第10話 足ることを知る
旦那は今日も遅いお帰りだった。食卓に並べた料理を温め直す。
「いいんだぞ。無理して起きてなくたって」
そうつぶやいて、ネクタイを緩める。
「あのさ…」
「んっ、何?」
「朝、ありがとね。台所、片付けてくれて」
旦那は何でもないという顔で、
「いや、まあ、昨日はうれしかったから。それぐらいやっとこうって思ってさ」
と照れ臭そうに話すと、お風呂場に消えた。
しばらくして戻ってくると、濡れた髪をタオルで乾かしながら、
「おっ!今日は刺身か。そんなに奮発して大丈夫なのか?」
と笑った。
「大丈夫だよ。こう見えても家計のやりくりは上手なんだから」
と笑い返す。こんなふうに笑い合えたのは、いつ以来だろう。
すると、ふっと旦那さんの笑みが消えた。
「なんか、変わったな」
「えっ?」
「いや…、何となくなんだけどさ。雰囲気が変わったっていうかさ」
私の胸がドキンと高鳴って、脈が上がるのが感じられた。
「お前、浮気とかしてない?」
「はぁ~~っ?バカなこと言わないでよ。こんなおばさんを相手にする人が、どこにいるのよ?」
そうやって自虐的に笑う私に、彼は冷たい視線を向けて、
「そんなおばさんを愛してんのは俺なんだけどな…」
とつぶやいた。
私、自分の顔が真っ赤になっているのに気がついた。
「なっ…なに言ってんのよ。バカじゃないの?ホントにバカじゃないの…」
狼狽する私を尻目に、彼はお刺身に箸を走らせ、口に運んだ。その顔はいかにも満足そうだった。こんなふうに美味しそうにご飯を食べる人だったっけ。ゆっくり話をすることも少なくなった。ゆっくり顔を見ることも少なくなった。
私がただ忘れていただけなのかもしれない。
「ねえ、仕事はどう?」
私は何気なく尋ねた。
「どう…って。いつもと変わらないよ。だから、給料も変わりそうにない」
そう言って笑った。
「本当はさ、家族旅行とか、俺も連れていってやりたいんだけどな。俺の稼ぎじゃ簡単じゃないよ」
彼は面白くなさそうに、新聞に手を伸ばした。
「これからは、翔也と柚月の学費だってかかるわけだろう?ちょっと切り詰めないとな。本当に、俺のことはいいから。夕食なんて、余り物で十分だからさ。気を使うなよ」
そう言うと、彼は茶碗のご飯を一気に掻き込んだ。
「そんなに急いで食べることもないのに…」
「いや…、寝不足だから、今日は早く眠ることにするよ」
私はなんだか申し訳ない気持ちになった。それで思わず、
「ごめんなさい」
とつぶやいた。
けれども、彼はそれがいかにも不服らしく、
「何言ってんだよ。俺が好きでやってることなんだから、謝られたら逆に気を遣うだろう?俺は今がとても幸せなんだ」
そう言うと、彼はバスルームの方に向かった。中から歯ブラシを走らせる音が聞こえてくる。
私はそれをBGMにしながら、我が身を恥ずかしく思った。
今が幸せだという彼。足りない足りないという私。一つ屋根の下で暮らしていながら感じていることは違うんだ。
ふと横に気配を感じると、頬が触れそうな距離に天使がいた。
「うわっ!びっくりした」
と言って仰け反ると、旦那が急いで顔を見せた。
「どうした?大きな声を出して」
彼は口の周りを歯磨き粉だらけにして、私を心配そうにしていた。
「なんでもないわよ」
と笑いながら言う私に安心したのか、彼は口をゆすぎに戻った。どうやら、天使の姿は見えないらしい。
「ママ、幸せの本質が見えてきたみたいね」
「えっ…、うん、なんとなくだけど」
天使は腕組みをして、
「人間はすぐに足りないものに目を向けるのよね。でも、本当に大切なのは今あるものに目を向けることなのよ。足りないものに目を向けるとね、ママ、あんたみたいにおはようからおやすみまで不幸の連続です、みたいな女になるのよ」
ホント、頭に来る天使だ。頭に来たので、ゲンコツで彼の頭をゴツンと叩いた。
「痛~~い。なんなのよ」
鈍い音とともに悲鳴をあげたのは、私の方だ。
「なんなのよ、あんた。どういう頭の硬さをしてんのよ」
「ママ、天使をなめちゃダメ。アタシたち、なかなかの石頭なのよ。いや、ダイアモンドヘッドね。発想は柔軟だけど、頭はガッチガチよ」
そう言って、自分の頭をコンコンと叩いた。
旦那が再び顔を出し、
「おい、さっきから何ひとり言ばかり言ってんだ?疲れてんだろ?早く寝ろよ」
と言った。
やがて、寝室の閉まる音が聞こえ、家中に静寂が訪れる。
「ねえ、お茶にする?」
「いいわよ」
天使がニコリと微笑んだ。
イジワルな天使の教え5
『今あるものに目を向けて、足ることを知る』
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