第9話 ありがとうの気持ち
翌朝、目覚めてリビングに行ってみて驚いた。食卓の上も、台所もきれいに片付けられていた。昨夜は遅くまでおしゃべりをしていて、そのまま眠りについたのだった。
「あんたさ~、なかなかいい旦那さんじゃない?」
いつもの声に振り返ると、天使が新聞を読みながら、声をかけてきた。
「ママ。旦那さんね、朝から早起きして、台所、片付けてたわよ。あんたが起きないように注意してね。なかなか可愛げのある旦那じゃない?」
いいかげんでズボラな私と違い、旦那は几帳面なところがある。キッチンの水しぶきまで丁寧に拭ってあるところなど、彼らしいなぁと思った。
思わず微笑む私に、天使が話しかけた。
「私たちって、すぐに相手の足りないところに目を向けるじゃない?でも、そうじゃないのよね」
「どういうこと?」
「いい?あの人のここがダメ、この人のここがダメってさ、ついつい出来ていないところにばかり目が向くの。これはもう、人間の習性よね」
悪いところにばかり目がいくのが習性…とはどういうことだろう?
「ほら、例えば子どものテストね。全部100点なんだけど、1教科だけ99点だとするじゃない?あんたなら、どんな反応する?」
「それは…、なんで99点なの…ってなるよね。何を間違えたの?って思うのが普通じゃない?」
天使は満足そうな笑みを浮かべて、コーヒーメーカーを指差した。
「ママ、とりあえず、コーヒーを淹れてちょうだい。ブルマンね」
「だから我が家はスーパーの特売品だって言ってるでしょ?」
私は冷蔵庫からコーヒー豆を取り出すと、コーヒーメーカーにセットした。やがて、ポタポタと水が滴り落ち、リビングをコーヒーの香りで埋め尽くした。
「で、話の続きなんだけど、100点がずらっと並んだら、それってすごいことでしょ?でも、人間は99点に目が向くのよ。これはもうね、どうしたって向くのね」
「うん、まあ、それはわかる気がする」
「ママ、自分のいいところ、いくつ言える?」
「エッ…」
私は答えが思いつかず、内心恥ずかしく思った。自分のいいところなんてあるのだろうか。
「じゃあ、ママ。自分のダメなところは?」
「う~ん、怒りっぽいし、飽きっぽいし、がさつだし、うっかり屋さんだし。家事も得意じゃないし、子育てもね…、子どもが二人も不登校じゃママ失格よね…」
それを聞いて、天使は意地悪そうな顔をした。
「ほら、そうでしょ?」
「何がそうなのよ」
「だから、人間はダメなところにばかりフォーカスするのよ。いつもいつもできていないところを探し続けてるの。そうやって、自分を傷つけていることも知らずにね」
「自分で自分を傷つけてるってこと?」
「そういうことよ。私はダメな母親だって思ってるのはママ自身でしょ?」
私は黙り込んでしまった。先日お会いした不登校の子どもを抱えるママさんたちは、自分のことを「ダメな母親」だとは思っていなかった。子どもが学校に行かないことを受け入れていたように思う。
一方、私は子どもは学校に行くべきだと思っていたし、行かせることができない私自身を「ダメな母親」だと決めつけていた。
そう、彼女らは「今」を受け入れていたし、私は「今」を受け入れることができずにいたんだ。
「ねえ、どうしたらいいんだろう?」
私は天使に尋ねた。
「無意識にダメなところにフォーカスするってことを意識することよね」
「意識する?」
「そういうこと。人間はダメなところにフォーカスするってことを知って、意識するの。つまり、意識してうまくいってることに目を向けるのよ」
うまくいっていることを意識する。そんなことってできるのだろうか。
「ねえ、ママ。昨日はパパさんと、どんな話をしたのよ?」
急に話が変わったので、私はハッとした。
「エッ…、子どもの話ができなくて…」
「ほら、また」
そう言って、天使はまた意地悪そうにほくそ笑んだ。
「あんたさ~、もういいかげんにしなさいよ。この全力不幸女♡」
「何よ!おっさん顔の天使の分際で!!」
天使は悪びれもせず、私の顔に「ゲプ~~~っ」と臭い息を吐きかけた。私は思わず、息を止めた。
「だからさ~、すぐにできていないことに目を向けるクセを直しなさいって言ってんの。うまくいってることは何か、考えなさいよ」
私は自分に問いかけた。うまくいってること?そんなことってあるの?
