には通じない。とりあえず、宇宙一鈍感なママにはまったく通じないんですけど」

 そう言ってお腹を抱えて笑った。

 「ママさ、最近太ってきたでしょ?」

「なっ…、何よ、急に。そりゃ最近は、あんたに付き合ってるから、間食が増えてはいるけど」

 確かに最近、お腹のお肉が気になり始めていた。

 「あら、ママ、心外だわ。付き合ってあげてるのはアタシの方なんだけど。それにそんなに太りたくなかったら、食べなきゃいいでしょ?人のせいにしないでよ、このデブ!」

「キ~~~~っ!何よ!デブはあんたでしょうが!!」

私は怒りに任せて、せんべいを口に入れた。バキっと心地よい音を立てて、せんべいが響く。

 「また、あんたはそうやってすぐに人のせいにする。お菓子をやめられないのは、アタシじゃなくてママの方。自分のことを太っていると思っているのもママ」

「あんたは自分のことを太ってるって思わないの?」

「何言ってんのよ。私たちは天使よ。ちょっとぐらい丸っこい方が愛くるしくていいじゃない?」

愛くるしいよりも暑苦しいの方がお似合いのその顔で、キュートに笑って見せた。そして、羽をパタパタ動かした。

「でも、あんたさ。この前、体が重すぎて飛べなかったじゃん…」

「……」

初めて意地悪な天使が狼狽した姿を見せた。

「案外、太りすぎて神様に怒られてたりしてね」

そう言うと、天使は下を向いて俯いた。そして、食べかけのせんべいを袋に戻した。

「そんなことよりママ。ダイエットとか、したことある?」

「えっ…?そりゃ挑戦したことは何度もあるわよ。でも、なかなか続かないのよね、ダイエットって」

「そう、ポイントはそこなの」

「どこなの?」

思わず私は聞き返す。天使は椅子に座りなおし、お腹のたるんだお肉を掴んだ。

「人間ってさ、すぐに他人を変えようとするじゃない?あそこがおかしい。ここがおかしいって」

「うん…、そうかもしれない」

「でもね、自分のことですら変えるのって大変なんだよ。ダイエットすら続けられないのが人間なの。自分で自分のことを変えることもできないのに、他人のことは変えられると思ってる。それって傲慢じゃない?」

 確かにそうだ。自分を変えることってなかなか難しい。間食を減らそうと思ってもついつい手を伸ばしてしまう。運動だって三日坊主だ。

 自分のことですら変えられないのに、他人を変えようと一生懸命になっていたんだ。私は翔也を変えようとしていた。先生を変えようとしていた。旦那を変えようとしていた。もしかしたら、この社会を間違いだと感じ、この社会すら変えたいと願っていた。

 「でもね、ママ。変えられるのは自分だけなの。私たちがコントロールできるのは唯一自分の行動だけなのよ」

「変えられるのは自分だけ…?」

天使は満足そうにうなづいて見せた。

 「そう、変えられるのは自分だけ。周りをおかしいと非難するのは簡単なの。でも、それは自分で自分の周りに問題を作っているだけね。学校の先生は間違っている、子どもたちは間違っている、旦那は間違っている。次々と問題を作り出す。でも、自分自身だけが変わっていかないから、問題の中に取り残されていく。それがあのときのママだったわけ」

 確かにそうだ。あのときは周囲が敵ばかりに見えた。

 五年生に進級すると、担任は女性の先生に変わった。それでも週に一度はあの葉山という先生が顔を出してくれた。思えば悪いことをした。翔也が唯一心を開いていた大人だったのかもしれない。

 変わるべきは私の方だったのだ。


 イジワルな天使の教え6

 『変えられるのは自分だけ』

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