第8話 ふたりの距離
「なんだ?夕食、まだだったのか?」
食卓には二人分の食器が並び、その中心でグツグツと音を立てて土鍋が煮えている。美味しそうな香りがリビングいっぱいに広がる。
「ううん…。一緒に食べようと思って、待ってたの」
「へ~っ…。珍しいこともあるもんだな。なんかあったの?」
「たまたまね、鍋の食材が安かったの」
「そう…。わかった。着替えてくる」
そう言って旦那はリビングを後にする。なんだか拍子抜けするほど、あっさりと受け入れてくれた感じがした。
シャワーを浴びて戻ってきた旦那と軽く乾杯をした。今日は、ニコニコしていようと心に決めていた。
「それで、翔也と柚月はどうなんだ?」
鍋を突きながら、彼は何気なく尋ねてきた。それがなんだか興味本位という感じだったものだから、私は少しだけイラ立った。
「う~ん、どう…って。柚月は今日も学校に行けたんだけどね」
彼はビールを流し込むと、さも美味しそうに声を出し、
「学校に行くのは当たり前だろ。それが普通じゃないの?」
と言った。
「まあ、そうだけど。今日ね、不登校の子を持つお母さんたちのグループに参加してきたの」
「へぇ~っ…、それで?」
「うん、今はね、学校に行かない子も増えてるんだって」
「だから?」
「エッ…」
私は返事に困ってしまった。だから、翔也や柚月が学校に行かないことも悪くない、と言いたいのに言えない自分がいた。
黙っている私に、旦那はさも軽いトーンで話を続けた。
「学校に行かない子が増えてるかもしれないけどさ、俺は学校に行くべきだと思ってるよ。それが普通でしょ?そう思わない?」
普通って何よ…。ここまで出そうになった言葉も、喉の奥でつっかえたように声にならない。
「そのあたりが、翔也にもちゃんと話した方がいいと思うよ」
そこまでわかってるなら、あなたが言ってよ。翔也にあなたが話してよ。どうして、その一言が私、この人には言えないのだろう。
黙り込んだ私には気にもかけず、左手で器用にスマホを操りながら、彼は箸を走らせていた。私は味のしなくなったビールを口に運んだ。
ふと、話題を変えようと思った。今日はニコニコ過ごすのだ。子どもの話をしてたんじゃ、暗い気持ちになってしまう。
「ねえねえ、ところでさ、今度、旅行に行かない?」
突然話題が変わって、彼は一瞬たじろいだ。
「なんだよ、急に。まあ、いいけど…」
「行きたいところとか、ある?」
「行きたいところかぁ…。そんなこと、急に聞かれてもなぁ」
彼は一瞬逡巡して一言、
「そういうのはお前に任せるよ」
とポツリと言った。私は少しだけ残念な気持ちになった。
「どこでもいいんだよ」
「あのさ…、俺、あんまり家族旅行とか行ったことないから…」
彼はそれだけ言い残して席を立つと、冷蔵庫から新しいビールを取り出してきた。缶は「プシューっ」と軽快な音を放つ。
しばしの沈黙を待って、彼は重たい口を開いた。
「俺さ、子どもの頃、あんまり両親といい思い出がなくてさ。親子の会話っていうの?した記憶がないんだよね」
「そういえば、子どもの頃の話なんてしたことなかったもんね」
私も母に女手ひとつで育てられた身だった。結婚式には、私も旦那も母親だけが参列したのだった。お父さんの話を彼はしたがらなかった。
「うん、まあ、話したくないこともあるじゃん」
「そうだね…」
私は、彼の空になったグラスに、ビールを注いだ。少しだけ泡の多くなったビールを、「ありがと」と言って口に運んだ。
子どもたちが「おやすみ」と言ってリビングを後にする。少しだけ薄暗くなった部屋で、彼は幼い日の話をしてくれた。
彼の父親は、酔うと暴力を振るうような人だった。日ごろは温厚なのだが、酔うと手がつけられなくなる。彼自身も幾度となく殴られたが、よりひどく傷つけられたのは母だった。
母と二人、逃げるように家を飛び出したのは、小学生の頃だった。それからというもの、身を寄せるところのない母と二人、苦労の連続だったという。
「だからさ、俺、翔也や柚月とうまく話ができるか、不安なんだよ」
彼はポツリと言った。私はそれを黙って聞いた。
幼い日の彼の話はショッキングだったけれど、心を開いて話をしてくれたことがうれしかった。私も彼も似たような境遇だった。それもまた、二人の距離を近づけたのだと思う。
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