ふと、昨日の旦那の顔が浮かんできた。久しぶりに話をしたんだった。そんなことすら私は忘れてしまう。私ってダメな妻だ。
「ほら、あんた。また、自分で自分を責めたでしょ?だから、全力不幸女なのよ、あんたは」
返す言葉がなくて、顔を赤らめた。私はいつだって自分の不幸に目を向ける。世界で一番かわいそうな女だと思ってしまう。
だって、それが私だから。
「昨日ね、旦那といろんな話をしたんだ…。彼の子どもの頃の話もしたよ。お父さんが暴力を振るう人でね。辛かった話もいっぱいしてくれたんだ…」
私の頬を、また涙がつたう。もう、毎朝泣いているじゃないか。
「そんなふうに話せる夫婦ってなかなかないわよね、ママ」
テーブルの上のティッシュケースを私の前に押し出すと、天使は二つのマグカップにコーヒーを注いでくれた。
「それに、今朝だってこんなふうに台所を片付けてくれて。毎日、朝はやくから夜遅くまで、家族のために働いてくれてるんだよね」
天使はただ黙って私の言葉に耳を傾けていた。こういうときの沈黙って温かい。
「感謝よね…」
天使がポツリとつぶやいた。
「私たちってすぐに今あることを当たり前って思っちゃうの。感謝の反対は当たり前なのよ。すぐにありがとうって気持ちを忘れてしまうのよね」
確かにそうだ。会社に行くことも、家事を手伝ってくれることも、やってくれて当たり前って、私は思ってたんだ。だから、いつだってなんで早く帰ってこないの?なんで子育てを手伝ってくれないの?って責めてた。いつも不満だった。私、ダメな妻だった。
「ほら、また…」
天使が呆れた顔で私を見つめる。
「また、自分を責めたんでしょ?は~い、私、不幸なダメ女で~す♡って」
「なっ…、何よ。反省してるんじゃない?悪いことじゃないでしょ?」
天使はなおも意地悪そうな顔で私の瞳の奥を覗き込んだ。
「言っとくけど、ママのは反省じゃないから」
私の心臓がビクッと跳ね上がった。
「反省ってのは、その瞬間から変わることを言うの。ママはただ後悔してるだけ。ずっと同じ場所を行ったり来たり。だから、現実は何も変わらない。それでもって、私は不幸~♡私は不幸~♡って全力でアピールする。一番ウザい貧乏神みたいな感じね。いや、貧乏女神ね」
「何よ!貧乏女神って」
「いいじゃない?不幸が服着て歩いてるようなもんなんだから」
「キ~~~~っ!!このクソ天使~~~~っ!!」
いきり立つ私に、天使は冷ややかな視線を送った。
「それで、ママはどうしたいの?」
「えっ?」
「だから、ママはどうしたの?」
「どうしたいって…」
「変わるのもママの選択だし、変わらないのもママの選択だよ。あんたはどうしたいのよ?」
天使は黙ってコーヒーを啜った。「ズビズビズビ~~」と汚い音を立てた。
「私、変わりたい…」
「じゃあ、そのためにママにできる小さな一歩は何ですか?」
私にできる小さな一歩…。何度も何度も問いかけた。自分自身に問いかけた。
「あのね…、できてることに意識を向けてみる。うまくいってることを言葉にしてみるよ」
それを聞いて、天使はにっこり微笑んだ。
「いいじゃない、それ。できてること、うまくいってること、アタシにも教えてよ」
「うん、そうだね。貧乏女神を卒業するよ」
イジワルな天使の教え4
『いつだって「ありがとう」の気持ちを忘れない』
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